2011年7月2日土曜日

高天が原神話 その6

弥生時代の人物と言えば卑弥呼・台与ということになってきますが、難升米あっての卑弥呼・台与と言えるようで、その後の倭国は難升米の予想した通りに女王制が有名無実になり、やがて倭人の統一国家、つまり大和朝廷の統治する倭国が誕生するようです。

図は私の考える思金神に関わる『古事記』の神統と、それに対応する倭人伝中の人物を推定したものです。台与が天照大神であり大倭が高木神であるのなら、高木神の子とされホノニニギの叔父とされている思金神を難升米とするのがよさそうです。

思金神は書によっては「思兼神」「八意思兼神」とも書かれていて深謀・遠慮する神だと考えられています。天照大神・高木神が他の神に指令を下す「指令神」であるのに対し、思金神はその指令を(ことに高木神の指令を)具体化して進言する神として描かれています。

思金神と難升米は性格が似ていますが、図の系譜を倭人伝中の人物の血縁関係が示されていると考える必要はないようで、言わば247年ころの女王国内のパワーバランスが示されていると考えればよさそうです。

安本美典氏は台与を万幡豊秋津師比売だとされていますが、オシホミミが卑弥呼死後の男王であり、ホノニニギが台与の後の王だと考えられますから、その可能性もあるように思います。

とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです。

『日本書記』は神の尊称の「命」と「尊」を明確に使い分けており、天皇の祖には「尊」が用いられています。このことから『日本書紀』の一書に見える稚日女尊(台与)と大孁貴(卑弥呼)を合成したものが天照大神だと考えていますが、これは伝承した氏族が違うことによるのでしょう。

万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。

これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。

『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があり、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。司馬昭が相国だった7年間の、何度かの倭人の遣使も難升米の発案によることでしょう。

銅矛を配布した部族の神話・伝説上の始祖がイザナギだと考えますが、難升米は3世紀の銅矛を配布した部族の族長、ないしは有力者だと考えるのがよいと思っています。難升米は安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ており、また倭人社会の動向も把握していたように感じられます。

思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し主導したのが難升米だということになります。それは250年代のことであり、難升米が50歳代のことになります。

5月に投稿した『二人のヒコホホデミ』ではシオツチノオジは銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、シオツチノオジに具体的な指示を出していたのも難升米であったと思います。そして神話の語るところからみて大国主の国譲りを発案するのも難升米のようのです。

難升米は249年の司馬懿のクーデターを、いずれ司馬氏か魏を乗っ取ることだと判断したと考えます。難升米は司馬懿のクーデターで台与の親魏倭王は価値のないものになったことを知り、また中国・朝鮮半島の政情を見るにつけ、冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えたと思います。

それは卑弥呼以来の女王体制が維持できなくなるということで、難升米のシナリオには、魏の消滅以後のことも考えられていたでしょう。三世紀後半に大和朝廷が成立し古墳時代が到来することも、難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えます。

2011年6月26日日曜日

高天原神話 その5

卑弥呼の死後には銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。その結果台与が共立されますが、台与は13歳の少女で名目だけの女王だったようです。

天岩戸にこもる以前の天照大神は自身で活動しますが、天岩戸以後には単なる指令神であったり、高木神とペアで指令を下したりしていて、女王国の実権は大倭(高木神)が掌握していたようです。その大倭の参謀総長、兼台与の官房長官が難升米のようです。(2009年9月16日投稿)

卑弥呼は弟が補佐しましたが台与を補佐したのが難升米のようです。私は高木神が大倭だと考えていますが、そうであれば台与を補佐したのは大倭のようにも思えます。しかし大倭はキングメーカー(陰の実力者)のようです。

238年には卑弥呼が「親魏倭王」に、また難升米は率善中朗将に冊封されています。「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる地位ですが、難升米の中朗将は比二千石(実質では千二百石)が任命される中央政府の官職です。

中央政府の官職には「中二千石」や「万石」もありますが、地方行政官では州刺史が最高位の二千石であり、大郡の太守が千石、小郡の太守が六百石ですから、比二千石の難升米は州刺史と大郡太守の中間の地位になり、地方行政官としては相当な高位です。因みに帯方郡使の張政の塞曹掾史は百石です。

難升米に黄幢が授与されたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に報告したからですが、行政官が軍事行動を起こす際には武官位が追送されます。黄幢は比二千石の武官が軍事行動を決行する時に授与されるもののようです。比二千石の武官には校尉がありますが、難升米は「護狗奴校尉」のような魏の武官位を追与されて狗奴国討伐を指揮したのでしょう。

このような活動のできた難升米はどのような背景を持つ人物なのか気になるところですが、倭人伝の記述するところから見て安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ていて外交を熟知していることが考えられます。

