2010年4月12日月曜日

再考・国名のみの21ヶ国 その3

9番目の対蘇から15番目の鬼奴までが肥前にあったのであれば、2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったということになります。伊都国は糸島郡ではなく田河郡であり、不弥国は遠賀郡です。

②巳百支=企救 ③伊邪=京都 ④都支=仲津 ⑤彌奴=筑城 ⑥好古都=上毛 ⑦不呼=下毛 ⑧沮奴=宇佐  

宇佐の宇佐神宮を邪馬台国と結び付ける説がありますが、宇佐は沮奴国ということになり宇佐説も成立しないようです。また京都郡を邪馬台国とする説もありますが、京都郡が伊邪国ならこの説も成立しないことになります。

大宰府天満宮蔵の『翰苑』には『廣志』を引用した次の文が見られますが、私はこの文が邪馬台国論争の「決め手」だと考えています。『翰苑』は唐代の書ですから遣隋使・遣唐使から得た情報が加わっている可能性があります。

邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。自女王国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也。

表題の「邪届伊都傍連斯馬」は、「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるということです。「ある地点」は宗像郡の田熊・土穴付近であり、邪馬嘉は邪馬台国のことです。伊都国は田川郡であり斯馬国は志摩郡です。

『廣志』の引用文には「自女王国以北」の奴国・不弥国が省略されていますが、倭人伝にも巳百支国・伊邪国が見えますから、巴百支國・伊邪國が奴国・不弥国というのではなさそうです。この2国は「自女王国以北」や伊都国(田川郡)に近く、また邪馬台国にも近い国のようです。

巴百支国は倭人伝の巳百支国のことで、不弥国(遠賀郡)の東の企救郡であり、伊都国(田川郡)の東は伊邪國(京都郡)と都支国(仲津郡)のようです。あまりに辻褄が合い過ぎて、勘違いしているのではないかと不安になってきます。

「案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り」とありますが、通説では伊邪分国の「分」は「久」の誤りで『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことであり、現在の屋久島と考えられています。

以前の投稿では裸国・黒歯国の方位・距離が東南一年だと太平洋上になるので、『翰苑』の編纂者の張楚金は遣隋使の説明に従い、これを屋久島まで西南海行一日だと考えたとしました。この場合、遣隋使は南島路を採って隋に渡ったことになります。

しかし京都郡が伊邪国であれば、瀬戸内海航路の要津になっていた草野津(かやのつ、行橋市草野)から東南に海を渡った所にある、倭人伝のいう裸国・黒歯国が伊邪分國だと考えることができるようになります。

伊邪分國は裸国・黒歯国のうちの裸国のことだと考えられそうですが、「布帛は無く、革を以って衣と爲す」とあります。奇妙な一致ですが普段は布がないので裸で生活しているが、寒い時には毛皮を纏ったことが考えられます。

「蓋し伊耶國也」の伊耶國とは伊予国のことではないでしょうか。伊予は草野津の西南ではなく東南になりますが、海行一日とは言えるでしょう。伊予は九州で作られた銅矛が四国に搬入される経路になっていて密接な関係が見られます。

銅矛を配布した部族にとって伊予は、草野津のある伊邪國(京都郡)の分国のようなものだと述べられているように思えてきます。しかし実際には分国というわけではなく、そこで伊耶國が出てくるように思われます。

伊耶と伊予は音が似ているとは言えますが、どのような関係があるのか予想もつきません。問題は西南ということと、果たして伊予には布が無かったかということになりそうです。

西南については沖縄まで南下する南島路を採った遣隋使・遣唐使が屋久島のことだと考えたとも思えますが、果たして伊予には布がなかった(少なかった)のでしょうか。新しい課題が出てきましたが、ご存知の方、教示いただければ幸甚です

2010年4月8日木曜日

再考・国名のみの21ヶ国 その2

『倭名類従抄』によると筑前は15郡、筑後は9郡、豊前は8郡、豊後も8郡、肥前は13郡になっています。私は斯馬国は「島の国」という意味の国名で、筑前の志摩郡だと考えています。筑前には邪馬台国と面土国、及び「自女王国以北」の国もあり、筑後は投馬国だと考えています。

国名のみの21ヶ国の16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は8郡ですが、日田・海部・国東以外の5郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。

そうすると残る国名のみの14ヶ国は豊前8郡、肥前13郡の範囲に収まりそうですが、肥前の長崎県部分には青銅祭器が見られません。青銅祭器は渡来系弥生人の部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものです。

肥前の長崎県部分は西北九州タイプの「縄文系弥生人」が居住していたようで、そこは熊襲の領域であり狗奴国に属していたようです。とすれば残りの14ヶ国は肥前の佐賀県部分の8郡と豊前の8郡になりそうです。

肥前の佐賀県部分の松浦郡は末盧国であり、豊前の田河郡は伊都国ですから、残りの14郡が14ヶ国のどれかに相当することになります。寺沢薫氏は講談社刊『王権誕生』で次のように述べています。

遺跡の分布状況や「郡」の領域などを参考にすると、佐賀平野は基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神崎(かんざき)、佐嘉(さか)、小城(おぎ)、杵島(きじま)の各郡に相当する、七つのクニからなると考えられる。(中略) 吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ。

