2010年4月6日火曜日

再考・国名のみの21ヶ国 その1

前回の「因幡の素兔」は話が少々脱線しました。神話は根拠が曖昧ですから想像を掻き立てます。それを深追いするとんでもない結論に到達しますが、私はこれを「神話の迷路」と呼び、迷路に迷い込まないよう自戒しているつもりです。

しかしどうもすでに迷路に迷い込んでいるようです。ということで神話と邪馬台国の関連も一巡したことですし、ここで神話は終わりたいと思います。そこで国名のみの21ヶ国について再度、具体的に考えてみたいと思います。

対馬国が「方四百里」とされ一大(一支)国が「方三百里」とされていることから見て、対馬国は対馬の上県郡でしょうし、一大国は壱岐島と考えてよいでしょう。その戸数は対馬国の千余戸に対し一大国は三千余家です。

末盧国は肥前の松浦郡でしょうが、律令制松浦郡の郡域は広く、その戸数が四千余戸のようです。伊都国は通説では糸島郡だと考えられていますが、私は田河郡だと考えていますが、それは千余戸です。不弥国は遠賀郡だと考えますがその戸数も千余戸です。

このように考えると国名のみの21ヶ国も郡程度の大きさで、その戸数は千~4千戸程度と考えてよさそうです。私は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡が戸数2万の奴国であることから見て、平野部の人口密度の高い所では7千戸になると考えます。

畿内説では21ヶ国を律令制の国名と結び付けて、伊邪=伊予国、斯馬=志摩国、弥奴=美濃国などとされている例がありますが、これを千~四千余家の郡程度の大きさと考えてよいでしょうか。

これら律令制の国はその面積や国内の郡数から見て、戸数七万の邪馬台国よりもはるかに大きかったと考えなければならないでしょう。例えば美濃国は18郡ですが、倭人伝の国の平均戸数を2千戸すると3万2千戸になります。

濃尾平野の稲作量から見て2倍の4千戸とすると7万2千戸になり、7千戸とすると、邪馬台国の七万よりもはるかに多い12万6千戸になります。これは伊邪=伊予国、斯馬=志摩国などについても同じことが言えるでしょう。ちなみに大和15郡を平均7千戸とすると、10万5千戸になります。

国名のみの21ヶ国の面積と戸数は、律令制の国と郡のどちらに近いでしょうか。そしてどうして九州説と畿内説ではこのような違いが起きるのでしょうか。それは倭国を統一された民族国家と見るか、未統一の部族国家と見るかの違いのようです。

倭人伝は女王国のことを倭国と言っており、それは外交に用いられる呼び方です。それ以外は「倭種」「倭地」と呼んで区別しています。3世紀の倭国はまだ部族が王を擁立する「部族国家」の時代で、倭国とは北部九州にあった女王国のことです。

対馬国が対馬国上県郡であり、一大国が壱岐島であり、末盧国は肥前国の松浦郡であることは明らかで、その戸数・面積から見て国名のみの21ヶ国が女王の支配する北部九州以外にあるとは思えません。

倭国がすでに倭人の民族国家になっていたのなら畿内説も成立するでしょうが、統一された民族国家になるのは280年ごろに大和朝廷が成立して以後のことです。これがオオクニヌシの国譲りや神武東遷の物語になっています。

畿内説は無理があります。倭人伝に見える方位・距離は信用できない上に、ここに示した対馬国・一大国・末盧国の面積・戸数も信用できないというのであれば、邪馬台国の存在自体が信用できないということにもなりかねません。

それはさておいて21ヶ国の最初は斯馬国ですが、最後の奴国については「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、宗像郡(面土国)の田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます。

図は律令制官道に、倭人伝の記述から私の想定する交通路を重ねたものですが、度々述べてきたように16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。次回には赤線で示した部分について述べてみたいと思います。

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