「二人のヒコホホデミ」がいることを述べてきましたが、銅矛を配布した部族によって薩摩が統合されたことがホノニニギやホオリの活動として語られ、大隅半島部分が統合されたことがウガヤフキアエズの活動として語られているようです。
『梁書』『北史』は台与の後に男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けたと伝えています。また『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があったとし、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。
通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、それ以前に台与と竝んで男王が中国の爵命を受けているようです。この男王がホノニニギですが、司馬昭が相国だった時期の何度かの倭人の遣使のうちに、爵命を受けるための遣使があったとも考えることができます。
神武天皇は天照大神の6世孫でヒコホオデミの孫とされていますが、この天照大神は卑弥呼です。その6世孫ということであれば相当に年代差があることになりますが、天孫降臨が司馬昭の相国だった258~265年のこととするとホノニニギ(台与の後の王)と、天照大神(卑弥呼)の死んだ247年との差は10~20年程度と小さくなります。
さらに「二人のホホデミ」の一方が神武天皇のようで、ホノニニギと神武天皇には年代差がほとんどないようです。確証はありませんが倭人が遣使した泰始の初め(266年)には、神武天皇の東遷が始まってもよい状態なっていたことが考えられます。
津田左右吉はホノニニギの事績について、高千穂の峰に降臨したことと、土地の娘を娶って子供をもうけただけだとしていますが、確かにホノニニギが日向を平定したとはされていません。ホノニニギは卑弥呼・台与の王統を継承しているとされているだけのようです。
ホノニニギはヒコホホデミの誕生の際に「是、我が子に非じ。必ず国つ神の子ならむ」と言っていますが、侏儒国を統合したのはホノニニギではなく銅矛を配布した部族であり、国つ神の子である「二人のヒコホホデミ」のうちの神武天皇であろうと思います。
四国の太平洋側には多数の広形銅矛が分布していますが、銅矛を配布した部族は中国・四国も統合しようとしているようです。その地理上の中心は周防灘沿岸から日向北部になりますが、日向北部が南九州・四国を統合する拠点になったと考え、神武天皇はその南九州が統合される際の中心的人物だったと考えます。
日向神話ではシオツチノオジが重要な役割を果たしていますが、志布志湾沿岸の曾於郡有明町野井倉で南九州唯一の中広形銅矛が出土しています。これが山幸彦に海神豊玉彦の宮に行くことを教えたシオツチノオジだと考えています。
志布志湾沿岸は鹿児島県下最大の穀倉地帯で、唐仁古墳群・塚崎古墳群などもあり、大隅直・曽君などの存在が考えられています。また近くにウガヤフキアエズの吾平山稜があり、大隅直・曽君などの遠祖がウガヤフキアエズとされているようです。
ウガヤフキアエズはヒコホホデミ(山幸彦)の子で神武天皇の父とされていますが、神武天皇がヒコホホデミであれば、山幸彦は神武天皇でもあることになります。日向南部の土着勢力(ウガヤフキアエズ)や銅矛を配布した部族が、神武天皇を倭王に擁立しようとしたことが考えられます。
『古事記』はホノニニギの言として「此の地は韓国に向かい、笠紗の御前に真来通り」としていますが、朝鮮半島との交通が意識されています。山幸彦が豊玉彦の宮に行く物語は、神武天皇が魏から倭国王に冊封されて倭人の諸国を統一しようとしたというのでしょう。
司馬昭が相国だった7年間の何度かの倭人の遣使は、神武天皇の遣使が何度か計画されたが、そのころの魏は滅亡直前で実態のない国になっていたということでもありそうです。265年12月に晋王朝が成立すると、神武天皇は翌266年にさっそく遣使して倭国王に冊封されたと考えます。
事実かどうかは定かではありませんが、神武天皇の東遷開始から即位まで『古事記』では7年、『日本書紀』では17年が経過したとされています。266年の7年後は273年になり、17年後は283年になりますが、神武天皇が即位したのは270~80年代のようです。
大和朝廷が成立して古墳時代が始まると考えますが、270~80年代といえば古墳時代の始まる3世紀後半になります。神武天皇や、いわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないという説もありますが、266年の遣使が大和朝廷の成立や神武天皇の即位と無関係だとは思えません。
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