豊後の郡名を見ると、⑰躬臣=玖珠 ⑱巴利=速見 ⑲支惟=大分=おおきた ⑳烏奴=大野 21 奴=直入のように、倭人伝に見える国名と音がよく似ています。そのような意味では12番目の華奴蘇奴と肥前の神崎の音がよく似ています。

華奴蘇奴国は神崎郡と考えることができそうです。9番目の対蘇と養父郡鳥栖郷の鳥栖(とす)の音も似ています。ただし鳥栖は基肄郡ではなく養父郡に属していますが、9番目の対蘇と10番目の蘇奴の順番が逆になっているのかも知れません。

15番目の鬼奴も杵島(きしま)の杵(きね)に似ています。杵島郡の西隣は長崎県になりますが彼杵(そのき)郡で、共に郡名に「杵」が用いられています。鬼奴は「きね」の音を表記していると考えることができそうです。

青銅祭器が見られないことから見て、肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたことが考えられますが、このように考えると9番目の対蘇から15番目の鬼奴までは肥前の佐賀県部分にあったことが考えられます。

⑨対蘇=基肄 ⑩蘇奴=養父 ⑪呼邑=三根 ⑫華奴蘇奴=神崎 ⑬鬼=佐嘉 ⑭為吾=小城 ⑮鬼奴=杵島  

文を引用させていただいた寺沢氏は「母集落を核とした動的な遺跡群を一括する約3~5㎞の日常生活圏」を「小共同体」とし、「律令の郡規模を目安とした政治性をも内包した圏」を「クニ」としています。

私は寺沢氏の言われる母集落はその地域で最も有力な宗族の集落であり、小共同体はその有力な宗族の日常生活圏であり、クニはその宗族の通婚圏であり「政治性をも内包」していると考えています。というよりも律令制の郡の多くが倭人伝の国そのものだと考えます。

寺沢氏は紀元前後の状態を想定して「吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ」と述べられていますが、それは3世紀になっても変わっていないことになります。残る7ヶ国は豊前にあったと考えてよさそうです。

吉野ヶ里を邪馬台国とする説がありますが、寺沢氏の言われるように「神崎のクニ(華奴蘇奴の国)の拠点」だと考えるのがよさそうです。あるいは肥前の7ヶ国の拠点になっているのかも知れませんが、それが邪馬台国だとは言えないようです。

2010年4月6日火曜日

再考・国名のみの21ヶ国 その1

前回の「因幡の素兔」は話が少々脱線しました。神話は根拠が曖昧ですから想像を掻き立てます。それを深追いするとんでもない結論に到達しますが、私はこれを「神話の迷路」と呼び、迷路に迷い込まないよう自戒しているつもりです。

しかしどうもすでに迷路に迷い込んでいるようです。ということで神話と邪馬台国の関連も一巡したことですし、ここで神話は終わりたいと思います。そこで国名のみの21ヶ国について再度、具体的に考えてみたいと思います。

対馬国が「方四百里」とされ一大(一支)国が「方三百里」とされていることから見て、対馬国は対馬の上県郡でしょうし、一大国は壱岐島と考えてよいでしょう。その戸数は対馬国の千余戸に対し一大国は三千余家です。

末盧国は肥前の松浦郡でしょうが、律令制松浦郡の郡域は広く、その戸数が四千余戸のようです。伊都国は通説では糸島郡だと考えられていますが、私は田河郡だと考えていますが、それは千余戸です。不弥国は遠賀郡だと考えますがその戸数も千余戸です。

このように考えると国名のみの21ヶ国も郡程度の大きさで、その戸数は千~4千戸程度と考えてよさそうです。私は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡が戸数2万の奴国であることから見て、平野部の人口密度の高い所では7千戸になると考えます。

畿内説では21ヶ国を律令制の国名と結び付けて、伊邪=伊予国、斯馬=志摩国、弥奴=美濃国などとされている例がありますが、これを千~四千余家の郡程度の大きさと考えてよいでしょうか。

これら律令制の国はその面積や国内の郡数から見て、戸数七万の邪馬台国よりもはるかに大きかったと考えなければならないでしょう。例えば美濃国は18郡ですが、倭人伝の国の平均戸数を2千戸すると3万2千戸になります。

濃尾平野の稲作量から見て2倍の4千戸とすると7万2千戸になり、7千戸とすると、邪馬台国の七万よりもはるかに多い12万6千戸になります。これは伊邪=伊予国、斯馬=志摩国などについても同じことが言えるでしょう。ちなみに大和15郡を平均7千戸とすると、10万5千戸になります。

国名のみの21ヶ国の面積と戸数は、律令制の国と郡のどちらに近いでしょうか。そしてどうして九州説と畿内説ではこのような違いが起きるのでしょうか。それは倭国を統一された民族国家と見るか、未統一の部族国家と見るかの違いのようです。

倭人伝は女王国のことを倭国と言っており、それは外交に用いられる呼び方です。それ以外は「倭種」「倭地」と呼んで区別しています。3世紀の倭国はまだ部族が王を擁立する「部族国家」の時代で、倭国とは北部九州にあった女王国のことです。

