2012年1月15日日曜日

倭面土国を考える その2

西嶋定生氏は『邪馬台国と倭国』で「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになるが、なお疑問が残る国名だと述べられて、面土国が存在する可能性のあることを示唆されています。

しかし『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)(「倭面土国論」の問題点)では面土国の存在を否定されています。その論拠として「倭面土国」の表記が見られる『通典』は801年までに、また『翰苑』は660年以前に編纂されたことを問題にしたいようです。

そのころ遣唐使・遣隋使の派遣などがあって、対外的な国号を倭国から日本国に変え、大王を天皇と称するようになりますが、西嶋氏は7世紀前半の唐代初期が倭国から日本国への国号の転換期で、国名が動揺した時期だとされています。

それまでは「日本国」と言うことはなく「ヤマト国」と言ったが、そのヤマト国を「倭面土国」と漢字表記したというのでしょう。『通典』『翰苑』が書写されているうちに誤写されて、帥升は「倭面土国王」とされるようになったのであり、面土国という国は存在せず帥升は伊都国王だということのようです。

これを結果的にみると倭と面土を一体のものとする内藤湖南の読み方を肯定し、倭と面土を分離する白鳥庫吉の読み方を否定するけれども、白鳥庫吉の面土国=伊都国説は肯定するということになります。

ここで西嶋氏が<「其国」とは「倭国」のことである>とされていることに触れてみます。『倭国の出現』で次のように述べられていますが、倭人伝の「其国本亦男子為王。住七八十年。倭国乱。乃共立一女子為王」の記事が問題にされています。

さて、王仲殊氏は上文冒頭の「其国」をどのように理解されているのであろうか。王仲殊氏は「其国」とは「倭国」のことであるとする私の見解を批判し、上掲魏志倭人伝の一文について、
「其国」は代名詞で、「倭国」は名詞である。代名詞は名詞の後に使われるものであり、名詞の前に使われることはない。したがって文頭の「其国」は「倭国」ではなく邪馬台国を指す。卑弥呼が王となって以後は、邪馬台国を「女王国」と呼んでおり、魏志東夷伝本文前段部において「女王国」という名詞が多く散見されるので、「其国」は代名詞として「女王国」を指すと考えられる。したがって、「其国本亦以男子為王」とは、女王国が元々男子をもって王としていたことを説明している。
と述べて、「其国」とは邪馬台国すなわち女王国のことである、と論断されている。

西嶋氏が「其国」を倭国のことだとしているのに対し、王仲殊氏は「其国」を代名詞とし邪馬台国・女王国を名詞として、代名詞が名詞の前に使われることはないということを問題にしているようです。しかし倭人伝の記述を見ると、倭国・女王国・邪馬台国の実態はほとんど分らず、私には「其国」が代名詞であることにさして意味があるように思えません。

白鳥庫吉は伊都国を起点とする放射行程説に従って伊都国は糸島市周辺だとしています。西嶋氏の考えも同じであろうと思いますが、西嶋氏の考えとそれに対する王仲殊氏の反論は白鳥説を正しいとする主観に基づく論戦に過ぎないように思われます

「其国」は糸島市周辺を中心とする九州であり、それが倭国だという主観になっているようです。しかし伊都国=糸島市付近が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせるために創作されたものであれば、この伊都国=糸島市付近説を前提とする主観は崩壊します。

倭人伝に面土国の名は見えず、記述からもその存在を認めることは殆ど不可能です。私はその存在を思わせる記述が所々に見られると考えていますが、そこで西嶋氏は『倭国の出現』で面土国の存在を否定して次のように述べられています。

この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。

「倭面土国」とは国号が日本国に変る以前の倭国のことであり、面土国という国は存在しないということのようですが、「今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである」とされているのは、「倭回土国」を伊都国のことだとした白鳥庫吉の説を正しいとする主観論であることの現われであるように思います。

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