魏皇帝の黄幢・詔書を利用して狗奴国を討伐するという発想は、いかにも外交を熟知した難升米らしいと言えます。狗奴国討伐が『古事記』のスサノオによる保食神殺しや、『日本書紀』のツキヨミによる大気津比売殺しの神話になったと考えていますが、保食神・大気津比売は食物の神であることが共通しています。

247年ころに台与が遣使していますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたのであれば、難升米の官位も認められたことが考えられます。このころスサノオの高天が原追放で語られている、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、銅戈を配布した部族が消滅します。

銅戈を配布した部族が消滅したことで王位を巡る部族間の対立はなくなり、女王制は有名無実になってきますが、そこで台与を退位させ男王を立てて、倭人を統一する動きが出てくるようです。その一環がホノニニギの天孫降臨ですが、それを画策したのは大倭(高木神)であり、魏の率善中朗将にして狗奴国討伐の指揮官でもある難升米のようです。

黄幢・詔書は247年に届きますが、届けた張政は台与と難升米に「檄を為して告喩」したと書かれています。台与と共に難升米が「告喩」されていることを見ると、難升米は内政においても的確な判断の下せる人物だったようです。

倭人伝の記事は正始8年で終わっており、難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間ですが、239年に卑弥呼の使者になり率善中朗将に任ぜられたのが40歳だったと仮定すると、黄幢、詔書が届いた時には40歳代の後半だったことになります。

2009年9月の投稿では神武天皇の年代を明らかにできませんでしたが、5月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べたように266年の倭人の遣使が神武天皇の行ったものであれば、ホノニニギの天孫降臨は250年代であることが考えられ、これも難升米の発案であり難升米が50歳代のころであったことが考えられます。

266年の倭人の遣使が契機になって270~80年代に大和朝廷が成立すると考えますが、難升米が生きていれば70~80歳のころのことになりそうで、難升米の生涯は大和朝廷の成立に賭けたものであったということになりそうです。

2011年6月19日日曜日

高天が原神話 その4


倭人伝に租賦(税)が徴収されそれを収めるための邸閣(倉庫)があり、また国々に市があって有るものと無いものが交易されているが、大倭がこれを監督しているとあります。大倭とは倭の最高有力者といった意味のようです。

大倭については大倭王のことでありそれを奴国王だとする説があり、また畿内説では大和の有力者だとする説もありますが、神話では天岩戸以後、天照大神と高木神(高皇産霊尊・高御産巣日神)がペアで活動するようになります。

高木神はしばしば天照大神を差し置いて単独で活動することがあり『日本書紀』の一書は「皇祖」としていますが、「卑弥呼以後」を考える上で高木神を無視することはできません。

高齢の卑弥呼と違って台与は13歳の少女で女王としてのカリスマ性に欠けており、カリスマ性という面では大倭の方が勝っていたような感じを受けます。大倭は女王国の事実上の支配者のようで、高木神と大倭の性格が一致します。

卑弥呼は共立されて邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の王ではありません。邪馬台国には元来の支配者(王)が居るはずですが、神話の冒頭で高木神(高御産巣日神)は高天が原に居る「別天つ神」の1柱とされており、邪馬台国の元来の支配者は高木神のようです。

高木神を祭る神社は旧高木村を中心とする上座郡とその周辺(邪馬台国)、及び国境を跨いで隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)に分布しています。倭人伝の記述から大倭はこれらの地域の交易を差配していたことが考えられます。

上座郡は筑後川に面した郡で、高木村は筑後川支流の佐田川の上流部に位置していますが、筑後川の川舟による交易がおこなわれていたことが推察されます。交易品は筑後川の水運により筑後や肥前の市場に、また遠賀川の水運によって筑前東部や豊前の市場に供給されたでしょう。

大倭は筑前内陸部・筑後・肥前・豊後など筑後川流域の物資と、筑前東部・豊前など遠賀川流域の物資を交互に流通させて、女王国全体の過不足を調整していたと考えられ、その中継地点が上座郡の高木村であったことが考えられます。

高木村は平凡な山間の村ですが、その地勢から見て隣の小石原村とは一体であり、物資の中継地の役割を果たしていたとするのがよいようです。近世の筑前21宿の小石原宿は北の嘉麻・田川方面、東の英彦山方面、南の宝珠山方面、西の朝倉・甘木方面など、四方に伸びる交通の要所だったので、日田街道の脇宿として栄えました。

3世紀の交易ルートについては西の秋月・甘木に至るルートも考えられますが、このルートは筑後川には遠くなり、西の二日市地峡方面への搬送するルーとだと考えるのがよさそうで、遠賀川流域の交易品は高木村を南下して、旧朝倉村の筑後川畔に至るルートで運ばれたと考えます。

ルートが筑後川と接するのはその地勢から志波か山田になると考えますが、志波は安本美典氏も注目している場所です。その志波と山田の中間の恵蘇宿に恵蘇八幡宮があり、その前の筑後川に山田井堰と呼ばれている堰堤が設けられています。