対馬国が対馬国上県郡であり、一大国が壱岐島であり、末盧国は肥前国の松浦郡であることは明らかで、その戸数・面積から見て国名のみの21ヶ国が女王の支配する北部九州以外にあるとは思えません。

倭国がすでに倭人の民族国家になっていたのなら畿内説も成立するでしょうが、統一された民族国家になるのは280年ごろに大和朝廷が成立して以後のことです。これがオオクニヌシの国譲りや神武東遷の物語になっています。

畿内説は無理があります。倭人伝に見える方位・距離は信用できない上に、ここに示した対馬国・一大国・末盧国の面積・戸数も信用できないというのであれば、邪馬台国の存在自体が信用できないということにもなりかねません。

それはさておいて21ヶ国の最初は斯馬国ですが、最後の奴国については「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、宗像郡(面土国)の田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます。

図は律令制官道に、倭人伝の記述から私の想定する交通路を重ねたものですが、度々述べてきたように16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。次回には赤線で示した部分について述べてみたいと思います。

2010年4月1日木曜日

因幡の素兎 その3

その「気多の前」、つまり因幡国気多郡(鳥取市)の長尾鼻の西の付け根に青谷上寺地遺跡があります。同遺跡では殺傷痕のあるものを含む100余体の人骨が、溝の中に放り込まれた状態で出土しています。

遺体の腐敗が進んでいたようで骨がばらばらになっているということです。それには女性や10代の少年も見られますが、幼児のものはないということです。この人骨の年代は倭国大乱のころと考えられており、2世紀末の倭国大乱と結びつける考え方があります。

倭国大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。先にヤマタノオロチは倭国大乱が山陰に波及してきたことが語られていると述べ、100余体の人骨はその犠牲者ではないかと述べましたが、これはこの考えに従っています。

推察になりますが、兎が鮫を騙して裸にされたというのは青谷上寺地の100余人が殺されたということであろうと思っています。出雲から因幡にかけての山陰地方にも倭国大乱が波及してきて部族の間に抗争が起きたのでしょう。

青谷上寺地では破片ですが突線鈕4式、または5式の銅鐸が出土しています。また2000年には「聞く銅鐸」の破片も出土していますから、銅鐸を配布した部族に属していたと考えることができます。

八十神は海水を浴びるように教えて兎を苦しめますが、オオアナムチは真水で洗って蒲の穂綿に包まるように教えてこれを助けます。青谷上寺地の人々をさらに苦しめたのが銅剣を配布した部族の八十神であり、助けたのが銅鐸を配布した部族のオオアナムチだということになりそうです。

私は兎を銅鐸を使用した宗族だと考えていますが、別の考えを述べてみたいと思います。このような考えが氾濫しているために神話は史実ではないとされていることは承知していますが、あえてそれを述べてみます。

青谷上寺地では木製の銅戈の鞘が出土していますが、鞘には2つの小穴が有り、差し込んだ銅戈が抜け落ちないように工夫されています。中期後葉のものとされるその鞘は、大きさや形から見て中細形銅戈が収められていたようです。

肝心の銅戈がありませんが、青銅祭器が他の遺物と共伴する例はありません。鞘があるのは青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していた可能性があるということでしょう。

九州で作られた中細形銅戈は信濃で2本が出土しており、出雲大社の境外摂社・命主神社の背後でも1本が出土しています。青谷上寺地に実際に銅戈が有ったのであれば、銅戈の分布という点で、出雲と信濃の中間地点が青谷上寺地だということになります。

青谷上寺地の人々は漁労・農耕・狩猟を行う一方で、交易を盛んに行なっていたようです。交易は北陸から北部九州・瀬戸内、さらには朝鮮半島・中国にまで及んでいたことが、その出土品から知られています。

青谷上寺地は出雲と共に、北部九州と信濃を結ぶ日本海航路の中継基地・交易拠点になっていたことが考えられますが、こうしたことから北部九州の面土国王との同族関係が生じていたと考えることができそうです。

私は銅戈を配布した部族が神格化されてスサノオになると考えていますが、そうであれば青谷上寺地にもスサノオの伝承があったと考えることができます。因幡・伯耆にはヤマタノオロチの伝承はありませんが、鞘に収められていた銅戈がオロチを退治するスサノオのモデルになっている可能性もあります。

青谷上寺地が面土国王と同族関係にあったために周囲の反感を買い、100余人が殺されたようにも感じていますが、それが兎が鮫を騙して裸にされたと語り伝えられているとも考えられます。

そうであれば紀伊の神話のように「気多の前」はスサノオの住む根之堅州国であり、八上比売はスサノオの娘ということになりそうですが、そうはなっていません。青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していたのなら、スサノオが殺されたという神話になりそうです。

ヤマタノオロチを退治する筈のスサノオが殺されたというのでは神話になりません。そこでたまたま隣の高草郡の白兎海岸に兎に似た小島があったので、スサノオが兎になり、周囲の波蝕棚が鮫になったと考えることができそうです。

それをオオアナムチが助けたことにより、後にオオクニヌシはスサノオの後継者とされるようになることが考えられます。ダイコク様が助けたのは白兎ではなく、実はスサノオであったという落ちになりますが、これが事実かどうかは自信がありません。

