2011年8月7日日曜日

西谷墳墓群 その1

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』図録からお借りしたものですが、私はこの図に出雲神話が集約されていると思っています。右下に図の説明がされていますが、字が小さくて読み難いので右側に書き出してみます。

神庭荒神谷遺跡に青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国にも先駆けて吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した。しかし、ほかの地域は青銅器そのものをさらに巨大化させることによって、青銅の神をまつり続けようとしていた

図には山陰や吉備で銅剣・銅鐸が姿を消した弥生時代後期後半の状態が示されていますが、北部九州と四国西部に広形銅矛が分布し、近畿と四国東部にⅣ式・Ⅴ式の近畿式銅鐸が分布し、東海西部に三遠式銅鐸が分布するようになります。

3世紀後半にすべての青銅祭器が姿を消して古墳が出現しますが、山陰や吉備では古墳の出現に先立って青銅祭器の祭祀をやめて墳墓の祭祀に変えた、周囲ではその後も青銅祭器の祭祀は続いていたと説明されています。

青銅祭器の祭祀に替えて吉備では特殊器台・特殊壷を用いた墳墓の祭祀が行われ、山陰では四隅突出型墳丘墓と呼ばれている墓が特に大型化しますが、それが「王の神格化に成功した」と述べられています。

荒神谷遺跡の銅剣358本は岩永省三氏の分類による中細形c類で、中期末~後期初頭のものと言われています。銅矛16本は2本が中細形で、2本が中広形a類、12本は中広形b類だそうですが、中細形は中期後半のものであり、中広形は後期前半のものだとされています。

銅鐸6個は最古形式のⅠ式が2個、古形式のⅡ式が4個ということで、中期のものとされています。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個には荒神谷の銅鐸に続くⅡ式・Ⅲ式が多く、Ⅳ-1式も3個あるということですが、Ⅳ-1式以後の新形式の銅鐸が見られなくなります。

出雲国の青銅祭器は荒神谷の12本の中広形銅剣b類、加茂岩倉のⅣ-1式銅鐸を最後として姿を消しています。瀬戸内海沿岸に分布する平形銅剣もⅠ式とⅡ式に分類され、Ⅱ式は広形銅矛に平行する時期のものではないかとも言われていますが、やはり同じころに姿を消すようです。

荒神谷遺跡の中広形銅矛b類は後期前半の末期に鋳造されたとされていますから、それが埋納されるのは後期後半でなければいけません。上図には後期後半の状態が示されていることになります。

通説では後期の始まりは1世紀中葉とされていますが、私は107年に面土国王の帥升が遣使したことが原因になって中期から後期に移っていくと考えています。しかし後期の終わりは270~80年ころと考えるので、後期中葉は通説と大差はなく2世紀末の倭国大乱、卑弥呼が共立されたころになると考えます。

九州の銅戈は中広形の段階では銅矛を凌駕する数が鋳造されていますが、広形になると激減しています。その原因については倭国に大乱が起きて面土国王から卑弥呼に倭王位が移り、面土国王を擁立した銅戈を配布した部族が衰退したことによると考えています。

九州の大乱に連動して中国・四国地方でも争乱が起きるようです。九州の争乱は銅矛と銅戈を配布した部族の対立ですが、中国・四国地方では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立する関係にあったが、その対立に銅矛を配布した部族が介入したことで争乱に発展したようです。

神話では中国・四国地方の争乱がスサノオのオロチ退治として語られているようです。オロチが娘を呑むというのは、銅矛を配布した部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、荒神谷遺跡の中広形銅矛を配布したことが語られているようです。(2009年12月投稿)

上図の解説では倭国大乱以後、出雲や吉備では青銅祭器の祭祀は行なわれなくなるとされていますが、強引な通婚が規制されて、青銅祭器を鋳造することやそれを受け入れることはなくなるものの、祭祀そのものはその後も続くと思っています。

2 件のコメント:

  1. 今回初めて当ブログを閲覧させていただきました。

    岐阜県在住の高校生です。苗字を宗像と申します。

    非常に興味深い内容で、とくに面土国=宗像という箇所に非常に興味を覚えました。

    私は父方の祖父から宗像の血を受け継いでおりますが、その家紋は『一に半菊』というものです。

    面土国という言葉を私はずっとかつての日本に存在した先住の人々であった『熊襲』や『隼人』、『蝦夷』を指すものと思っていましたので『宗像』を指すものだっというのは考えてもみませんでした。

    祖父は、宗像一族で現在まで残っているのは農民や商人に身を落としたものだろうと言っていました。

    九州から始まっているだろう宗像一族の中から海流に乗って各地に散った者たちがおり、祖父の先祖たちは福島県に流れ着き定住したと言っておりました。

    祖父の生まれ故郷の福島の村は俗に『宗像村』と呼ばれていて村の人間のほとんどが『宗像』の性で占められていたそうです。

    今年、弟の夏休みの研究で『宗像氏』の歴史について研究するのですが、宗像氏について(および面土国=宗像に関してと邪馬台国との関係等々)ご教授していただけないでしょうか。

    自分は歴史や民俗学等に興味は持っておりますが、弟をサポートできるような知識は持っていないのでお頼みしたいと思います。どうかよろしくお願いします

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    1. はじめまして。私も宗像と言います。父は福島県出身です。
      家紋は二つ引き両です。
      宗像氏を調べて頂き、何か発見は有りましたでしょうか。
      私の先祖が九州の宗像氏なのかはわかりません。

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