井堰付近に渡し場があったということですが、このあたりから水深が急に深くなるため渡し舟が必要だったのでしょう。この渡し場は筑前・筑後の物資の流通経路でもあったでしょうが、大倭が監督して流通させていた交易品もここにあった船着場で揚げ降ろしされたと想像しています。

私は恵蘇八幡宮の背後の御陵山にある古墳が卑弥呼の墓だと思ってきました。御陵山は予想される船着場から見上げる位置になりますが、卑弥呼の墓は船着場から見上げることを意識して築かれており、それが人口に膾炙されて帯方郡使の張政の耳に入り、倭人伝の「大作冢、径百余歩」という文になったと考えていました。

神話には天岩戸にこもる以前の天照大神(卑弥呼)と高木神(大倭)の関係を示す記述がありませんが、高木村や小石原村が高木神と関係するのであれば、高木神とペアで活動する天照大神、つまり台与の墓とするほうがよさそうにも思えます。確証がないので卑弥呼・台与と限定せず天照大神の墓としておくのが無難のようです。

2011年6月12日日曜日

高天が原神話 その3

太宰府天満宮蔵本『翰苑』は誤字・脱字が多く資料としての価値は低いと考えられていますが、その中に次の文が見えます。私はこの文が邪馬台国の位置を決める鍵になると考えています。

邪届伊都、傍連斯馬 廣志曰、(倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉国、百(自)女〔王〕国以北、其戸數道里、可得略載

表題の「邪届伊都傍連斯馬」については「邪めに伊都に届き、傍わら斯馬に連なる」と読む説や「邪は伊都に届き、斯馬の傍に連なる」と読む説がありますが、いずれにしても「自女王国以北」か、それに近い所に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることになります。

そしてある地点の東南五百里に伊都国があり、その地点の南には邪馬嘉国があるということのようですが、邪馬嘉の「嘉」は台か壱の誤字で邪馬台国のことでしょう。この文では奴国・不弥国・投馬国が省略されています。

倭人伝の地理記事が直線行程なら、伊都国と邪馬台国の間に奴国・不弥国・投馬国が位置していることになりますが、この文だとこれらの国を考慮する必要がありません。これは「自女王国以北」の国々の方位・距離は放射行程だということです。

『広志』の原書が失われているので確証にはなりませんが「邪届伊都」の「邪」を邪馬台国のことだとすると、ある地点の東南に伊都国があり、南には邪馬嘉国が有って、邪馬嘉国は一方で伊都国に届き、また一方では斯馬国に連なっていることになってきます。

「邪」が邪馬台国のことではないにしても、「自女王国以北」に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることに違いはないようです。

「ある地点」は宗像郡だと考えていますが、伊都国は糸島郡ではなく田川郡であり、斯馬国は糸島郡のうちの旧志摩郡だと考えます。伊都国(田川郡)に届いているのは現在の朝倉郡東峰村になります。

東峰村は旧宝珠山村と小石原村が合併したもので、律令制の上座郡(かむつあさくら)に属しており、現在の朝倉市東半と東峰村が上座郡になります。従って志摩郡と上座郡の間の筑前西半が邪馬台国ということになってきます。

筑前を三郡山地で東西に二分した時の西側には甕棺墓が見られますが、東側は土坑墓・石棺墓で、東西で文化に相違があったようです。甕棺墓が見られる地域が邪馬台国であり、土坑墓・石棺墓の地域が奴国のようです。

上座郡は筑前・筑後・豊前・豊後の国境に位置し、国境を越える交通路も存在しています。また肥前国境もごく近距離にあります。このように見ると邪馬台国の地政学上の中心は上座郡と見るのがよさそうです。

こうしたことから私は豊前・豊後・筑前・筑後の4ヶ国に肥前の佐賀県部分を加えたものが女王国だと考え、伊都国(田川郡)に届いている上座郡が卑弥呼の都のあった邪馬台国であり、神話の高天が原だと考えます。

この考えは安本美典氏の一連の著書から得たものですが、安本氏は上座郡、ことに旧志波村に神話に関係するものがあることを重視しつつ、下座郡(しもつあさくら)や夜須郡をも含めた地域を邪馬台国(の中心部)とされているようです。

それに異論はありませんが『翰苑』の「邪届伊都傍連斯馬」に拘ってみたいと思っています。その東峰村の西が1955年に甘木市に編入された旧高木村ですが、高木村を中心とする上座郡、及び隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)の南部に多数の高木神社が見られます。

英彦山は修験道の道場として知られていますが、3月投稿の「一大率」では豊前のサルタヒコが山王信仰の影響で猿に変わることを述べました。上座郡周辺の高木神には山王信仰の大行事権現の影響を受けて大行事社の祭神になっているものがあり、高木神を祭る神社は相当数にのぼります。