2010年3月29日月曜日

因幡の素兎 その2

因幡の素兎の神話は、因幡の八上郡に住む八上媛を妻問いする途中、苦しんでいる素兎をオオアナムチ(大穴牟遅)が助ける物語として親しまれています。今まで述べてきたように弥生時代には部族間の抗争が頻発しました。

このころ山陰地方には銅矛も銅鐸も流入しなくなりますが、四国西部には銅矛が、また東部には銅鐸が流入していますから、山陰に部族が存在しなかったというのではなさそうです。この神話の背景には銅剣を配布した部族と銅鐸を配布した部族の対立がありそうです。

大場磐雄氏は銅鐸を使用したのは「出雲神族」だとしていますが、私は銅鐸を配布した部族が神格化されたものがオオクニヌシだと考えています。とすれば異名同神のオオアナムチも銅鐸を配布した部族だと考えてよいようです。

オオアナムチは山陰地方に多い外縁付鈕式・扁平鈕式などの、比較的に古いタイプの銅鐸を祭っていた宗族でしょう。このタイプの銅鐸が加茂岩倉遺跡で39個出土しています。

兄弟の八十神は八上媛を妻問いするために、連れ立って因幡に向かいます。オオアナムチは八十神の荷物を持たされているので、一行から遅れて追っていきますが、そのような史実があったとは思えません。これは何かを意味しているようです。

図には方言圏が示されていますが、出雲と伯耆西部の方言は中国地方の方言と異なっています。この雲伯方言圏が元来の出雲のようです。ヤマタノオロチに語られている争乱の後、雲伯方言圏(元来の出雲)が伯耆東部や因幡を併合しようとしているのでしょう。

その因幡の併合の焦点になったのが、裸の兎が臥せっていた気多の前(けたのさき)だと考えることができそうです。裸の兎が臥せっていたというのは、争乱の後遺症に苦しんでいる人たちが居たということだと考えています。その場所が「気多の前」なのです。

兄弟の八十神はそれを助長するような酷い仕打ちをしたが、オオアナムチはこれを助けたというのです。兎が八上比売を妻にするのはオオアナムチだと言い、八上比売もそれを承諾するのは、オオアナムチが因幡を支配するようになるということだと考えます。

『吾と汝と競べて、族(うがら)の多き少なきを計(かぞえ)へてむ。故、汝は其の族の在りの随に悉に率(い)て来て、此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ。爾に吾其の上を踏みて、走りつつ読み度らむ。是に吾が族と孰(いずれ)か多きを知らむ』といひき。

弥生時代後半は部族が国を形成し王を擁立した時代ですが、同族が多いほど優勢ですから同族の多少が問題になります。兎が鮫にどちらの仲間が多いか較べようと言っているのは、部族の勢力の大小を言っているのでしょう。

推察になりますが兎は銅鐸を配布した部族であり、鮫は銅剣を配布した部族だと思っています。伯耆国八橋郡(東伯郡琴浦町)のイズチガシラから中細形銅剣c類4本が出土し、また同郡の上中山村から1本が出土したと伝えられています。

因幡には銅鐸は見られるものの銅剣は見られません。銅鐸を配布した部族と銅剣を配布した部族との間に抗争が起きたのでしょう。これらの銅剣を持っていた部族が鮫であろうと思います。

それでは「気多の前」はどこでしょうか。兎は鮫に「此の島より気多の前まで皆列(な)み伏し度れ」と言っています。「此の島」を隠岐の島と考えて船の航路のことを言っていると見ると、「地乗り航法」で「気多の前」に至る方法を言っているとすることができます。

これは高草郡についての『風土記』逸文の考察と言われているものから考えられている説ですが、「気多の前」とは「気多の崎」、あるいは「気多の岬」のことだと考えることができます。そうであればそれは鳥取県青谷の長尾鼻のことになりそうです。

白兎海岸は高草郡ですがその東隣が気多郡で、長尾鼻はその気多郡の岬です。このあたりの海岸線は単調で出入りが少なく、近くには高い山もないので「地乗り航法」の目標になる岬といえばこの長尾鼻になります。

別の考え方もできます。伯耆国汗入郡と八橋郡の境の甲川流域が雲伯方言圏の東限になっていますが、その甲川流域に因幡の素兎の神話と同じ内容の伝承があります。このことからの発想ですが、「気多の前」は伯耆国の河村郡と因幡国の気多郡との国境の近くだと考えることができそうです。

気多郡の長尾鼻は伯耆と因幡の国境の近くです。「気多の前」の「前」とは「先」のことで、国境に近いところという意味だと考えるのですが、とかく国境・境界は紛争の種になりやすいものです。

2010年3月26日金曜日

因幡の素兎 その1

『古事記』の神話はオロチ退治に続いて因幡の素兎の物語になりますが、この神話は『日本書紀』にはありません。因幡の白兎の神話は誰でもよく知っていますが、『古事記』では「素兎」となっています。

