図は私の考える思金神に関わる『古事記』の神統と、それに対応する倭人伝中の人物を推定したものです。台与が天照大神であり大倭が高木神であるのなら、高木神の子とされホノニニギの叔父とされている思金神を難升米とするのがよさそうです。
思金神は書によっては「思兼神」「八意思兼神」とも書かれていて深謀・遠慮する神だと考えられています。天照大神・高木神が他の神に指令を下す「指令神」であるのに対し、思金神はその指令を(ことに高木神の指令を)具体化して進言する神として描かれています。
思金神と難升米は性格が似ていますが、図の系譜を倭人伝中の人物の血縁関係が示されていると考える必要はないようで、言わば247年ころの女王国内のパワーバランスが示されていると考えればよさそうです。
安本美典氏は台与を万幡豊秋津師比売だとされていますが、オシホミミが卑弥呼死後の男王であり、ホノニニギが台与の後の王だと考えられますから、その可能性もあるように思います。
とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです。
とすれば神統上では難升米は台与の兄か弟ということになってきますが、これも血縁関係が示されていると考える必要はなさそうです。
『日本書記』は神の尊称の「命」と「尊」を明確に使い分けており、天皇の祖には「尊」が用いられています。このことから『日本書紀』の一書に見える稚日女尊(台与)と大孁貴(卑弥呼)を合成したものが天照大神だと考えていますが、これは伝承した氏族が違うことによるのでしょう。
万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。
これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。
万幡豊秋津師比売と稚日女尊がどのような関係になるのかは資料にありませんが、図では台与の後の男王(ホノニニギ)は大倭と卑弥呼の孫と言うことになってきます。高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)と天照大神・ツキヨミ・スサノオが同格の位置付けになっています。
これは天照大神を「皇祖」とする考え方があるのに対して、元来の邪馬台国の支配者(首長、王)である高木神を「皇祖」とする考えもあるということで、そのため神話の冒頭に高天が原にいる「別天つ神」の1柱として高木神が登場してくることになるようです。
『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に、何度かの倭人の遣使があり、泰始の初め(266年)にも遣使したとしています。司馬昭が相国だった7年間の、何度かの倭人の遣使も難升米の発案によることでしょう。
銅矛を配布した部族の神話・伝説上の始祖がイザナギだと考えますが、難升米は3世紀の銅矛を配布した部族の族長、ないしは有力者だと考えるのがよいと思っています。難升米は安曇・住吉海人や対馬の海人から中国・朝鮮半島の情報を得ており、また倭人社会の動向も把握していたように感じられます。
思金神が活動するのは出雲の国譲りから天孫降臨にかけてですが、難升米が思金神なら出雲の国譲りや、天孫降臨として語り伝えられている史実を発案し主導したのが難升米だということになります。それは250年代のことであり、難升米が50歳代のことになります。
5月に投稿した『二人のヒコホホデミ』ではシオツチノオジは銅矛を配布した部族であろうと述べましたが、シオツチノオジに具体的な指示を出していたのも難升米であったと思います。そして神話の語るところからみて大国主の国譲りを発案するのも難升米のようのです。
難升米は249年の司馬懿のクーデターを、いずれ司馬氏か魏を乗っ取ることだと判断したと考えます。難升米は司馬懿のクーデターで台与の親魏倭王は価値のないものになったことを知り、また中国・朝鮮半島の政情を見るにつけ、冊封体制から離脱して民族として自立しなければならないと考えたと思います。
それは卑弥呼以来の女王体制が維持できなくなるということで、難升米のシナリオには、魏の消滅以後のことも考えられていたでしょう。三世紀後半に大和朝廷が成立し古墳時代が到来することも、難升米の考えたシナリオの中に折りこみ済みだったと考えます。
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