2011年6月5日日曜日

高天が原神話 その2

銅剣を配布した部族が神格化されたものがイザナミであり、銅剣を配布した部族が神格化されたものがイザナギだと考えていますが、イザナミは銅剣を配布した部族に擁立された奴国王でもあると考えます。イザナミが火の神・カグツチを生んだために焼死するのは2世紀初頭に奴国王が滅んだことが語られているようです。

滅んだ奴国王に代わって倭の盟主になるのが107年に遣使した面土国王の帥升ですが、これが神話のスサノオであり面土国は筑前宗像郡のようです。

このように考えると高天が原神話の構造が見えてきます。図は私の考える高天が原神話の概念ですが、イザナギ・ミイザナミが島や国、神々を生むオノゴロ島は筑前の志賀島のようです。

志賀島からは57年に奴国王に授与された金印が出土していますが、志賀島が神聖視されていたが故に金印の埋納地になり、神話の舞台にもなったのでしょう。

イザナギは神退り(かむさり、神でなくなること)したイザナミを追って「根之堅洲国」に行きますが、「根之堅洲国」は「黄泉の国」とも言われ、一般に出雲だと考えられています。ここで神話の舞台は筑紫から出雲に移ります。

舞台が急に変わるので途惑いますが、出雲神話のイザナミは370本にものぼる中細形銅剣C類や、瀬戸内の平形銅剣を配布した部族でもあるようです。高天が原のイザナミと出雲のイザナミは銅剣を配布した部族という点では一致するものの、区別して考えなければならないようです。

「黄泉の国」から逃げ帰ったイザナギは「橘之小戸之阿波岐原」で禊ぎをして22神を生みますが、生まれた神の中には志賀海神社の綿津美3神や、住吉神社の筒之男3神、警固神社の直比神ように博多湾の沿岸で祭られているものがあり、「小戸之阿波岐原」は博多湾の沿岸とするのがよいようです。

『古事記』で22神の最後に生まれたとされている天照大御神は卑弥呼であり、月読は卑弥呼の弟のようです。またスサノオは面土国王のようです。イザナギは天照大御神には高天が原を、月読には夜之食国を、スサノオには海原を統治するように命じています。

『日本書紀』の一書は天照大御神と月読は天に送り上げられたとしていますが、天とは高天が原のことであり邪馬台国のことです。2神が天に送り上げられたのは、王になった卑弥呼を弟が補佐するようになったということのようです。

筑前の筑後川水系域が高天が原で、ここが卑弥呼の都のある元来の邪馬台国だと考えます。筑後が夜之食国でありそれは投馬国だと考えていますが、邪馬台国と奴国・面土国は対立しており、そのために投馬国の有力者である卑弥呼姉弟が共立されて女王国を統治するようになるのだと考えます。

私の考えは邪馬台国と投馬国は宗像郡(面土国)の南になければならないということから始まりますが、以後に述べることの多くは、安本美典氏の『高天原の謎』(講談社現代新書、昭和49年)の163~173ページに依拠しています。

「小戸之阿波岐原」と高天が原が戸数7万の邪馬台国のようですが、元来の邪馬台国は筑前上座郡(現在の朝倉市の東半と東峰村)だと考えています。そこから見る筑紫平野の光景は、まさに高天が原から下界を眺める感があります。

宗像郡が海原であり面土国だと考えていますが、図の赤線は倭人伝・神話から想定した交通路です。天之八衢は田川郡で伊都国であり、海原と天之八衢の間が倭人伝に見える「東南陸行五百里到伊都国」の行程だと考えます。

概観すると高天が原神話は、海原(面土国、スサノオ)・根之堅洲国(奴国、イザナミ)と、高天が原(邪馬台国、天照大神)・小戸之阿波岐原(邪馬台国、イザナギ)・夜之食国(投馬国、月読)とは対立する関係にあり、天之八衢(伊都国)には猿田彦(一大率)が配置されて海原と根之堅州国を「検察」しているという構図になるようです。

2011年5月29日日曜日

高天が原神話 その1

大場磐雄氏は昭和24年に発表した『銅鐸私考』で、銅鐸を使用したのはミワ氏・カモ氏などの「出雲神族」だとし、銅矛を使用したのは阿曇氏であり、銅剣を使用したのは物部氏だとしています。

部族が母系血縁集団であることはよく知られているところですが、弥生時代後半は支配者階層の通婚で形成された部族が首長を擁立する「部族制社会」でした。部族は通婚によって同族関係の生じた宗族に青銅祭器を配布することによって団結しました。

しかし宗族は男系(父系)の血縁集団なので部族の始祖も男性でなければならず、男性の神話・伝説上の部族の始祖が創作されました。大場氏が銅矛を使用したのは阿曇氏だとするのは、阿曇氏のなど玄界灘沿岸の氏族の遠祖を中心にして形成された部族が銅矛を配布したということでしょう。