其の八十神、各、稲羽の八上比売を婚(よば)はむの心有りて、共に稲羽(因幡)に行きし時、大穴牟遅神に袋を負せ、従者(ともびと)と為(し)て率(い)て往きき。是に気多の前(けたのさき)に到りし時、裸の菟伏せりき

この神話は鳥取市白兎海岸にある兎に似た小島から生まれました。この小島を「淤岐島」(おきのしま)と呼び、対岸を「気多の前」(けたのさき)と呼んでいます。

神話では淤岐島は兎が以前に居た所とされ、日本海の隠岐の島のことではないかとも言われています。気多の前は裸の兎が臥せっていたところです。

小島の周囲には鮫のように見える波蝕棚がありますが、写真は干潮時に東側から見たもので、水平線上の黒い筋のように見えるのが波蝕棚です。これが和邇(わに)です。和邇については爬虫類の鰐のことだとする説もありますが、それはこの波蝕棚を見たことのない人の言い出したことで、山陰地方では鮫のことを「わに」と言っています。

今地に下(お)りむとせし時、吾云はく、『汝は我に欺(あざむ)かえつ』と言ひ竟(お)はる即(すなわ)ち、最端(いやはし)に伏せりし和邇(わに)、我を捕へて悉に我が衣服を剥ぎき。

この小島を満潮時に南側から見ると、波蝕棚が遊泳している鮫のように見えます。それを見ていると、対岸に飛び移ろうとした兎が、最端に居る鮫に向かって「汝は我に欺かえつ」(お前は私に騙されたのだ)と言っているように見えます。

いかにも最端に居る鮫に向かって言っているように見えて、その発想のリアルさに驚かされますが、次のシーンでは兎は皮を剥がれることになっています。この小島と周囲の波蝕棚がなかったら因幡の素兎の神話は生まれなかったし、因幡の八上媛という神も忘れられていたでしょう。

それではこの神話の核になっている史実はどのようなものでしょうか。それには時代を特定する必要がありますが、それはスサノオがヤマタノオロチを退治して間もない時であり、オオクニヌシが国譲りをするよりも以前のことのようです。

ヤマタノオロチは倭国大乱が出雲に波及してきたことが語られているようですから、それは200年の前後になります。またオオクニヌシの国譲りは250~260年ごろのことですから、私の考える倭国大乱以後の後期後半1期(210~240)と考えてよいようです。

『古事記』はスサノオの6世孫がオオクニヌシだとしており、スサノオとオオクニヌシの間に四代が経過することになっていますが、その初期がオオアナムチの活動する時期なのでしょう。その後にオオクニヌシとされている出雲の王が出現してくると思われます。

この神話の主人公は一般にはオオクニヌシと考えられていますが、オオクニヌシではなくオオアナムチ(大穴牟遅神)です。高志(越)の国の沼河比売を妻問いする物語のオオクニヌシは「八千矛神」になります。

オオクニヌシの名前が始めて出てくるのは紀伊のスセリビメ(須勢理毘売)を妻問いする物語です。この時に宇都志国玉・葦原色許男と共に大国主が出てきます。オオアナムジは山陰と紀伊に関係する時の名前です。

そして大穴牟遅にしても八千矛にしても、オオクニヌシになる以前の名前とされていることに注意したいと思います。それは因幡の素兎の神話に語られている時期が、オオクニヌシが活動するようになるよりも以前のことだということです。

先にヤマタノオロチの神話は倭国大乱が中国・四国地方に波及してきたことが語られていると述べました。因幡の素兎の神話には倭国大乱以後のこと、つまり出雲の神話ではヤマタノオロチの神話以後のことが語られているようです。

北部九州では卑弥呼が共立され、面土国王は『自女王国以北』を刺史の如く支配するようになります。山陰では青銅祭器の流入が止まり、四隅突出型墳丘墓が大型化します。

四隅突出型墳丘墓が大型化するのは支配者と被支配者の差が大きくなり、支配者の権力が強くなったということであり、山陰に有力な支配者が出現したということでしょう。オオアナムチや兄弟の八十神はそうした支配者層だと考えられます。

2010年3月22日月曜日

ウケヒの勝負

イザナギに追放されたスサノオは高天が原にいる天照大神を訪れますが、それとは別に出雲に降ってヤマタノオロチを退治するスサノオもいます。高天が原のスサノオと出雲のスサノオとは別個のものですが、どちらも倭国大乱のころのできごとです。

これは神話が編年体でなく紀事本末体であるためで、年代とは無関係に複数の史実が物語風に纏められています。そのために天照大神の孫のホノニニギに、スサノオの6世孫のオオクニヌシが国譲りをするというややこしい関係になっています。

高天が原に昇ったスサノオは卑弥呼を共立して、「自女王国以北」の国々(筑前東半)を、あたかも「刺史の如く」に支配するようになり、また津では女王の使者を捜露するようになる面土国王です。

天照大神とスサノオはウケヒ(誓約)の勝負をしますが、ウケヒはあらかじめ神に事の結果を誓っておいて、そのとおりになったかどうかで神意を占う卜占の一種です。ウケヒではスサノオが男を生めば勝ちということになっています。

この神話の根底には魏・蜀正閠論がありそうです。魏・蜀正閠論とは後漢の後継王朝として魏・蜀のどちらが正統かというものですが、魏が正統なら魏から「親魏倭王」に冊封された卑弥呼が正統の倭王ということになります。

