2010年4月23日金曜日

高句麗伝と稍

当時の王頎は玄菟郡太守でしたが、毌丘倹旗下の一将として参戦したことが考えられます。このことは文献にありませんが、私は5年の討伐では王頎は毌丘倹の兵と共に、遼東郡冶の襄平城(遼寧省遼陽付近)から出撃し、高句麗国都に向かったと考えています。高句麗伝には次のように述べられています。

高句麗は遼東の東千里に在り。南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は夫余と接す。丸都の下に都す。方二千里ばかり
 
この高句麗伝の地理記事について古田武彦氏が山尾幸久氏の説に反論しています。(『邪馬台国はなかった』昭和46年、朝日新聞社)そこに述べられていることは東夷伝の地理記事の問題点を如実に示しているので引用してみます。

この場合は、首都が記されているから、一見「千里」は、これこそ「遼東―丸都」間であるようにも思えよう。しかし、ここの文脈は高句麗の四辺の国境を定めている個所であり、いわゆる「四至」に類する文である。「南・東・北」の三国境は「接」の形で書かれている。これに対し、「西の国境」が遼東郡冶からの距離で書かれているのである。すなわち、当時、遼東郡冶の東「千里」(韓・倭人伝の里数値)の所に高句麗の西境があった、というのである。

「四至に類する文」とは放射行程のことですが、古田氏はこの文は国境が問題にされているのだから「遼東の東千里」は高句麗の西境までの距離だと言っています。古田氏は「稍」という考え方に気付いていません。

通説では中国史書に見える方位・距離は起点も終点も郡冶所や国都のような「中心地」だと考えられていて、山尾氏は千里を高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)までの距離だとしています。しかしこれは遼東~丸都間の距離ではありません。

この部分は高句麗と周辺諸国との位置関係が述べられているのであって、古田氏が言うように国境が問題にされているというのでもありません。「高句麗は遼東の東千里に在り」は「遼東郡冶を去ること三百里」に高句麗の国境があるという意味です。

同時に国境の東には正始5年に討伐された高句麗国都の丸都城が在るという意味も合わせ持っています。高句麗伝の書かれた時代背景の、毌丘倹の軍勢が遼東郡冶の襄平城から高句麗国都の丸都城に向かったことを理解していないと誤解が生じてきます。

「方二千里」は高句麗の広さが「方六百里」(260キロ四方)だということですが、「東千里」と「方二千里」とはどちらもであることに注意する必要があります。魏は高句麗を遼東郡冶の東三百里に国境があり、その広さは六百里四方の国だと規定しているのです。

この規定が魏と高句麗との冊封関係の基本になりますが、高句麗は三百里以上を支配してはいけないという冊封体制の職約(義務)に反したので討伐を受けたのです。冊封体制の根本理念に王畿思想があります。王畿という概念は『周礼』『書経』などにはじまり、ことに『周礼』に詳細な記述があります。

中国の中心に王(天子・皇帝)の住む王城があり、王城を中心とする四方五百里まで(千里四方)を王畿、または国畿といいます。国畿の外周には内臣の分封される五百里四方の領域があり、さらにその外周に夷狄と呼ばれる異民族が住んでいるという考え方です。

世界の中央に中国の王(天子・皇帝)の所有する千里の王畿・国畿があるというのです。このことから身分の上下や領域の広さに関係なく、「支配地」の代名詞として千里が用いられているようです。中国では千里を大きい・多い、長いといった意味に用いており「千里を得る」は日本の「一国一城の主になる」と同じ意味になりますが、千里にはそのような意味もあるようです。

それが二千石の郡太守の場合には王畿・国畿・都とは言わず、「稍」になるようです。王畿・国畿の概念に従えば「方六百里」が千里になるはずですが、三百里が千里とされて「方六百里」のほうは「方二千里」と表現されています。

異民族の王は外臣と呼ばれていますが、郡太守と外臣の王とは同格ですから、外臣の王も支配領域を「稍」に制限(規定)されます。卑弥呼の場合も同様ですが、卑弥呼は親魏倭王に冊封されていますから、単なる外臣ではなく内臣の王に準ずる高位だったようです。

高句麗伝の地理記事を大ざっぱに言えば遼寧省の遼河の下流域、およびその支流の渾河流域が遼東郡であり、鴨緑江中・上流域が高句麗で、その分水界付近が国境になっているということです。前々回に述べたようにその国境には明代に「柳条片牆」が築かれます。

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