2011年6月12日日曜日

高天が原神話 その3

太宰府天満宮蔵本『翰苑』は誤字・脱字が多く資料としての価値は低いと考えられていますが、その中に次の文が見えます。私はこの文が邪馬台国の位置を決める鍵になると考えています。

邪届伊都、傍連斯馬 廣志曰、(倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉国、百(自)女〔王〕国以北、其戸數道里、可得略載

表題の「邪届伊都傍連斯馬」については「邪めに伊都に届き、傍わら斯馬に連なる」と読む説や「邪は伊都に届き、斯馬の傍に連なる」と読む説がありますが、いずれにしても「自女王国以北」か、それに近い所に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることになります。

そしてある地点の東南五百里に伊都国があり、その地点の南には邪馬嘉国があるということのようですが、邪馬嘉の「嘉」は台か壱の誤字で邪馬台国のことでしょう。この文では奴国・不弥国・投馬国が省略されています。

倭人伝の地理記事が直線行程なら、伊都国と邪馬台国の間に奴国・不弥国・投馬国が位置していることになりますが、この文だとこれらの国を考慮する必要がありません。これは「自女王国以北」の国々の方位・距離は放射行程だということです。

『広志』の原書が失われているので確証にはなりませんが「邪届伊都」の「邪」を邪馬台国のことだとすると、ある地点の東南に伊都国があり、南には邪馬嘉国が有って、邪馬嘉国は一方で伊都国に届き、また一方では斯馬国に連なっていることになってきます。

「邪」が邪馬台国のことではないにしても、「自女王国以北」に伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があることに違いはないようです。

「ある地点」は宗像郡だと考えていますが、伊都国は糸島郡ではなく田川郡であり、斯馬国は糸島郡のうちの旧志摩郡だと考えます。伊都国(田川郡)に届いているのは現在の朝倉郡東峰村になります。

東峰村は旧宝珠山村と小石原村が合併したもので、律令制の上座郡(かむつあさくら)に属しており、現在の朝倉市東半と東峰村が上座郡になります。従って志摩郡と上座郡の間の筑前西半が邪馬台国ということになってきます。

筑前を三郡山地で東西に二分した時の西側には甕棺墓が見られますが、東側は土坑墓・石棺墓で、東西で文化に相違があったようです。甕棺墓が見られる地域が邪馬台国であり、土坑墓・石棺墓の地域が奴国のようです。

上座郡は筑前・筑後・豊前・豊後の国境に位置し、国境を越える交通路も存在しています。また肥前国境もごく近距離にあります。このように見ると邪馬台国の地政学上の中心は上座郡と見るのがよさそうです。

こうしたことから私は豊前・豊後・筑前・筑後の4ヶ国に肥前の佐賀県部分を加えたものが女王国だと考え、伊都国(田川郡)に届いている上座郡が卑弥呼の都のあった邪馬台国であり、神話の高天が原だと考えます。

この考えは安本美典氏の一連の著書から得たものですが、安本氏は上座郡、ことに旧志波村に神話に関係するものがあることを重視しつつ、下座郡(しもつあさくら)や夜須郡をも含めた地域を邪馬台国(の中心部)とされているようです。

それに異論はありませんが『翰苑』の「邪届伊都傍連斯馬」に拘ってみたいと思っています。その東峰村の西が1955年に甘木市に編入された旧高木村ですが、高木村を中心とする上座郡、及び隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)の南部に多数の高木神社が見られます。

英彦山は修験道の道場として知られていますが、3月投稿の「一大率」では豊前のサルタヒコが山王信仰の影響で猿に変わることを述べました。上座郡周辺の高木神には山王信仰の大行事権現の影響を受けて大行事社の祭神になっているものがあり、高木神を祭る神社は相当数にのぼります。

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