2011年9月11日日曜日

西谷墳墓群 その6

弥生時代には出雲だけでなく全国各地で「寄り合い評定」が行われていたようです。大和の纒向遺跡は卑弥呼の都であったと喧伝されていますが、初期の纒向遺跡もやはりそうした「寄り合い評定」の場だったと考えています。

そして出雲では西谷墳墓群の北2キロにある万九千神社付近が「寄り合い評定」の場になったと考えます。西谷墳墓群の2号墓・3号墓は復元されていて墳丘上に登ることができ、墳丘上からは斐伊川下流域を見渡すことができます。

その視界の中央に、万九千神社と立虫神社の2社が同じ境内で祭られています。万九千神社から斐伊川を渡った対岸の出雲市大津は、中世に陸路の山陰道と斐伊川による河川交通交差する港町として栄えた所です。

立虫神社は元は大津に近い所にあったが斐伊川の洪水で川筋が変わり現在地に移ったと言われています。大津の地名が示しているように万九千神社・立虫神社の付近は、弥生時代にあっても斐伊川流域の交通の要所になっていたようです。

そこが「寄り合い評定」の場になっていたようで、付近の地名を「神立」と言っています。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が万九千神社に集まって饗宴を催し、その後に各地に帰って行くのでこのように呼ぶと言われています。

仮に「寄り合い評定」に集まってきた人々が「寄り合い評定」の経てきた歴史を語り伝えたとしたら、その舞台は万九千神社周辺や、その南2キロにある西谷墳墓群が中心になるはずですが、事実、出雲平野や斐伊川流域・神戸川流域が神話の中心になっていると言えるようです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の年代は1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になりますが、1号墓・3号墓は後期後半の初頭倭国大乱のころになるそうです。私は倭国大乱が中国地方に波及してきたことが、スサノオのオロチ退治として語られていると考えています。

2号墓・4号墓は後期後半の中葉で、布波能母遅久奴須奴神、深淵之水夜礼花神・淤美豆奴神の活動する時期になりそうですが、八島士奴美・布波能母遅久奴須奴については具体的な活動が見られません。深淵之水夜礼花も水の神格であり斐伊川との関係を感じさせますが、この地との直接の関係を示すものがありません。

淤美豆奴については『出雲国風土記』の八束水臣津野と同神とする説があり、国引きについては意宇郡に伝承がありますが、万九千神社に近い斐川町富村の富神社には、国引きを終えた八束水臣津野がこの地に住んだという伝承があります。

『出雲国風土記』杵築郷の条、伊努郷の条にも八束水臣津野に関する記述が見え、少なくとも八束水臣津野については斐伊川の下流部や出雲大社の周辺が活動の場になっています。

6号墓・9号墓は後期後半末期~古墳時代初頭で、出雲神話では天之冬衣・大国主の活動する時期になりそうです。天之冬衣には日御碕神社の宮司家の祖という伝承があり、大国主は出雲大社の祭神になっています。

4号墓と6号墓の間に位置している5号墓は、四隅突出型墳丘墓ではなく詳細が不明ですが、4号墓・6号墓との位置関係から弥生終末期のものと考えられています。このように考えると3号墓の被葬者はスサノオであり、最大の9号墓の被葬者は大国主だということになってきそうです。

しかしスサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、一面では銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になった面土国王でもあります。また大国主は銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、大和盆地の支配者という一面を持っています。

『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治が見られませんが、7代に亘る西谷墳墓群の被葬者の王統に、筑紫のスサノオや大和の大国主の事跡、或いは青銅祭器を配布した部族が結び付けられ、『古事記』『日本書記』の出雲神話が形成されたと見るのがよさそうです。

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