その神話・伝説上の男性始祖が阿曇氏の祭る綿津美3神を生んだとされているイザナギだと考えます。それに対してイザナミは銅剣を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族に擁立された奴国王でもあると考えています。

しかしイザナミは女神なので、男神を始祖にする必要からイザナミは神避り(かむさり、神ではなくなること)して黄泉の国に居ることになっています。これがスサノオのオロチ退治で草薙剣が出現する神話の伏線になっているようです。

天皇位の象徴の「三種の神器」は弥生時代の部族の象徴でもあると考えますが、草薙剣は銅剣を配布した部族(イザナミ)を象徴しているようです。スサノオが草薙剣を得たことで、銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖は女神のイザナミから男神のスサノオに変わるようです。

九州の剣形祭器は極めて少数で、分布も遠賀川流域と大分平野周辺に限られています。九州の銅剣を配布した部族は極めて劣勢でしたが、出雲で中細形銅剣C類が鋳造されるころ(中期末)に奴国王が滅んで九州から銅剣が姿を消すと考えられます。

中広形銅戈は銅矛を凌駕する数が出土していますが、これは銅戈を配布した部族が銅剣を配布した部族を吸収・併合したことによると考えます。スサノオがイザナギ・天照大神とは対立し、イザナミに接近するのは2部族が統合されたことによるようです。

吸収・併合された銅剣を配布した部族の中に遠賀川流域の物部氏の遠祖がいたと考えています。『古事記』の火の神カグツチの神話では物部氏の祭るフツヌシと中臣氏の祭る神タケミカズチが異名同神とされていますから、中臣氏の遠祖も同様の立場にあったことが考えられます。

奴国王が滅ぶと物部氏・中臣氏の遠祖は、銅戈を配布した部族に擁立された面土国王、すなわち宗像氏の遠祖の支配下に入ると考えます。こうして物部氏・中臣氏などの遠祖がイザナミになり、宗像氏の遠祖がスサノオになるのでしょう。

大場氏は銅戈については言及していませんが、私は銅戈を配布したのは筑前の宗像氏、筑後の水沼君、豊後の大神氏など、スサノオの剣から化成したとされている宗像三女神を祭るようになる氏族だと考えます。

近畿地方には近畿式銅戈が見られますが、紀伊半島に銅戈が見られスサノオの伝承があることから、宗像三女神ではなくスサノオを祭るようになる氏族だと考えます。つまり銅戈を配布した部族の神話・伝説上の男性始祖がスサノオなのです。

スサノオは出雲でも大活躍しますが、出雲の銅戈は出雲大社の境外摂社・命主神社背後の真名井遺跡から出土した中細形1本だけです。大場氏は出雲に銅戈が見られないことから、スサノオと銅戈の関係が発想できなかったと推察しています。

現時点では真名井遺跡出土の唯一の中細形銅戈を出雲のスサノオと考えるのがよいと思っていますが、荒神谷・加茂岩倉遺跡のある出雲のことですから、100本単位の銅戈がどこかで眠っているかもしれません。

それが発見されれば私の考えが証明されることになり、内心では出土してほしいと願っているのですが、スサノオには銅戈を配布した部族の始祖という面と、草薙剣を中介にした銅剣を配布した部族の始祖という2面があるようです。

2011年5月22日日曜日

関八州取締出役 その2

邪馬台国の位置については畿内説と九州説が有力ですが、関東では優れた九州説の研究者が出ています。一大率が関八州取締出役のようなものだと思ったのは幕末・明治期の関東の研究者でしょう。

年代・経歴などから見て保土ヶ谷に横浜を警備の対象とする関八州取締出役が配置されていたことを知っているのは、那珂通世(1851~1908)とその弟子の白鳥庫吉(1865~1945)や、その周辺の人物であることが考えられます。

ことに東京大学教授で東洋史学者の白鳥庫吉は関八州取締出役が保土ヶ谷に配置される前年の1865年に、九十九里浜に近い千葉県茂原市で生まれています。

当時の一宮藩主・加納氏は農民徴兵制を採用するなど九十九里浜の海防を重視しており、また東京湾では品川沖に台場が築かれるなど、外国船の来航が問題になっていました。

白鳥庫吉の誕生から間もなく徳川幕府が崩壊(1868)して廃藩置県が行われますが、物心ついたころには関八州取締出役も廃止されていたはずです。こうしたことがあって横浜警備のために配置された関八州取締出役が、人々に畏怖されていたことを聞いて育ったことが考えられます。

その印象が強く後年に一大率・州刺史を考察する際に影響を与えたのでしょう。一大率は横浜警備の関八州取締出役のようなものだと思ったことが考えられます。これがやはり東京大学教授の和辻哲郎や、白鳥庫吉を師とした津田左右吉らに伝えられているうちに、一大率は伊都国の津(港)に出向いて外国船を捜露する役人だとする考えが定着するのでしょう。