蜀が正統だというのであれば後漢から倭王に冊封された面土国王が正統な倭王ということになります。面土国王の側から見れば卑弥呼は大乱を終結させるために妥協して立てた仮の王ということになります。

ウケヒの物語は魏・蜀正閠論に立脚した「幸替え」の物語でしょう。「幸替え」は持ち物を交換することによって幸を得るというものですが、スサノオは天照大神の持ち物の玉から五男神を生み、天照大神はスサノオの持ち物の剣から三女神を生みます。

是に天照大神、須佐之男命に告りたまはく「是の後に生れし五柱の男子は、物実(ものざね)我が物に因りて成れり。故、自から吾が子なり。先に生れし三柱の女子は、物実汝が物に因りて成れり。故、乃ち汝の子なり」と、如此(かく)詔り別けたまいき。

生まれてきた8柱の神はいずれも倭王の後継者として正統であるというのでしょう。スサノオが天照大神の玉から生んだ五男神は銅矛を配布した部族に属している有力な宗族のようで、最初に生れるのがオシホミミです。

オシホミミは卑弥呼死後の男王ですが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になります。ウケヒではオシホミミも倭王の後継者として正統だとされていることになりますが、実際にはそうではなかったということになります。

オシホミミが倭王の後継者として正統ではないのであれば、その子のホノニニギも正統ではないことになります。ホノニニギの正統性を認めるには、オシホミミも正統でなければいけません。

ウケヒの神話は天照大神がスサノオの剣から生んだ三柱の女神も「幸替え」によって倭王の後継者として正統とすることで、オシホミミから神武天皇に至る系譜の正統性を主張していると考えることができます。

天照大神がスサノオの剣から生んだのが宗像三女神ですが、この三女神は銅戈を配布した部族に属していた、有力な宗族のようです。『古事記』は三女神を祭る氏族として筑紫の胸形君をあげ、『日本書記』第三の一書は筑紫の水沼君をあげています。

前述のように豊後の大神氏も宇佐神宮で三女神を祭ったと考えています。宇佐と3女神の関係については様々なことが考えられて、私も纏めあぐねていますが、要は宇佐周辺に銅戈が非常に多いことで説明できると思っています。

ウケヒで勝ったスサノオは勝ちに乗じて乱暴、狼藉を働き、ために追放されます。倭人伝の記述は正始八年で終わっていますが、間もなく卑弥呼死後の争乱の事後処理がおこなわれ、面土国王やそれに加担した者が処罰され面土国王家が滅ぶようです。

同時に中国では司馬氏が魏の実権を握り、やがて晋が成立します。魏・蜀正閠論は意味を持たなくなるのですが、それに連動して部族を統合しようとする動きが出てきます。その結果が出雲の国譲りとなって表れてきます。

2010年3月19日金曜日

3貴子の誕生 その3

卑弥呼と面土国王との関係については魏・蜀正閏論が問題になるようです。このことについては9月21日に投稿した『須佐之男 その3』で述べていますが、改めて見てみたいと思います。

魏の曹操は宦官の養子の子でしたが、その子の曹丕は後漢の献帝から禅譲(位を譲り受ける)されて魏の皇帝になりました。蜀の劉備は前漢景帝の子、中山王劉勝の子孫と称して、漢王朝再興を大義名分にしました。

三国鼎立では三国再統一が大義名分になっていましたが、具体的には魏・蜀のどちらが後漢王朝の後継王朝として正統かということが問題になっていました。これが魏・蜀正閏論です。

後漢王朝は57年に奴国王を、また107年に面土国王の帥升を倭国王に冊封していますが、卑弥呼は後漢王朝が滅ぶと魏から親魏倭王に冊封されています。それでは両者は後漢王朝の後継王朝として魏と蜀のどちらを正統としたのでしょうか。

当然のこととして銅矛を配布した部族は卑弥呼を親魏倭王に冊封した魏を正統としたでしょうし、銅戈を配布した部族は前漢の中山王劉勝の子孫と称する蜀を正統としたでしょう。

銅戈を配布した部族の側から見ると、蜀こそ正統な後漢の後継王朝であり、後漢の冊封を受けた奴国王と面土国王こそ正統の倭王だということになります。この奴国王と面土国王の関係が「妣(はは)の国、根之堅州国に罷(まか)らむ」と表現されていると考えることができます。

魏は後漢王朝を奪取したのであり、魏の冊封を受けた卑弥呼は大乱で王が立てられないので共立したに過ぎない、仮の王だというのです。そのため卑弥呼の死後に男王が立ちますが、千余人が殺される争乱が起きました。

スサノオが根之堅州国に行きたいと思って泣く原因の一つとして、出雲との関係を考えなければならないでしょう。中細形銅剣c類が配布されていたと考えられる地域がイザナミのいる黄泉の国でもあり、根之堅州国でもあるようです。

前回にも述べましたが57年に奴国王が遣使するについては、中国・四国地方の銅剣を配布した部族との関係が考えられます。その結果、山陰では中細形銅剣c類が、瀬戸内では平形銅剣が配布されます。

