年代・経歴などから見て保土ヶ谷に横浜を警備の対象とする関八州取締出役が配置されていたことを知っているのは、那珂通世(1851~1908)とその弟子の白鳥庫吉(1865~1945)や、その周辺の人物であることが考えられます。
当時の一宮藩主・加納氏は農民徴兵制を採用するなど九十九里浜の海防を重視しており、また東京湾では品川沖に台場が築かれるなど、外国船の来航が問題になっていました。
白鳥庫吉の誕生から間もなく徳川幕府が崩壊(1868)して廃藩置県が行われますが、物心ついたころには関八州取締出役も廃止されていたはずです。こうしたことがあって横浜警備のために配置された関八州取締出役が、人々に畏怖されていたことを聞いて育ったことが考えられます。
その印象が強く後年に一大率・州刺史を考察する際に影響を与えたのでしょう。一大率は横浜警備の関八州取締出役のようなものだと思ったことが考えられます。これがやはり東京大学教授の和辻哲郎や、白鳥庫吉を師とした津田左右吉らに伝えられているうちに、一大率は伊都国の津(港)に出向いて外国船を捜露する役人だとする考えが定着するのでしょう。
これは推察であって確証はありません。関八州取締出役は今日でも映画やテレビで人気がありますが、白鳥庫吉の周辺に倭人伝の記事と関八州取締出役が似ていることからこれを結びつける者がいて、白鳥庫吉はそれを黙認したとも考えられます。
前漢時代の州刺史は司察官であり魏・晋時代の州刺史は最高位の地方行政官で、まったく性格が違います。前漢時代の州刺史は江戸時代の関八州取締出役に相当し、魏・晋時代の刺史は廃藩置県で生まれた、その後の県知事に相当すると考えるのがよさそうです。
白鳥庫吉ほどの顕学がこの違いに気づかないはずはないと思われますが、関八州取締出役のような一大率の他に、廃藩置県以後の県知事のような者が居ると想定していたことも考えられます。それも述べてきたような経過を経て混同されるのでしょう。
県知事のようなものについては3世紀に面土国が実在したことを考える必要がありそうです。「於国中有如刺史」の「於」の意味について『大辞泉』は 1、時間を表すとき 2、場所を表すとき 3、場合や事柄を表すとき 4、仮定条件の伴うときに用いられるとしています。
通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味のようです。「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が伊都国にいて諸国を検察し、また津(港)では文書や貢納物を捜露しているありさまが、中国の刺史の如くだと解釈されています。
この場合、一大率は常に伊都国にいるから、国は伊都国に限定され他の国は考えようがありません。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で十分に意味が通じます。そこに「於国中有」の4文字が加わると意味が変わってきます。
この文は4の、仮定条件の伴う場合だということで、何かが仮定されており、条件が伴っています。「於」は「自女王国以北」があたかも中国の州のようだと仮定され、それには州の長官のような「刺史の如き」者がいることが条件になります。通説との違いは微妙ですが「於」は伊都国ではなく「自女王国以北」に懸かる文字なのです。
伊都国には一大率が置かれ諸国を検察しているが、伊都国以外にも国があって、その国に「自女王国以北」を「刺史の如く」支配している者がいると仮定されており、女王の行なう外交を捜露しているというのです。両者が混同されて一大率の権能があたかも「刺史の如く」だということになったようです。
この「自女王国以北」を「刺史の如く」支配しているのが面土国王ですが、面土国の実在が考えられていないために矛盾が生じたことも事実でしょう。面土国の実在が考えられていないためなのか、一大率が横浜警備の関八州取締出役のようなものだと思われたためなのか、それとも両方なのか確証はありません。
いずれにしても面土国の存在を認めないと齟齬が生じます。邪馬台国の位置論もそうですが、面土国の存在を認めないと齟齬が生じるばかりでなく、恣意的解釈が加わり混乱してきます。面土国は末盧国と伊都国の中間に位置しておりそれは筑前宗像郡です。
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