今回は「推理小説もどき」を披露します。邪馬台国研究の先駆者として白鳥庫吉を挙げないわけにはいきませんが、彼にまつわる推理で倭人伝に次の文があります。
女王国の以北には、特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。
この文についての通説では伊都国にいる一大率が諸国を検察しており、また港では文書や献納物を捜露していて、その有様があたかも中国の州刺史の如くだとされています。前漢時代の刺史は担当の州内を巡視する司察官なので「諸国を検察す」という表現は適切です。
しかし三世紀の魏・晋時代の刺史は最高位の地方行政官で州の長官であって、州内を巡視することもないし、津(港)に出向いてに捜露することもありません。このことは『三国志』の編纂者陳寿自身が『魏志』巻十五の冒頭に述べているところです。
その陳寿が300年も400年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して3世紀の一大率を説明することはあり得ません。通説の解釈は文化2年(1805)に設置された関東八州取締出役(俗に八州廻り、八州様)を引き合いに出して、21世紀の神奈川県知事を説明しているようなものです。
通説は一大率が関八州取締出役のようなものだと思われたことから生れたようです。江戸時代の関東8ヶ国は大名領・天領・旗本領・寺社領が複雑に交錯しており、犯罪があっても川一つが越えられず捕縛できないというようなことがあって、支配者の領域に関係なく対応できる関八州取締出役が設置されました。
初期の関八州取締出役は8名で、江戸府内と水戸藩領以外の関東八州の、担当する州内を巡視していたようですが、これは前漢時代の刺史が、首都圏以外の13州に一名ずつ配置されて担当の州内を巡視したのと似ています。
身分は足軽格で軽輩でしたが支配領域に関係なく行動できることから権限は大きく、その生活も籠に乗り従者を従えて移動するなど豪勢で、「泣く子も黙る」と言われて恐れられていました。倭人伝には「特置一大率、検察諸国、(諸国)畏憚之」とありますが、関八州取締出役が恐れられていたのと似ています。
身分は足軽格でしたが、前漢時代の刺史の秩禄も六百石でした。刺史の役割が担当の州内の政情を中央政府に報告することだったことから、魏・晋時代には二千石の州の長官になるのと似ている点があります。
安政元年(1854)にアメリカ東洋艦隊のペリー提督が浦賀に来航し、横浜の開港を要求していますが、横浜は安政6年(1859)に開港されます。ペリー提督の来航以後を幕末と言っていますが、幕末は鎖国から開国へと大きく揺らいだ時代です。
徳川幕府の崩壊が近くなって世の中が騒然としてくると警備が強化され、元冶元年(1864)には定員が20名に増員されていますが、新たに横浜を警備するために保土ヶ谷に一名が配置されたことに注意しなければならないようです。
関八州取締出役が横浜警備のために配置されたことは、警備の対象が関東の八州だけでなく開港されて「治外法権」になった横浜にも向けられたということでしょう。このことは倭人伝の「津に臨み捜露す」の文を思い起こさせます。
幕末の関八州取締出役には関東の八州を取り締まりの対象にするものと、直接ではないにせよ横浜の外国船を取締りの対象 にするものがあるようです。一大率は横浜の外国船を取締るために配置された関八州取締出役のようなものだと思われ、横浜の外国船を「津に臨みて捜露」しているのだと想定されているようです。
それが混同されると横浜警備のためと、関八州警備のための違いが区別されなくなり、知らない人は関八州取締出役は横浜の外国船を取締まるものだと思うようになってくることが考えられ、これが倭人伝の記事と結び付けられたことが考えられます。
糸島郡と朝鮮半島の関係に結び付られ、一大率は伊都国の津(糸島郡の港)に出向いて朝鮮半島から来た船を捜露する役人だという通説になるようです。しかし捜露は女王の行う遣使に対しても行われていますから、一大率と横浜警備の関八州取締出役の性格が同じだという解釈は適切ではありません。
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