これは推察であって確証はありません。関八州取締出役は今日でも映画やテレビで人気がありますが、白鳥庫吉の周辺に倭人伝の記事と関八州取締出役が似ていることからこれを結びつける者がいて、白鳥庫吉はそれを黙認したとも考えられます。

前漢時代の州刺史は司察官であり魏・晋時代の州刺史は最高位の地方行政官で、まったく性格が違います。前漢時代の州刺史は江戸時代の関八州取締出役に相当し、魏・晋時代の刺史は廃藩置県で生まれた、その後の県知事に相当すると考えるのがよさそうです。

白鳥庫吉ほどの顕学がこの違いに気づかないはずはないと思われますが、関八州取締出役のような一大率の他に、廃藩置県以後の県知事のような者が居ると想定していたことも考えられます。それも述べてきたような経過を経て混同されるのでしょう。

県知事のようなものについては3世紀に面土国が実在したことを考える必要がありそうです。「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うときに用いられるとしています。

通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味のようです。「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が伊都国にいて諸国を検察し、また津(港)では文書や貢納物を捜露しているありさまが、中国の刺史の如くだと解釈されています。

この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます。

この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。通説との違いは微妙ですが「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。

伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。両者が混同されて一大率の権能があたかも「刺史の如く」だということになったようです。

この「自女王国以北」を「刺史の如く」支配しているのが面土国王ですが、面土国の実在が考えられていないために矛盾が生じたことも事実でしょう。面土国の実在が考えられていないためなのか、一大率が横浜警備の関八州取締出役のようなものだと思われたためなのか、それとも両方なのか確証はありません。

いずれにしても面土国の存在を認めないと齟齬が生じます。邪馬台国の位置論もそうですが、面土国の存在を認めないと齟齬が生じるばかりでなく、恣意的解釈が加わり混乱してきます。面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。

2011年5月15日日曜日

関八州取締出役 その1

今回は「推理小説もどき」を披露します。邪馬台国研究の先駆者として白鳥庫吉を挙げないわけにはいきませんが、彼にまつわる推理で倭人伝に次の文があります。

女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。

この文についての通説では伊都国にいる一大率が諸国を検察しており、また港では文書や献納物を捜露していて、その有様があたかも中国の州刺史の如くだとされています。前漢時代の刺史は担当の州内を巡視する司察官なので「諸国を検察す」という表現は適切です。

しかし三世紀の魏・晋時代の刺史は最高位の地方行政官で州の長官であって、州内を巡視することもないし、津(港)に出向いてに捜露することもありません。このことは『三国志』の編纂者陳寿自身が『魏志』巻十五の冒頭に述べているところです。

その陳寿が300年も400年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して3世紀の一大率を説明することはあり得ません。通説の解釈は文化2年(1805)に設置された関東八州取締出役(俗に八州廻り、八州様)を引き合いに出して、21世紀の神奈川県知事を説明しているようなものです。

通説は一大率が関八州取締出役のようなものだと思われたことから生れたようです。江戸時代の関東8ヶ国は大名領・天領・旗本領・寺社領が複雑に交錯しており、犯罪があっても川一つが越えられず捕縛できないというようなことがあって、支配者の領域に関係なく対応できる関八州取締出役が設置されました。

初期の関八州取締出役は8名で、江戸府内と水戸藩領以外の関東八州の、担当する州内を巡視していたようですが、これは前漢時代の刺史が、首都圏以外の13州に一名ずつ配置されて担当の州内を巡視したのと似ています。

身分は足軽格で軽輩でしたが支配領域に関係なく行動できることから権限は大きく、その生活も籠に乗り従者を従えて移動するなど豪勢で、「泣く子も黙る」と言われて恐れられていました。倭人伝には「特置一大率、検察諸国、(諸国)畏憚之」とありますが、関八州取締出役が恐れられていたのと似ています。

身分は足軽格でしたが、前漢時代の刺史の秩禄も六百石でした。刺史の役割が担当の州内の政情を中央政府に報告することだったことから、魏・晋時代には二千石の州の長官になるのと似ている点があります。

安政元年(1854)にアメリカ東洋艦隊のペリー提督が浦賀に来航し、横浜の開港を要求していますが、横浜は安政6年(1859)に開港されます。ペリー提督の来航以後を幕末と言っていますが、幕末は鎖国から開国へと大きく揺らいだ時代です。

徳川幕府の崩壊が近くなって世の中が騒然としてくると警備が強化され、元冶元年(1864)には定員が20名に増員されていますが、新たに横浜を警備するために保土ヶ谷に一名が配置されたことに注意しなければならないようです。

