毌丘倹の軍勢は逃亡した高句麗王の位宮を追撃しますが、川が増水したために追い詰めることができず兵を返します。そこで翌6年に改めて討伐が行われますが、再討伐では高句麗王を匿う可能性のあった夫余・濊貊・東沃沮も対象になりました。
玄菟郡太守の王頎は玄菟郡冶(遼寧省撫順付近)を出立し、夫余国都(吉林省農安付近)まで行っています。夫余王は迎効(国都の郊外で出迎える儀式)を行い、また軍糧を提供するなど敵意の無いことを示しています。
さらに夫余王は季父(年齢の近いおじ)父子を殺しています。夫余国都は高句麗が精強になったために西に移ったと言われていますが、殺された季父親子が高句麗に近い部分を支配しており、高句麗王を匿う可能性があったのでしょう。
夫余は長城の北に在り。玄菟を去ること千里。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接す。北に弱水有り、方二千里ばかり。
「玄菟を去ること千里」とは「玄菟郡冶を去ること三百里」に夫余の国境があるという意味です。遼寧省開原の北で柳条片牆が南北に分岐していますが、このあたりに玄菟郡と夫余との国境の長城があったようです。
夫余国都の北に松花江があります。弱水については黒龍江とする説もありますが、「方二千里可」との兼ね合いから見て、松花江とするのがよいでしょう。玄菟郡と夫余の国境の長城から松花江までが、夫余の広さの「方二千里可」です。
夫余王は季父親子を殺しますが、この時季父親子は第二松花江の上流部(吉林省の松花湖付近)を根拠地にしていたようです。夫余には夫余王の支配する地域と季父親子の支配する地域があり、事実上は2つの国だったように思われます。
左図の赤線は私の考える王頎の経路ですが、夫余王の国都の農安付近を「北夫余国都」とし、それに対し、季父親子の根拠地と推定される場所を「南夫余国都」として区別してみました。そうしないと挹婁伝の記述との間に矛盾が生じてきます。
挹婁は夫余の東北千余里にあり、大海に面し南は北沃沮と接す。其の北の極まる所を知らず。
文献には見えませんが、私は王頎も夫余王の兵と共に第二松花江に沿って南下し、季父親子の根拠地を攻撃したと考えています。挹婁伝の地理記事はこの時の王頎の見聞で、季父親子の根拠地と推定される場所の東北三百余里に夫余と挹婁の国境があるというのでしょう。
挹婁はロシアの沿海州方面とされていますが、東北三百里なら北朝鮮の東北部から吉林省の延辺朝鮮族自治州にかけての、図満江流域であることが考えられます。「其の北の極まる所を知らず」とは、そこまでが中国の冊封体制の及ぶ所だというのでしょう。
東沃沮についても稍の考え方でその位置を推定することができますが、東沃沮伝の地理記事も高句麗王の位宮を追撃した王頎の見聞によるものです。
東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り、大海に浜して居す。其の地形は東北狭く西南長く千里ばかり。北は挹婁・夫余と、南は濊貊と接す
蓋馬大山は両江道の蓋馬高原のことで、大海は日本海です。この文から王頎が蓋馬高原の東側を南下して日本海に達したことがわかります。夫余の南境と日本海の間が「西南長く千里ばかり」の三百里です。
6年には楽浪郡太守の劉茂、帯方郡太守の弓遵も濊貊を攻撃しており、位宮は濊貊に逃れることはできず東沃沮に遁走したようです。王頎は位宮を追跡して東沃沮を縦断し、挹婁の南境まで進んでそこに石碑を立てています。濊貊については次のように述べられています。
南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接す。東は大海に窮まる。今朝鮮の東は皆其の地也
王頎が濊貊に行った形跡はなく、そのためにこの文には距離の記載がないようです。濊貊は蓋馬高原の南にあり、国土が海岸に沿った地域に限られているために稍の形になっていませんが、「今朝鮮の東は皆其の地也」とあることから見て、「楽浪郡冶の東三百里」に濊貊との国境があることが推察されます。
2010年4月23日金曜日
高句麗伝と稍
当時の王頎は玄菟郡太守でしたが、毌丘倹旗下の一将として参戦したことが考えられます。このことは文献にありませんが、私は5年の討伐では王頎は毌丘倹の兵と共に、遼東郡冶の襄平城(遼寧省遼陽付近)から出撃し、高句麗国都に向かったと考えています。高句麗伝には次のように述べられています。
高句麗は遼東の東千里に在り。南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は夫余と接す。丸都の下に都す。方二千里ばかり
