出雲市青木遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、青銅祭器の祭祀は後期後半も続いていたということでしょう。祭祀が終わるのは他の地域と同様に弥生時代の終わりになるようですが、四国の太平洋側では大型化した銅矛や銅鐸を受け入れているのに、瀬戸内や山陰はなぜ受け入れなかったのでしょうか。
この謎を解く鍵は出雲の特殊神事「出雲神在祭」にありそうです。旧暦の10月を「神無月」と言いますが、全国の神々が出雲に参集するために神々が居なくなるのでこのように呼ばれるとされ、出雲では逆に神在月になります。
宇佐神宮の放生会神事も規模の大きいことや、全国の八幡宮で行われることなど似ている点がありますが、「出雲神在祭」のように祭神の異なる神社が同じ神事を行うのではなく、全国から神々が集まるということも言われていません。
私は「出雲神在祭」の始原は部族の統治形態が「合議制統治」であったことによると考えています。小説家・思想家の白柳秀湖(1884~1950)は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神有在祭がツングース族の「ムニャック」という「寄り合い評定」に似ていると述べています。
鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです。「出雲神在祭」で神々が出雲に参集するのは宗族の族長など有力者が召集され、いわば今日の「通常国会」に相当するものが開かれたということで、異常時には「臨時国会」に相当するものも召集されたようです。
江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は遊牧生活の変わり目に国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。
それには匈奴国家を形成する全部族(宗族)が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺されたと言います。匈奴も鮮卑と同様に部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。
鮮卑・匈奴の例などから見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったでしょう。出雲神有在祭の原形は有力者を招集して行われる、白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だと思われます。
出雲の場合にも匈奴の例のように「寄り合い評定」に強制力があり、故意に出席しないと国に対する敵意・謀反と受止められて抹殺されることもあったでしょう。荒神谷遺跡・賀茂岩倉遺跡にこれだけ多数の青銅祭器が集まったのは「寄り合い評定」の合意によるものであり、それに強制力があったからでしょう。
出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議の他に 、酒作りや料理のためとするものもありますが、第一の目的は「縁結び」だったと思います。出雲大社が「縁結びの神」とされるのは祭神の大国主に多数の妻が居ることから艶福の神とされ、良縁に恵まれるからだと言われています。
これは俗説であって、「縁結び」とは部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、それが争乱に発展したことから、強引な通婚と青銅祭器の配布を規制するものであったと考えます。余談ですが出雲の神は縁を結ぶ神であると同時に、道ならぬ縁を戒める神でもあるということになりそうです。
通婚を国家権力で規制すれば、部族は勢力を拡大することができず争乱も起きなくなります。これは部族の構成が固定されるということであり、青銅祭器を配布する必要がなくなるということです。
それに伴って「寄り合い評定」を召集する王(巨帥・統領)や、それに参加する宗族長など有力者個人の権威が高まり、四隅突出型墳丘墓が急に大型化すると考えられます。青銅祭器を製作・配布するエネルギーが、墳墓を巨大化させる方向に向かったとも言えるでしょう。
それが青銅祭器の祭祀が行われなくなったと考えられているのですが、「寄り合い評定」は合意があって初めて機能します。女王国では部族間の対立があり卑弥呼の下した神意が合意と見なされたようですが、出雲の場合には通婚を規制して部族の対立を防止する「根回し」が行われていたようです。
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