そこに高天が原を追放されたスサノオが行って、ヤマタノオロチを退治することになっています。このこともスサノオが母のいる根之堅州国に行きたいと言う原因になっているようです。オロチを退治するスサノオは面土国王そのものではありません。

出雲のイザナギ・スサノオにも魏・蜀正閏論が絡んでいるようです。魏・蜀正閏論は中国の問題であって倭人には関係がないようにも思えますが、それは魏・蜀の正閠論としてではなく、天照大神を天神・皇別の氏族に結びつけ、スサノオを地祇・諸蕃の氏族に結び付ける正閠論に変化しています。
 
815年に成立した『新撰姓氏録』は氏族を応神天皇以前の天皇の子孫の皇別、神話の神の子孫の神別、渡来系の諸蕃、その他の氏族の未定雑姓に区別し、皇別、神別、諸蕃を三体と言っています。

また神別には天神と地祇がありますが、天神は高天が原で活動する神の子孫であり、地祇は葦原中国で活動する神の子孫です。神話は筑紫を舞台にして皇別・天神をイザナギ・天照大神に結びつけています。

また出雲を舞台にして地祇・諸蕃をイザナミ・スサノオに結び付けています。スサノオが出雲に行ったとされるのは、皇別・天神と地祇・諸蕃が対立するのを回避するためでしょう。対立の始まりは卑弥呼と面土国王のどちらが正統の倭王かということであり、さらには魏・蜀の正閏論に至ります。

天神は銅矛を配布した部族に属していた宗族であり、地祇は銅鐸・銅剣を配布した部族に属していた宗族です。銅戈を配布した部族に属していた宗族は地祇とされています。銅戈を配布した部族に擁立された面土国王が、地祇の筆頭のスサノオというわけです。その母のイザナギも、言外に天神ではなく地祇とされていることになります。

2010年3月17日水曜日

3貴子の誕生 その2

イザナギは天照大神に高天が原の統治を、ツキヨミには夜之食国の統治を命じ、スサノオには海原を統治するように命じますが、海原は面土国と考えてよいようです。面土とは港のことであり、港は海原の始まる所ですからぴったりのネーミングです。

神話には面土国王が7~80年間に渡って倭国を支配したと思われる部分がありません。本来ならスサノオが天照大神・ツキヨミよりも先に生まれて活動したことになるはずですが、生まれたのは同時とされています。

イザナギに追放されたスサノオは高天が原に居る天照大神を訪れますが、ここからが倭国大乱以後、つまり卑弥呼が共立されて以後の面土国王と卑弥呼の関係になります。それは後期後半1期で、青銅祭器は広形に変わります。

高天が原に昇っていくまでが、面土国王が倭王として統治した7~80年間に相当しますが、面土国王と邪馬台国、あるいは銅矛を配布した部族とは、あまり良い関係ではなかったようです。この関係は面土国王と卑弥呼の関係に続いていきます。

倭人伝は津で捜露が行われたことを記しています。通説では捜露を行ったのは一大率だとされていますが、私は「刺史の如き」者、すなわち面土国王だと考えています。面土国王は女王の行う外交を監視しており、面土国王と女王の関係は、捜露する者とそれ受ける者という関係にあったと考えます。

中期後半3期(150~180)には大量の中広形銅戈b類が配布されています。それに対抗して中広形銅矛b類も大量に作られており、両部族の間に対立・緊張が見られたことを思わせます。

その部族の緊張の表れが2世紀末の倭国大乱ですが、これがスサノオの追放に繋がっていきます。『古事記』は次のように記しています。

其の泣く状(さま)は青山は枯山如(からやまな)す泣き枯らし、河海は悉く泣き乾しき。是を以って悪しき神の音、狭蠅如(さばえな)す皆満ち、万の物の妖悉(わざわいことごと)に発りき。故、伊耶那岐大御神、速須佐之命に詔りたまはく、「何の由以(ゆえ)にか汝は事依(ことよ)させし国を治めずて、哭きいさちる」とのりたまいき。爾に答へて曰さく「僕は妣(はは)の国、根之堅州国に罷(まか)らむと欲が故に哭く」とまおしき。

スサノオが青山を泣き枯らし河海を泣き乾したので、悪い神が現れさまざまな災いが起きたというのですが、倭国大乱のことが述べられています。そこでイザナギが泣く理由を聞くと、死んだ母の住む根之堅州国に行きたいと思って泣くのだと答えます。怒ったイザナギはスサノオを追放します。

九州の中細形銅剣は遠賀川流域・豊後など北部九州の東部に分布しています。これがイザナミであり、銅剣を配布した部族を中心にして形成された国が遠賀川流域の奴国だと考えています。奴国がイザナミの住む「根之堅洲国」です。

投稿の『淤能碁呂島』で述べたように銅剣を配布した部族と銅矛を配布した部族は、対立する関係にあったと考えています。イザナギ・イザナミの島生みで再度柱を回りイザナギが先に声をかけたのは、両部族間に合意があって奴国王の統治が認められたということでしょう。