この高句麗伝の地理記事について古田武彦氏が山尾幸久氏の説に反論しています。(『邪馬台国はなかった』昭和46年、朝日新聞社)そこに述べられていることは東夷伝の地理記事の問題点を如実に示しているので引用してみます。
この場合は、首都が記されているから、一見「千里」は、これこそ「遼東―丸都」間であるようにも思えよう。しかし、ここの文脈は高句麗の四辺の国境を定めている個所であり、いわゆる「四至」に類する文である。「南・東・北」の三国境は「接」の形で書かれている。これに対し、「西の国境」が遼東郡冶からの距離で書かれているのである。すなわち、当時、遼東郡冶の東「千里」(韓・倭人伝の里数値)の所に高句麗の西境があった、というのである。
「四至に類する文」とは放射行程のことですが、古田氏はこの文は国境が問題にされているのだから「遼東の東千里」は高句麗の西境までの距離だと言っています。古田氏は「稍」という考え方に気付いていません。
通説では中国史書に見える方位・距離は起点も終点も郡冶所や国都のような「中心地」だと考えられていて、山尾氏は千里を高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)までの距離だとしています。しかしこれは遼東~丸都間の距離ではありません。
この部分は高句麗と周辺諸国との位置関係が述べられているのであって、古田氏が言うように国境が問題にされているというのでもありません。「高句麗は遼東の東千里に在り」は「遼東郡冶を去ること三百里」に高句麗の国境があるという意味です。
同時に国境の東には正始5年に討伐された高句麗国都の丸都城が在るという意味も合わせ持っています。高句麗伝の書かれた時代背景の、毌丘倹の軍勢が遼東郡冶の襄平城から高句麗国都の丸都城に向かったことを理解していないと誤解が生じてきます。
「方二千里」は高句麗の広さが「方六百里」(260キロ四方)だということですが、「東千里」と「方二千里」とはどちらも稍であることに注意する必要があります。魏は高句麗を遼東郡冶の東三百里に国境があり、その広さは六百里四方の国だと規定しているのです。
この規定が魏と高句麗との冊封関係の基本になりますが、高句麗は三百里以上を支配してはいけないという冊封体制の職約(義務)に反したので討伐を受けたのです。冊封体制の根本理念に王畿思想があります。王畿という概念は『周礼』『書経』などにはじまり、ことに『周礼』に詳細な記述があります。
中国の中心に王(天子・皇帝)の住む王城があり、王城を中心とする四方五百里まで(千里四方)を王畿、または国畿といいます。国畿の外周には内臣の分封される五百里四方の領域があり、さらにその外周に夷狄と呼ばれる異民族が住んでいるという考え方です。
世界の中央に中国の王(天子・皇帝)の所有する千里の王畿・国畿があるというのです。このことから身分の上下や領域の広さに関係なく、「支配地」の代名詞として千里が用いられているようです。中国では千里を大きい・多い、長いといった意味に用いており「千里を得る」は日本の「一国一城の主になる」と同じ意味になりますが、千里にはそのような意味もあるようです。
それが二千石の郡太守の場合には王畿・国畿・都とは言わず、「稍」になるようです。王畿・国畿の概念に従えば、「方六百里」が千里になるはずですが、三百里が千里とされて「方六百里」のほうは「方二千里」と表現されています。
異民族の王は外臣と呼ばれていますが、郡太守と外臣の王とは同格ですから、外臣の王も支配領域を「稍」に制限(規定)されます。卑弥呼の場合も同様ですが、卑弥呼は親魏倭王に冊封されていますから、単なる外臣ではなく内臣の王に準ずる高位だったようです。
高句麗伝の地理記事を大ざっぱに言えば遼寧省の遼河の下流域、およびその支流の渾河流域が遼東郡であり、鴨緑江中・上流域が高句麗で、その分水界付近が国境になっているということです。前々回に述べたようにその国境には明代に「柳条片牆」が築かれます。
高句麗は遼東の東千里に在り。南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は夫余と接す。丸都の下に都す。方二千里ばかり
この高句麗伝の地理記事について古田武彦氏が山尾幸久氏の説に反論しています。(『邪馬台国はなかった』昭和46年、朝日新聞社)そこに述べられていることは東夷伝の地理記事の問題点を如実に示しているので引用してみます。
