2011年7月17日日曜日

出雲神話 その2

青銅祭器は部族が通婚によって同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、青銅祭器を配布した部族の部族長と、配布を受けた宗族長の間に「擬似冊封体制」ともいうべき関係があったと考えるのがよいようです。

北部九州では青銅器は中細形になるまで副葬されますが、他の地方では中細形はすでに祭器になっており、中国地方で祭器になったことが考えられています。最近では九州で最古式の銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

冊封体制については貢物を献上するという名目の貿易だと言う考え方もあるようですが、倭人伝では賜与の品を国中の人に示して国家(魏)が、汝(卑弥呼、及び倭人)を哀れむ(慈しむ)ことを知らしめよと命じられています。

これは貢納品に対する返礼の品が分与されたことを示していますが、分与する者とそれを受ける者との間には、魏の皇帝と卑弥呼の関係のような主従関係が存在したことが考えられます。

紀元前194年~180年に衛満が朝鮮に亡命し、箕氏朝鮮の最後の王であった準を追い出し、大同江流域の王険城(平壌)を国都に定めて朝鮮王と称するようになります。このころ朝鮮半島では多鈕細文鏡が作られています。

また銅矛、BⅡ式銅剣・銅戈・銅鐸が造られそれが倭国に流入してきます。これが朝鮮式銅鐸や、細形に分類される利器だと考えられますが、これは衛氏朝鮮と倭人の交流を示すものでしょう。

紀元前108年には武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪など四郡を設置しますが、前82年に真番、臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。

倭国は楽浪郡を通じて前漢の冊封体制に組み込まれて百余国が遣使し、前漢鏡や前漢製の青銅利器が流入してきます。百余国が遣使したのは前漢時代の後半で政情の最も安定していた宣帝・元帝(紀元前74~33)の時代でしょう。

王莽の時代に鋳造された貨泉が流入するのを最後に、鏡以外の青銅器の流入は止まるようですが、その後も青銅器を尊重する風習は残り祭器に変わっていくと考えます。つまり青銅器が祭器に変わるのは王莽の時代だと考えるのです。

それは王莽の時代に儒教の「礼」が国家教学として確立したことと関係がありそうです。儒教の礼に「君臣の礼」があり、君主と下臣の間の秩序を守ることが要求されましたが、それは冊封を受けた倭人の王にも適用されたでしょう。

後漢は25年に成立しますが、57年に奴国王に金印を授与したのはその現われであろうと思います。それは倭人の王と下臣の関係にも影響し、部族を構成している宗族の族長には王との間だけでなく、さらに部族長との間にも「君臣の礼」が要求されるようになったということでしょう。

中国と冊封関係にあった王は皇帝から下賜された銅鏡を分与することが可能ですが、冊封関係のない王にはそれができません。それができたのは奴国王・面土国王、そして卑弥呼・台与だけです。おそらく銅鏡には皇帝が下賜した印綬のような性格があるのでしょう。

そこで王を擁立する可能性のある大部族が考え出したのが、銅鏡以外の青銅器を鋳造して配布することで「擬似冊封体制」を構築すことだったと考えます。銅剣・銅矛・銅戈が利器から祭器に変わる経過は分かりませんが、九州で最古式の福田形銅鐸が鋳造されたことが分かってきています。

私は福田形銅鐸を青銅器が祭器に変わる最初の時期のものだと考えます。銅鐸を祭器に変えたのは楽浪郡に対抗した朝鮮半島からの渡来民の子孫だと考えるのも面白そうです。福田形銅鐸が中国地方に配布されたことで、中国地方では銅剣も祭器になっていくと考えます。

そして青銅器の鋳造技術を持っていた九州でも銅矛・銅戈が祭器に変わるのでしょう。九州では北方遊牧民の風習を始原とする銅鐸が早い時期に姿を消しますが、九州では中国の青銅器を副葬する風習の影響を受けて、中細形の段階になっても副葬されるものがあると考えます。

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