東夷伝にはしばしば「稍」の文字が出てきますが、「少ない・徐々に」といった意味で用いられています。ところが『大漢和辭典』で調べてみると「六百里四方」という意味と「王城を去ること三百里」という意味があり、また「太夫の食封」という意味もあります。
今までに稍という考え方があり、それが東夷伝なり倭人伝に見られるという説を聞いたことがありません。またそれが冊封体制と関係があり、異民族の王の支配領域を六百里四方に制限する根拠になっているなどとは考えられてもいません。
それが親魏倭王に冊封された卑弥呼にも適用されていました。これは邪馬台国が畿内にあったとしても北部九州は支配できないし、逆に北部九州に在ったとしても畿内は支配できないということです。それは倭国が統一された民族国家ではなく、未統一の部族国家だということでもあります。
また「王城を去ること三百里」を地理記事にすると、王城を中心にした放射行程になり、直線行程になることはありません。倭人伝の地理記事の帯方郡から末盧国までは直線行程なっていますが、これは倭国が大海中の島国であるために、放射行程ではその位置が説明できないからです。
稍の意味に気付いた時に思ったのは、東夷伝の千里は実際には三百里ではないかということでしたが、稍の存在を認めると弥生時代史が変わってきます。前回の投稿では先を急いだために詳しいことが述べられませんでしたのでさらに述べてみたいと思います。
東夷伝の千里は実際には三百里ではないかと思った私は、さっそく倭人伝の記事と照合してみました。一里を434メートルとすると三百里は約130キロになりますが、どのように見ても韓伝・倭人伝の千里は半分の65キロ程度にしかなりません。
そこで韓伝・倭人伝以外の諸伝にも当たって見ました。山尾幸久氏の説に従って遼東郡冶(遼東郡役所)の襄平城を遼寧省遼陽付近とし、玄菟郡冶を遼寧省撫順付近とすると、その間はおよそ三百里になりそうです。
また遼東郡冶と高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)の間は、その間隔(距離)から見て六百~九百里になりそうです。
手元に昭和6年9月に三省堂から発行された『最近世界地図』という地図帳があります。小学校高学年か中学校の教科書のようで、その中に旧満州の地図があり、長城の記号と「長柵」という文字が見られます。
この地図を見ると遼東郡冶の襄平城の東三百里と、高句麗国都の丸都城の西三百里は同一地点であり、それは「長柵」付近になりそうです。その地点が両国の国境になっていることが考えられ、遼東郡冶と高句麗国都の間は六百里になることが考えられました。
この地図から東夷伝に見える方位・距離の終点は国境だと考えなければならないことに気付きました。「長柵」は「万里の長城」から東に伸びて、吉林省吉林市の北の第二松花江に達しています。また遼寧省開原の北で分岐しており、南に伸びて西朝鮮湾(黄海)に達しています。
明代(1368~1644)には、ほぼ同じ位置に「柳条片牆」という城門を備えた長城がありました。後になって気が付きましたが柳条片牆と長柵とは同じもののようです。
詳細は分かりませんが、日清・日露の戦役の後、遼東半島に権益を持つようになった旧日本軍が、明代の柳条片牆を修復して、中国・ロシアに対する防壁として利用したように考えられます。
柳条片牆は遼東郡冶と玄菟郡冶からの三百里以内を取り巻くように設けられているようです。 夫余伝に「夫余は長城の北に在り」とありますが、その長城が夫余と玄菟郡の国境だと考えられ、おそらくその長城が後に柳条片牆になるのでしょう。
概念的に見ると開原付近から北東に伸びる柳条片牆の東側がツングース系狩猟民の夫余族の住む地域であり、西側が遊牧民の鮮卑・烏丸の住む地域と思えばよいようです。南に伸びる柳条片牆が遼東と高句麗の国境であり、また夫余と玄菟郡の国境でもあるようです。
私たちは「万里の長城」のことはよく知っていますが、その東に柳条片牆が存在していることをほとんど知りません。三世紀と明代とでは時代は異なりますが、柳条片牆は東夷伝の地理記事を解明する手懸かりになりそうです。
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