この場合は、首都が記されているから、一見「千里」は、これこそ「遼東―丸都」間であるようにも思えよう。しかし、ここの文脈は高句麗の四辺の国境を定めている個所であり、いわゆる「四至」に類する文である。「南・東・北」の三国境は「接」の形で書かれている。これに対し、「西の国境」が遼東郡冶からの距離で書かれているのである。すなわち、当時、遼東郡冶の東「千里」(韓・倭人伝の里数値)の所に高句麗の西境があった、というのである。
「四至に類する文」とは放射行程のことですが、古田氏はこの文は国境が問題にされているのだから「遼東の東千里」は高句麗の西境までの距離だと言っています。古田氏は「稍」という考え方に気付いていません。
通説では中国史書に見える方位・距離は起点も終点も郡冶所や国都のような「中心地」だと考えられていて、山尾氏は千里を高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)までの距離だとしています。しかしこれは遼東~丸都間の距離ではありません。
この部分は高句麗と周辺諸国との位置関係が述べられているのであって、古田氏が言うように国境が問題にされているというのでもありません。「高句麗は遼東の東千里に在り」は「遼東郡冶を去ること三百里」に高句麗の国境があるという意味です。
同時に国境の東には正始5年に討伐された高句麗国都の丸都城が在るという意味も合わせ持っています。高句麗伝の書かれた時代背景の、毌丘倹の軍勢が遼東郡冶の襄平城から高句麗国都の丸都城に向かったことを理解していないと誤解が生じてきます。
「方二千里」は高句麗の広さが「方六百里」(260キロ四方)だということですが、「東千里」と「方二千里」とはどちらも稍であることに注意する必要があります。魏は高句麗を遼東郡冶の東三百里に国境があり、その広さは六百里四方の国だと規定しているのです。
この規定が魏と高句麗との冊封関係の基本になりますが、高句麗は三百里以上を支配してはいけないという冊封体制の職約(義務)に反したので討伐を受けたのです。冊封体制の根本理念に王畿思想があります。王畿という概念は『周礼』『書経』などにはじまり、ことに『周礼』に詳細な記述があります。
中国の中心に王(天子・皇帝)の住む王城があり、王城を中心とする四方五百里まで(千里四方)を王畿、または国畿といいます。国畿の外周には内臣の分封される五百里四方の領域があり、さらにその外周に夷狄と呼ばれる異民族が住んでいるという考え方です。
世界の中央に中国の王(天子・皇帝)の所有する千里の王畿・国畿があるというのです。このことから身分の上下や領域の広さに関係なく、「支配地」の代名詞として千里が用いられているようです。中国では千里を大きい・多い、長いといった意味に用いており「千里を得る」は日本の「一国一城の主になる」と同じ意味になりますが、千里にはそのような意味もあるようです。
それが二千石の郡太守の場合には王畿・国畿・都とは言わず、「稍」になるようです。王畿・国畿の概念に従えば、「方六百里」が千里になるはずですが、三百里が千里とされて「方六百里」のほうは「方二千里」と表現されています。
異民族の王は外臣と呼ばれていますが、郡太守と外臣の王とは同格ですから、外臣の王も支配領域を「稍」に制限(規定)されます。卑弥呼の場合も同様ですが、卑弥呼は親魏倭王に冊封されていますから、単なる外臣ではなく内臣の王に準ずる高位だったようです。
高句麗伝の地理記事を大ざっぱに言えば遼寧省の遼河の下流域、およびその支流の渾河流域が遼東郡であり、鴨緑江中・上流域が高句麗で、その分水界付近が国境になっているということです。前々回に述べたようにその国境には明代に「柳条片牆」が築かれます。
2010年4月20日火曜日
再考・稍とは その2
東夷伝には夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊貊・韓、倭人の七条(伝)がありますが、この7ヶ国と直接・間接に関係を持っている人物がいます。正始8年に帯方郡太守に着任し、張政を倭国に遣わした王頎ですが、接触のないのは濊貊だけです。
その濊貊も帯方郡と国境を接しており、まったく無関係というのではありません。帯方郡太守の弓遵が韓人に殺されたため、玄菟郡太守だった王頎が後任の帯方郡太守に転出しています。東夷伝の地理記事は王頎を抜きにしては理解できないようです。
正始6年の高句麗再討伐で王頎は逃亡した高句麗王の位宮を追って夫余を南下し、高句麗東部を縦断して日本海沿岸の東沃沮に達しています。東夷伝の地理記事の多くはこの時の王頎の見聞に基づいていると見ることができます。