スサノオがイザナミを「妣(はは)」と言っているのは、イザナギとの関係がイザナミと同じであったということでしょう。2世紀末の大乱は銅矛を配布した部族(イザナギ)と銅戈を配布した部族(スサノオ)の対立ですが、その結果、投馬国の王族で中立の立場にある卑弥呼が王に共立されるようです。

卑弥呼を共立した面土国王は、あたかも中国の刺史が州を支配するように「自女王国以北」を支配するようになりますが、面土国王が「自女王国以北」を支配するについても、卑弥呼と対立するような関係にあったようです。

「自女王国以北」には奴・面土・不弥・伊都などの国がありました。スサノヲが根の堅洲国に行きたいと言ったのは、面土国王がこれらの国を女王に対して半ば独立したような状態で支配していたということでもあるようです。

2010年3月14日日曜日

3貴子の誕生 その1

黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊払いをして22柱の神を生みます。私の年代観では後期前半1期(90~120)になりますが、イザナギが神を生むのは中広形銅矛のa類が作られ、配布されたということでしょう。

この小戸の阿波岐原については「筑紫の日向」とあることから、宮崎市阿波岐ヶ原町・江田神社、宮崎市住吉町・住吉神社などに伝承がありますが、イザナギは銅矛を配布した部族ですから、青銅祭器のない日向が神話の舞台になることはないでしょう。

直日・禍津日神を祭る福岡市警固町の警固神社、筒之男3神を祭る福岡市住吉町の住吉神社、綿津見3神を祭る糟屋郡志賀島の志賀海神社などのある、博多湾周辺と考えるのがよいようです。これは貝原益軒や宗祇法師も言っていることで、ほとんど定説になっています。

私は須玖岡本遺跡で銅鏡35面以上と共に葬られていた人物も、イザナギのモデルになっていると見てよいと思っています。周辺に小戸や橘といった地名があることを指摘する人もいます。

禊払いで22柱の神が生まれますが、その多くは銅矛を使用した宗族と考えてよいようですが、天照大神・ツキヨミ・スサノヲの3神は銅矛を使用した宗族ではありません。何度も述べてきたように天照大神は卑弥呼であり、ツキヨミは卑弥呼の弟であり、スサノヲは面土国王です。

3神の誕生以後、神話は部族の歴史・系譜ではなく、古墳時代に活動する氏族の前史になってきます。そこに登場してくるのは古墳時代の氏族の祖であり、その中には卑弥呼のような特定の個人の場合もあります。しかしこの3神は次の高天が原神話の主人公なので禊払いで生まれたとされています。

ただしイザナギ・イザナミに応対する時のスサノヲは銅戈を配布した部族ですが、天照大神・ツキヨミに応対する時のスサノヲは面土国王と考えなければならないようです。倭国大乱で卑弥呼が共立される以前と以後とでは神話の内容が変わってきます。

イザナギは天照大神に首飾りの玉を与えて高天が原の統治を命じますが、その玉の名を御倉板拳之神(みくらたなのかみ)と言っています。倉の棚の上に安置して崇めたことによる神名ですが、天照大神とスサノヲとのウケヒでも天照大神の玉から五男神が生まれていて、玉は倭王である卑弥呼を象徴しているように思われます。

卑弥呼は倭国大乱で銅矛・銅戈を配布した部族によって共立されますが、イザナギが天照大神に玉を与えたのは、卑弥呼擁立を主導したのが銅矛を配布した部族であることを表しているのでしょう。

ツキヨミには夜之食国の統治が命ぜられますが、天照大神が昼を表し、ツキヨミは夜を表しており、弟が卑弥呼を補佐したことが語られていると考えることができます。私は夜之食国を投馬国と考えることができると思っています。

太陽が東から昇ると朝になり、西に沈むと夜になりますが、高天が原は東にあり、夜之食国は西にあったことが語られているようです。それは広大な筑紫平野(筑後平野・甘木平野・佐賀平野)の光景のように思われます。

太陽は朝は日田(邪馬国)の山並みから顔を出し、夕方には有明海の彼方に没するというような光景が浮かんできます。日の昇るところに高天が原(邪馬台国)があり、日が沈むところに夜之食国(投馬国)があると説明されているようです。私は投馬国は八女郡を中心にした筑後だと考えています。

スサノヲは面土国であり銅戈を配布した部族でもあります。またイザナミは奴国、あるいは銅剣を配布した部族のようです。イザナギに海原を統治するように命ぜられたスサノヲは、妣(死んだ母)の住む根の堅洲国に行きたいと言って泣き続けます。

面土国王は戸数二万の奴国に支持されており、七万の邪馬台国とは対立していたことを表していると思われます。その対立が倭国大乱や卑弥呼死後の争乱の原因になっているようです。

対立関係にある奴国・面土国と邪馬台国を、統一国家として纏めることができたのは投馬国だけだったでしょう。卑弥呼姉弟は投馬国の王族だったのではないかと考えていますが、その故に卑弥呼が倭王になり、それを弟が補佐したと考えます。

イザナギが天照大神に首飾りの玉を与えたのは、銅矛を配布した部族が投馬国の王族の卑弥呼を倭王に擁立したが、それを奴国・面土国や銅剣・銅戈を配布した部族が認めたということでもあるようです。