2010年4月8日木曜日

再考・国名のみの21ヶ国 その2

『倭名類従抄』によると筑前は15郡、筑後は9郡、豊前は8郡、豊後も8郡、肥前は13郡になっています。私は斯馬国は「島の国」という意味の国名で、筑前の志摩郡だと考えています。筑前には邪馬台国と面土国、及び「自女王国以北」の国もあり、筑後は投馬国だと考えています。

国名のみの21ヶ国の16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は8郡ですが、日田・海部・国東以外の5郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。

そうすると残る国名のみの14ヶ国は豊前8郡、肥前13郡の範囲に収まりそうですが、肥前の長崎県部分には青銅祭器が見られません。青銅祭器は渡来系弥生人の部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものです。

肥前の長崎県部分は西北九州タイプの「縄文系弥生人」が居住していたようで、そこは熊襲の領域であり狗奴国に属していたようです。とすれば残りの14ヶ国は肥前の佐賀県部分の8郡と豊前の8郡になりそうです。

肥前の佐賀県部分の松浦郡は末盧国であり、豊前の田河郡は伊都国ですから、残りの14郡が14ヶ国のどれかに相当することになります。寺沢薫氏は講談社刊『王権誕生』で次のように述べています。

遺跡の分布状況や「郡」の領域などを参考にすると、佐賀平野は基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神崎(かんざき)、佐嘉(さか)、小城(おぎ)、杵島(きじま)の各郡に相当する、七つのクニからなると考えられる。(中略) 吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ。

豊後の郡名を見ると、⑰躬臣=玖珠 ⑱巴利=速見 ⑲支惟=大分=おおきた ⑳烏奴=大野 21 奴=直入のように、倭人伝に見える国名と音がよく似ています。そのような意味では12番目の華奴蘇奴と肥前の神崎の音がよく似ています。

華奴蘇奴国は神崎郡と考えることができそうです。9番目の対蘇と養父郡鳥栖郷の鳥栖(とす)の音も似ています。ただし鳥栖は基肄郡ではなく養父郡に属していますが、9番目の対蘇と10番目の蘇奴の順番が逆になっているのかも知れません。

15番目の鬼奴も杵島(きしま)の杵(きね)に似ています。杵島郡の西隣は長崎県になりますが彼杵(そのき)郡で、共に郡名に「杵」が用いられています。鬼奴は「きね」の音を表記していると考えることができそうです。

青銅祭器が見られないことから見て、肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたことが考えられますが、このように考えると9番目の対蘇から15番目の鬼奴までは肥前の佐賀県部分にあったことが考えられます。

⑨対蘇=基肄 ⑩蘇奴=養父 ⑪呼邑=三根 ⑫華奴蘇奴=神崎 ⑬鬼=佐嘉 ⑭為吾=小城 ⑮鬼奴=杵島  

文を引用させていただいた寺沢氏は「母集落を核とした動的な遺跡群を一括する約3~5㎞の日常生活圏」を「小共同体」とし、「律令の郡規模を目安とした政治性をも内包した圏」を「クニ」としています。

私は寺沢氏の言われる母集落はその地域で最も有力な宗族の集落であり、小共同体はその有力な宗族の日常生活圏であり、クニはその宗族の通婚圏であり「政治性をも内包」している考えています。というよりも律令制の郡の多くが倭人伝の国そのものだと考えます。

寺沢氏は紀元前後の状態を想定して「吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ」と述べられていますが、それは3世紀になっても変わっていないことになります。残る7ヶ国は豊前にあったと考えてよさそうです。

吉野ヶ里を邪馬台国とする説がありますが、寺沢氏の言われるように「神崎のクニ(華奴蘇奴の国)の拠点」だと考えるのがよさそうです。あるいは肥前の7ヶ国の拠点になっているのかも知れませんが、それが邪馬台国だとは言えないようです。

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