東夷伝序文にも東夷伝を立てた理由として、6年の王頎のことが挙げられています。その王頎の活動を通して稍について考えてみたいと思いますが、その前に高句麗と遼東・玄菟郡の関係を見ておきたいと思います。
紀元前108年、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置しますが、前82年に真番・臨屯は廃止され玄菟郡も西に後退します。武帝の設置した玄菟郡を第一玄菟郡と呼び、移動した玄菟郡を第二玄菟郡と呼んでいます。
後漢第5代和帝のころから周辺の異民族の動きが活発になり、105年に高句麗が遼東郡に入蒄しています。そのためもあるのでしょうが、106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しています。
第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなりますが、図の高句麗の位置が第二玄菟郡のようで、図の玄菟郡は第三玄菟郡です。円の大きさが稍で、直径六百里(260キロ)、半径三百里(130キロ)です。緑色の円は魏の郡であり、白色は鮮卑、夫余・高句麗など異民族の国です。
図では国の位置があまりに整然としているので不自然に思えます。高句麗が西にずれていますが、これは第二玄菟郡がこの位置に在ったことによるのでしょう。この図は部分的には事実ではなく概念です。
概念ではあっても全体的に見ると均整が取れているので、このような図になると思われます。正確な地図などなかったはずですから、冊封体制はこのような概念的な位置が対象になっていたでしょう。
冊封体制の職約(義務)に反すると討伐の対象になりますから、概念ではあってもそれだけに強制力があり、冊封を受ける側はこれに従わざるを得なかったと思われます。
正始4年(243)、高句麗の一部族の小水貊が遼東郡の西安平県を寇略します。西安平県は鴨緑江の河口部西岸の県ですが、小水貊は高句麗の概念的な位置から外れた地域に進出したのです。そのため翌5年、幽州刺史の毌丘倹が高句麗を討伐します。
図の中心になっているのは遼東郡ですが、遼東郡は紀元前311年に燕の昭王が設置して以来、中国の東方経営の拠点になってきました。図で見ると現在の遼寧省の西部は遼西郡ですが、それを除くほぼ全域が元来の遼東郡と思ってよいようです。
武帝が朝鮮半島に置いた四郡のうちの玄菟郡は106年に図の第三玄菟郡の地に移動してきますが、玄菟郡の半分が遼東郡と重なり合う形になっていることに注意が必要です。玄菟郡冶と遼東郡冶の間は六百里ではなく三百里です。
遼東郡の郡域は広大で、周辺には鮮卑や夫余などの異民族がいます。玄菟郡はこれに対応するために置かれた補助的な郡のようです。第三玄菟郡の地に移動したのも鮮卑や夫余、ことに鮮卑に対応するためであったと考えるのがよさそうです。
このことは帯方郡も同様で、帯方郡と楽浪郡も重なり合う形になっています。帯方郡は楽浪郡の補助的な郡のようです。204年ころ公孫康が帯方郡を設置しますが、帯方郡は武帝の置いた真番郡を再設置したものと考えればよさそうです。
正始8年に玄菟郡太守だった王頎が帯方郡太守に転出していますが、どちらも小さな郡です。郡太守(郡の長官)には二千石が任命され、県令(県の長官)には千石が任命されますが、王頎は二千石ではなく1階級下位の比二千石ではなかったかと考えられます。
その濊貊も帯方郡と国境を接しており、まったく無関係というのではありません。帯方郡太守の弓遵が韓人に殺されたため、玄菟郡太守だった王頎が後任の帯方郡太守に転出しています。東夷伝の地理記事は王頎を抜きにしては理解できないようです。
正始6年の高句麗再討伐で王頎は逃亡した高句麗王の位宮を追って夫余を南下し、高句麗東部を縦断して日本海沿岸の東沃沮に達しています。東夷伝の地理記事の多くはこの時の王頎の見聞に基づいていると見ることができます。
東夷伝序文にも東夷伝を立てた理由として、6年の王頎のことが挙げられています。その王頎の活動を通して稍について考えてみたいと思いますが、その前に高句麗と遼東・玄菟郡の関係を見ておきたいと思います。
紀元前108年、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置しますが、前82年に真番・臨屯は廃止され玄菟郡も西に後退します。武帝の設置した玄菟郡を第一玄菟郡と呼び、移動した玄菟郡を第二玄菟郡と呼んでいます。