関八州取締出役が横浜警備のために配置されたことは、警備の対象が関東の八州だけでなく開港されて「治外法権」になった横浜にも向けられたということでしょう。このことは倭人伝の「津に臨み捜露す」の文を思い起こさせます。

幕末の関八州取締出役には関東の八州を取り締まりの対象にするものと、直接ではないにせよ横浜の外国船を取締りの対象 にするものがあるようです。一大率は横浜の外国船を取締るために配置された関八州取締出役のようなものだと思われ、横浜の外国船を「津に臨みて捜露」しているのだと想定されているようです。

それが混同されると横浜警備のためと、関八州警備のための違いが区別されなくなり、知らない人は関八州取締出役は横浜の外国船を取締まるものだと思うようになってくることが考えられ、これが倭人伝の記事と結び付けられたことが考えられます。

糸島郡と朝鮮半島の関係に結び付られ、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だという通説になるようです。しかし捜露は女王の行う遣使に対しても行われていますから、一大率と横浜警備の関八州取締出役の性格が同じだという解釈は適切ではありません。

2011年5月8日日曜日

一大率 その5の2


4月3日に「一大率 その5」を投稿しましたが、投稿システムが変ったようなので文章は削除しましたが図と投稿履歴が残ってしまいました。そこで図を以前のものよりも簡素にして再投稿します。直接には一大率に関係はなくその背景を考えてみようとゆうものです。 

通説では帯方郡~倭国間の万二千里については東松浦半島(末盧国)までを一万里とし、東松浦半島~糸島郡間が五百里とされ、残りの千五百里が糸島郡と邪馬台国の間の距離だとされています。邪馬台国=九州説の根拠になっているのがこの考え方です。

この通説では七千余里の狗邪韓国はキメ(金海)、あるいはプサン(釜山)付近とされていますが、狗邪韓国には定説がなく、キメとすると韓の広さの「方四千里」と整合しません。狗弥韓国はいわゆる「弁韓」の西の端にある国で、七千余里は狗邪韓国の西端までの距離だと考えます。

帯方郡使が対馬国で寄港したのは厳原だとする説が多いようですが、地勢・遺跡分布などから見て浅茅湾と見るのがよいでしょう。その場合キメまで行くと二千里以上の遠回りになります。対馬海峡の渡海地点は浅茅湾に近いコジェ島(巨済島)の西海岸で、帯方郡治(郡役所)のあったソウル(京城)の外港、インチョン(仁川)から九千里の海域だと考えます。

千里は魏里の150里(65キロ)だと考えていますが、インチョンから東松浦半島(末盧国)までが万二千里になります。

また宗像(面土国)までは万三千里になり、以前の投稿で話題にした行橋市の草野津は万四千里になり、従来の九州説は成立しません。

これは万二千里が糸島郡を伊都国とする根拠にはならないということであり、伊都国は糸島郡以外の地に求めなければならないということで、私はそれを田川郡だと考えています。

こうしたことから高木彬光氏の宗像郡を末盧国とする説に関心を持っていますが、宗像郡は末盧国ではなく面土国と考えるのがよいようです。邪馬台国が高天が原であり卑弥呼・台与が天照大神なら、必然的にスサノオが統治を命ぜられた海原はスサノオと関係の深い宗像郡(面土国)ということになります。

また伊都国が田川郡なら一大率の居た痕跡があるはずですが、田川郡ではやたらと猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔に出くわします。どうもサルタヒコは一大率のようです。ということでサルタヒコについて4回に渡って投稿してみました。

一連の投稿で感じたことは物部氏と宗像氏の遠祖の関係です。通説では奴国は福岡平野とされていますが、私は遠賀川の鞍手・嘉麻・穂波の三郡だと考えています。その遠賀川流域に物部氏の伝承があり、ことに鞍手郡の六ヶ岳周辺に集中していています。

物部氏は時流に聡い氏族で「八十物部」と言われるほど同族が多く、その伝承も各地にあって物部氏の伝承を全て採りあげると収拾が着かなくなりますが、遠賀川流域の物部氏の遠祖は1世紀にあっては奴国王と密接な関係にあったようです。

奴国王そのものだったとも考えていますが、それはさておいて2世紀から3世紀の前半にあっては面土国王と密接な関係にあり、邪馬台国、あるいは女王とは相対的な関係にあったようです。この物部氏・宗像氏の遠祖の動きに対応して設置されたのが一大率であり、一大率には女王の都のあった邪馬台国と草野津との間の交通を確保する役割もあったようです。

3世紀中葉に台与が共立されますが、間もなく台与を退位させ、台与の後の王(ホノニニギ)を立てようとする動きが出てくるようです。物部氏・宗像氏の遠祖はこれに反対したため宗像氏の遠祖は滅ぼされるようですが、これがスサノオが天が原から追放される神話になっています。

