2011年7月10日日曜日

出雲神話 その1

日向神話・高天原神話に触れてきましたが、当然のこととして出雲神話にも触れないわけにはいきません。一昨年6月に投稿を始めて今回で202回目になりますが、その間には小さな修正はしましたが大筋の考えは一貫しているつもりです。それを再確認しつつ出雲神話に挑戦してみようと思います。

今まで述べてきたことを大別すると、①面土国に関するもの ②「稍」と冊封体制に関するもの ③面土国王とスサノオに関するもの ④部族と青銅祭器に関するものになりますが、それぞれは独立しているのではなく相関々係にあると考えています。

①面土国に関するもの
倭人伝の記事の多くは正始8(247)年に黄幢・詔書を届けに来た張政の面土国での見聞ですが、面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。方位が南とされている邪馬台国・投馬国は宗像郡の南に位置しているはずです。

倭人伝・韓伝以外の諸伝の千里は魏里の300里(130キロ)ですが、倭人伝・韓伝だけは150里(65キロ)になっており、倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡(面土国)の土穴・東郷付近です。現在の宗像市役所の周辺ですが、「自女王国以北」は遠賀川流域になります。

②「稍」と冊封体制に関するもの
弥生時代後半(紀元前後以降)の倭人は朝鮮半島に在った楽浪郡・帯方郡を介して、後漢・魏の冊封体制に組み込まれますが、冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に遣使・入貢するのを妨害してはならないというものがありました。

冊封を受けた国の領域は「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限されていましたが、それより以遠は隣国になります。これを「稍」と言い「稍」は260キロ四方になります。

魏と冊封関係にあったのは北部九州の女王国(筑紫)だけでしたが、冊封体制は職約(義務)によって自動的に南九州(侏儒国、日向)や中国・四国地方(女王国の東の国、出雲、或いは近畿・北陸(越)地方に及ぶようになっていました。東海東部や関東にも及んでいたことが考えられますが、神話はこれに言及しておらず、青銅祭器の分布も希薄です。

「稍」にはそれぞれ部族によって擁立された首長(王)がいますが、筑紫の王が卑弥呼・台与(天照大神)であり、出雲の王が大国主です。邪馬台国が筑紫・畿内のいずれにあったにせよ、南九州や中国・四国地方は独立した国であり女王の統治下にはありませんでした。

③神話に関するもの
天照大神が卑弥呼・台与であるとはよく言われていることですが、白鳥庫吉はスサノオについて狗奴国の男王であろうと言っています。しかし面土国が宗像郡だというのであれば、宗像三女神との関係などからスサノオは面土国王だと考えることができるようになります。

北部九州の「稍」、つまり筑紫の歴史が「高天原神話」であり、南九州の「稍」の歴史が「日向神話」になります。中国・四国地方の「稍」の歴史が「出雲神話」ということになりますが、そうであれば「大和神話」や「越神話」もあるはずです。しかしこれは「出雲神話」の中に含まれています。

神話の主テーマは北部九州勢力が「稍」を統合して統一国家の倭国を出現させたことですが、大和や越の神話が出雲神話の中に含まれるのは、北部九州から見て出雲を統合することと、出雲以東を統合することとが同義だからです。出雲ではなく大和が中心になってもよさそうなものですが、これは「稍」の地理的な位置関係があり無理なことです。

④部族と青銅祭器に関するもの
倭人が中国の冊封体制に組み込まれたことにより部族は地縁・血縁的な文化的結合体から、支配者階層が通婚することによって結合した政治的結合体に変質し、王を擁立するための組織になっていくようです。

部族は通婚によって同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布しますが、「稍」によって分布する青銅祭器の器種が異なり、北部九州には銅矛・銅戈が、中国・四国には銅剣・銅鐸が、また近畿・東海西部には銅鐸が分布しています。

部族は王を擁立しますが王の擁立を巡って対立しました。倭人伝に見える倭国大乱や卑弥呼死後の争乱は、北部九州の銅矛と銅戈を配布した部族が対立したものですが、中国・四国地方の「稍」では銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族が対立したことが考えられます。

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