後漢第5代和帝のころから周辺の異民族の動きが活発になり、105年に高句麗が遼東郡に入蒄しています。そのためもあるのでしょうが、106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しています。
第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなりますが、図の高句麗の位置が第二玄菟郡のようで、図の玄菟郡は第三玄菟郡です。円の大きさが稍で、直径六百里(260キロ)、半径三百里(130キロ)です。緑色の円は魏の郡であり、白色は鮮卑、夫余・高句麗など異民族の国です。
図では国の位置があまりに整然としているので不自然に思えます。高句麗が西にずれていますが、これは第二玄菟郡がこの位置に在ったことによるのでしょう。この図は部分的には事実ではなく概念です。
概念ではあっても全体的に見ると均整が取れているので、このような図になると思われます。正確な地図などなかったはずですから、冊封体制はこのような概念的な位置が対象になっていたでしょう。
冊封体制の職約(義務)に反すると討伐の対象になりますから、概念ではあってもそれだけに強制力があり、冊封を受ける側はこれに従わざるを得なかったと思われます。
正始4年(243)、高句麗の一部族の小水貊が遼東郡の西安平県を寇略します。西安平県は鴨緑江の河口部西岸の県ですが、小水貊は高句麗の概念的な位置から外れた地域に進出したのです。そのため翌5年、幽州刺史の毌丘倹が高句麗を討伐します。
図の中心になっているのは遼東郡ですが、遼東郡は紀元前311年に燕の昭王が設置して以来、中国の東方経営の拠点になってきました。図で見ると現在の遼寧省の西部は遼西郡ですが、それを除くほぼ全域が元来の遼東郡と思ってよいようです。
武帝が朝鮮半島に置いた四郡のうちの玄菟郡は106年に図の第三玄菟郡の地に移動してきますが、玄菟郡の半分が遼東郡と重なり合う形になっていることに注意が必要です。玄菟郡冶と遼東郡冶の間は六百里ではなく三百里です。
遼東郡の郡域は広大で、周辺には鮮卑や夫余などの異民族がいます。玄菟郡はこれに対応するために置かれた補助的な郡のようです。第三玄菟郡の地に移動したのも鮮卑や夫余、ことに鮮卑に対応するためであったと考えるのがよさそうです。
このことは帯方郡も同様で、帯方郡と楽浪郡も重なり合う形になっています。帯方郡は楽浪郡の補助的な郡のようです。204年ころ公孫康が帯方郡を設置しますが、帯方郡は武帝の置いた真番郡を再設置したものと考えればよさそうです。
正始8年に玄菟郡太守だった王頎が帯方郡太守に転出していますが、どちらも小さな郡です。郡太守(郡の長官)には二千石が任命され、県令(県の長官)には千石が任命されますが、王頎は二千石ではなく1階級下位の比二千石ではなかったかと考えられます。
2010年4月16日金曜日
再考・稍とは その1
東夷伝にはしばしば「稍」の文字が出てきますが、「少ない・徐々に」といった意味で用いられています。ところが『大漢和辭典』で調べてみると「六百里四方」という意味と「王城を去ること三百里」という意味があり、また「太夫の食封」という意味もあります。
今までに稍という考え方があり、それが東夷伝なり倭人伝に見られるという説を聞いたことがありません。またそれが冊封体制と関係があり、異民族の王の支配領域を六百里四方に制限する根拠になっているなどとは考えられてもいません。
それが親魏倭王に冊封された卑弥呼にも適用されていました。これは邪馬台国が畿内にあったとしても北部九州は支配できないし、逆に北部九州に在ったとしても畿内は支配できないということです。それは倭国が統一された民族国家ではなく、未統一の部族国家だということでもあります。
また「王城を去ること三百里」を地理記事にすると、王城を中心にした放射行程になり、直線行程になることはありません。倭人伝の地理記事の帯方郡から末盧国までは直線行程なっていますが、これは倭国が大海中の島国であるために、放射行程ではその位置が説明できないからです。
稍の意味に気付いた時に思ったのは、東夷伝の千里は実際には三百里ではないかということでしたが、稍の存在を認めると弥生時代史が変わってきます。前回の投稿では先を急いだために詳しいことが述べられませんでしたのでさらに述べてみたいと思います。
東夷伝の千里は実際には三百里ではないかと思った私は、さっそく倭人伝の記事と照合してみました。一里を434メートルとすると三百里は約130キロになりますが、どのように見ても韓伝・倭人伝の千里は半分の65キロ程度にしかなりません。