一方の物部氏の遠祖のほうですが、『先代旧事本紀』によると物部氏の始祖の二ギハヤヒ(饒速日)は天磐船に乗って河内の哮峯に天降りしたとされています。これはスサノオが高天が原から追放されて出雲に降るのとよく似ています。

『先代旧事本紀』ではニギハヤヒが河内に降るのは天照大神に命ぜられたためとされていますが、『古事記』『日本書紀』では理由がよく分かりません。私はスサノオが高天が原から追放されるのとニギハヤヒが河内に降るのは、台与の退位に反対したことに起因する、247年から間もないころに起きた同質の事件だと思っています。

2011年5月1日日曜日

二人のヒコホホデミ その4


「二人のヒコホホデミ」がいることを述べてきましたが、銅矛を配布した部族によって薩摩が統合されたことがホノニニギやホオリの活動として語られ、大隅半島部分が統合されたことがウガヤフキアエズの活動として語られているようです。

『梁書』『北史』は台与の後に男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けたと伝えています。また『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があったとし、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。

通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、それ以前に台与と竝んで男王が中国の爵命を受けているようです。この男王がホノニニギですが、司馬昭が相国だった時期の何度かの倭人の遣使のうちに、爵命を受けるための遣使があったとも考えることができます。

神武天皇は天照大神の6世孫でヒコホオデミの孫とされていますが、この天照大神は卑弥呼です。その6世孫ということであれば相当に年代差があることになりますが、天孫降臨が司馬昭の相国だった258~265年のこととするとホノニニギ(台与の後の王)と、天照大神(卑弥呼)の死んだ247年との差は10~20年程度と小さくなります。

さらに「二人のホホデミ」の一方が神武天皇のようで、ホノニニギと神武天皇には年代差がほとんどないようです。確証はありませんが倭人が遣使した泰始の初め(266年)には、神武天皇の東遷が始まってもよい状態なっていたことが考えられます。

津田左右吉はホノニニギの事績について、高千穂の峰に降臨したことと、土地の娘を娶って子供をもうけただけだとしていますが、確かにホノニニギが日向を平定したとはされていません。ホノニニギは卑弥呼・台与の王統を継承しているとされているだけのようです。

ホノニニギはヒコホホデミの誕生の際に「是、我が子に非じ。必ず国つ神の子ならむ」と言っていますが、侏儒国を統合したのはホノニニギではなく銅矛を配布した部族であり、国つ神の子である「二人のヒコホホデミ」のうちの神武天皇であろうと思います。

四国の太平洋側には多数の広形銅矛が分布していますが、銅矛を配布した部族は中国・四国も統合しようとしているようです。その地理上の中心は周防灘沿岸から日向北部になりますが、日向北部が南九州・四国を統合する拠点になったと考え、神武天皇はその南九州が統合される際の中心的人物だったと考えます。

日向神話ではシオツチノオジが重要な役割を果たしていますが、志布志湾沿岸の曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しています。これが山幸彦に海神豊玉彦の宮に行くことを教えたシオツチノオジだと考えています。

志布志湾沿岸は鹿児島県下最大の穀倉地帯で、唐仁古墳群・塚崎古墳群などもあり、大隅直・曽君などの存在が考えられています。また近くにウガヤフキアエズの吾平山稜があり、大隅直・曽君などの遠祖がウガヤフキアエズとされているようです。

ウガヤフキアエズはヒコホホデミ(山幸彦)の子で神武天皇の父とされていますが、神武天皇がヒコホホデミであれば、山幸彦は神武天皇でもあることになります。日向南部の土着勢力(ウガヤフキアエズ)や銅矛を配布した部族が、神武天皇を倭王に擁立しようとしたことが考えられます。

『古事記』はホノニニギの言として「此の地は韓国に向かい、笠紗の御前に真来通り」としていますが、朝鮮半島との交通が意識されています。山幸彦が豊玉彦の宮に行く物語は、神武天皇が魏から倭国王に冊封されて倭人の諸国を統一しようとしたというのでしょう。

司馬昭が相国だった7年間の何度かの倭人の遣使は、神武天皇の遣使が何度か計画されたが、そのころの魏は滅亡直前で実態のない国になっていたということでもありそうです。265年12月に晋王朝が成立すると、神武天皇は翌266年にさっそく遣使して倭国王に冊封されたと考えます。

事実かどうかは定かではありませんが、神武天皇の東遷開始から即位まで『古事記』では7年、『日本書紀』では17年が経過したとされています。266年の7年後は273年になり、17年後は283年になりますが、神武天皇が即位したのは270~80年代のようです。

大和朝廷が成立して古墳時代が始まると考えますが、270~80年代といえば古墳時代の始まる3世紀後半になります。神武天皇や、いわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないという説もありますが、266年の遣使が大和朝廷の成立や神武天皇の即位と無関係だとは思えません。