4月3日に「一大率 その5」を投稿しましたが、投稿システムが変ったようなので文章は削除しましたが図と投稿履歴が残ってしまいました。そこで図を以前のものよりも簡素にして再投稿します。直接には一大率に関係はなくその背景を考えてみようとゆうものです。
通説では帯方郡~倭国間の万二千里については東松浦半島(末盧国)までを一万里とし、東松浦半島~糸島郡間が五百里とされ、残りの千五百里が糸島郡と邪馬台国の間の距離だとされています。邪馬台国=九州説の根拠になっているのがこの考え方です。
この通説では七千余里の狗邪韓国はキメ(金海)、あるいはプサン(釜山)付近とされていますが、狗邪韓国には定説がなく、キメとすると韓の広さの「方四千里」と整合しません。狗弥韓国はいわゆる「弁韓」の西の端にある国で、七千余里は狗邪韓国の西端までの距離だと考えます。
帯方郡使が対馬国で寄港したのは厳原だとする説が多いようですが、地勢・遺跡分布などから見て浅茅湾と見るのがよいでしょう。その場合キメまで行くと二千里以上の遠回りになります。対馬海峡の渡海地点は浅茅湾に近いコジェ島(巨済島)の西海岸で、帯方郡治(郡役所)のあったソウル(京城)の外港、インチョン(仁川)から九千里の海域だと考えます。
また宗像(面土国)までは万三千里になり、以前の投稿で話題にした行橋市の草野津は万四千里になり、従来の九州説は成立しません。
これは万二千里が糸島郡を伊都国とする根拠にはならないということであり、伊都国は糸島郡以外の地に求めなければならないということで、私はそれを田川郡だと考えています。
こうしたことから高木彬光氏の宗像郡を末盧国とする説に関心を持っていますが、宗像郡は末盧国ではなく面土国と考えるのがよいようです。邪馬台国が高天が原であり卑弥呼・台与が天照大神なら、必然的にスサノオが統治を命ぜられた海原はスサノオと関係の深い宗像郡(面土国)ということになります。
また伊都国が田川郡なら一大率の居た痕跡があるはずですが、田川郡ではやたらと猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔に出くわします。どうもサルタヒコは一大率のようです。ということでサルタヒコについて4回に渡って投稿してみました。
一連の投稿で感じたことは物部氏と宗像氏の遠祖の関係です。通説では奴国は福岡平野とされていますが、私は遠賀川の鞍手・嘉麻・穂波の三郡だと考えています。その遠賀川流域に物部氏の伝承があり、ことに鞍手郡の六ヶ岳周辺に集中していています。
物部氏は時流に聡い氏族で「八十物部」と言われるほど同族が多く、その伝承も各地にあって物部氏の伝承を全て採りあげると収拾が着かなくなりますが、遠賀川流域の物部氏の遠祖は1世紀にあっては奴国王と密接な関係にあったようです。
奴国王そのものだったとも考えていますが、それはさておいて2世紀から3世紀の前半にあっては面土国王と密接な関係にあり、邪馬台国、あるいは女王とは相対的な関係にあったようです。この物部氏・宗像氏の遠祖の動きに対応して設置されたのが一大率であり、一大率には女王の都のあった邪馬台国と草野津との間の交通を確保する役割もあったようです。
3世紀中葉に台与が共立されますが、間もなく台与を退位させ、台与の後の王(ホノニニギ)を立てようとする動きが出てくるようです。物部氏・宗像氏の遠祖はこれに反対したため宗像氏の遠祖は滅ぼされるようですが、これがスサノオが天が原から追放される神話になっています。
一方の物部氏の遠祖のほうですが、『先代旧事本紀』によると物部氏の始祖の二ギハヤヒ(饒速日)は天磐船に乗って河内の哮峯に天降りしたとされています。これはスサノオが高天が原から追放されて出雲に降るのとよく似ています。
『先代旧事本紀』ではニギハヤヒが河内に降るのは天照大神に命ぜられたためとされていますが、『古事記』『日本書紀』では理由がよく分かりません。私はスサノオが高天が原から追放されるのとニギハヤヒが河内に降るのは、台与の退位に反対したことに起因する、247年から間もないころに起きた同質の事件だと思っています。
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