卑弥呼の死後には銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。その結果台与が共立されますが、台与は13歳の少女で名目だけの女王だったようです。
天岩戸にこもる以前の天照大神は自身で活動しますが、天岩戸以後には単なる指令神であったり、高木神とペアで指令を下したりしていて、女王国の実権は大倭(高木神)が掌握していたようです。その大倭の参謀総長、兼台与の官房長官が難升米のようです。(2009年9月16日投稿)
卑弥呼は弟が補佐しましたが台与を補佐したのが難升米のようです。私は高木神が大倭だと考えていますが、そうであれば台与を補佐したのは大倭のようにも思えます。しかし大倭はキングメーカー(陰の実力者)のようです。
238年には卑弥呼が「親魏倭王」に、また難升米は率善中朗将に冊封されています。「親魏倭王」は魏の皇帝の一族に順ずる地位ですが、難升米の中朗将は比二千石(実質では千二百石)が任命される中央政府の官職です。
中央政府の官職には「中二千石」や「万石」もありますが、地方行政官では州刺史が最高位の二千石であり、大郡の太守が千石、小郡の太守が六百石ですから、比二千石の難升米は州刺史と大郡太守の中間の地位になり、地方行政官としては相当な高位です。因みに帯方郡使の張政の塞曹掾史は百石です。
難升米に黄幢が授与されたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に報告したからですが、行政官が軍事行動を起こす際には武官位が追送されます。黄幢は比二千石の武官が軍事行動を決行する時に授与されるもののようです。比二千石の武官には校尉がありますが、難升米は「護狗奴校尉」のような魏の武官位を追与されて狗奴国討伐を指揮したのでしょう。
このような活動のできた難升米はどのような背景を持つ人物なのか気になるところですが、倭人伝の記述するところから見て安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ていて外交を熟知していることが考えられます。
魏皇帝の黄幢・詔書を利用して狗奴国を討伐するという発想は、いかにも外交を熟知した難升米らしいと言えます。狗奴国討伐が『古事記』のスサノオによる保食神殺しや、『日本書紀』のツキヨミによる大気津比売殺しの神話になったと考えていますが、保食神・大気津比売は食物の神であることが共通しています。
247年ころに台与が遣使していますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたのであれば、難升米の官位も認められたことが考えられます。このころスサノオの高天が原追放で語られている、卑弥呼死後の争乱の事後処理が行われ、銅戈を配布した部族が消滅します。
銅戈を配布した部族が消滅したことで王位を巡る部族間の対立はなくなり、女王制は有名無実になってきますが、そこで台与を退位させ男王を立てて、倭人を統一する動きが出てくるようです。その一環がホノニニギの天孫降臨ですが、それを画策したのは大倭(高木神)であり、魏の率善中朗将にして狗奴国討伐の指揮官でもある難升米のようです。
黄幢・詔書は247年に届きますが、届けた張政は台与と難升米に「檄を為して告喩」したと書かれています。台与と共に難升米が「告喩」されていることを見ると、難升米は内政においても的確な判断の下せる人物だったようです。
倭人伝の記事は正始8年で終わっており、難升米の存在が確認できるのは239年から247年までの8年間ですが、239年に卑弥呼の使者になり率善中朗将に任ぜられたのが40歳だったと仮定すると、黄幢、詔書が届いた時には40歳代の後半だったことになります。
2009年9月の投稿では神武天皇の年代を明らかにできませんでしたが、5月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べたように266年の倭人の遣使が神武天皇の行ったものであれば、ホノニニギの天孫降臨は250年代であることが考えられ、これも難升米の発案であり難升米が50歳代のころであったことが考えられます。
266年の倭人の遣使が契機になって270~80年代に大和朝廷が成立すると考えますが、難升米が生きていれば70~80歳のころのことになりそうで、難升米の生涯は大和朝廷の成立に賭けたものであったということになりそうです。
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