そこで韓伝・倭人伝以外の諸伝にも当たって見ました。山尾幸久氏の説に従って遼東郡冶(遼東郡役所)の襄平城を遼寧省遼陽付近とし、玄菟郡冶を遼寧省撫順付近とすると、その間はおよそ三百里になりそうです。
また遼東郡冶と高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)の間は、その間隔(距離)から見て六百~九百里になりそうです。
手元に昭和6年9月に三省堂から発行された『最近世界地図』という地図帳があります。小学校高学年か中学校の教科書のようで、その中に旧満州の地図があり、長城の記号と「長柵」という文字が見られます。
この地図を見ると遼東郡冶の襄平城の東三百里と、高句麗国都の丸都城の西三百里は同一地点であり、それは「長柵」付近になりそうです。その地点が両国の国境になっていることが考えられ、遼東郡冶と高句麗国都の間は六百里になることが考えられました。
この地図から東夷伝に見える方位・距離の終点は国境だと考えなければならないことに気付きました。「長柵」は「万里の長城」から東に伸びて、吉林省吉林市の北の第二松花江に達しています。また遼寧省開原の北で分岐しており、南に伸びて西朝鮮湾(黄海)に達しています。
明代(1368~1644)には、ほぼ同じ位置に「柳条片牆」という城門を備えた長城がありました。後になって気が付きましたが柳条片牆と長柵とは同じもののようです。
詳細は分かりませんが、日清・日露の戦役の後、遼東半島に権益を持つようになった旧日本軍が、明代の柳条片牆を修復して、中国・ロシアに対する防壁として利用したように考えられます。
柳条片牆は遼東郡冶と玄菟郡冶からの三百里以内を取り巻くように設けられているようです。 夫余伝に「夫余は長城の北に在り」とありますが、その長城が夫余と玄菟郡の国境だと考えられ、おそらくその長城が後に柳条片牆になるのでしょう。
概念的に見ると開原付近から北東に伸びる柳条片牆の東側がツングース系狩猟民の夫余族の住む地域であり、西側が遊牧民の鮮卑・烏丸の住む地域と思えばよいようです。南に伸びる柳条片牆が遼東と高句麗の国境であり、また夫余と玄菟郡の国境でもあるようです。
私たちは「万里の長城」のことはよく知っていますが、その東に柳条片牆が存在していることをほとんど知りません。三世紀と明代とでは時代は異なりますが、柳条片牆は東夷伝の地理記事を解明する手懸かりになりそうです。
今までに稍という考え方があり、それが東夷伝なり倭人伝に見られるという説を聞いたことがありません。またそれが冊封体制と関係があり、異民族の王の支配領域を六百里四方に制限する根拠になっているなどとは考えられてもいません。
それが親魏倭王に冊封された卑弥呼にも適用されていました。これは邪馬台国が畿内にあったとしても北部九州は支配できないし、逆に北部九州に在ったとしても畿内は支配できないということです。それは倭国が統一された民族国家ではなく、未統一の部族国家だということでもあります。
また「王城を去ること三百里」を地理記事にすると、王城を中心にした放射行程になり、直線行程になることはありません。倭人伝の地理記事の帯方郡から末盧国までは直線行程なっていますが、これは倭国が大海中の島国であるために、放射行程ではその位置が説明できないからです。
稍の意味に気付いた時に思ったのは、東夷伝の千里は実際には三百里ではないかということでしたが、稍の存在を認めると弥生時代史が変わってきます。前回の投稿では先を急いだために詳しいことが述べられませんでしたのでさらに述べてみたいと思います。
東夷伝の千里は実際には三百里ではないかと思った私は、さっそく倭人伝の記事と照合してみました。一里を434メートルとすると三百里は約130キロになりますが、どのように見ても韓伝・倭人伝の千里は半分の65キロ程度にしかなりません。
そこで韓伝・倭人伝以外の諸伝にも当たって見ました。山尾幸久氏の説に従って遼東郡冶(遼東郡役所)の襄平城を遼寧省遼陽付近とし、玄菟郡冶を遼寧省撫順付近とすると、その間はおよそ三百里になりそうです。
また遼東郡冶と高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)の間は、その間隔(距離)から見て六百~九百里になりそうです。
手元に昭和6年9月に三省堂から発行された『最近世界地図』という地図帳があります。小学校高学年か中学校の教科書のようで、その中に旧満州の地図があり、長城の記号と「長柵」という文字が見られます。
この地図を見ると遼東郡冶の襄平城の東三百里と、高句麗国都の丸都城の西三百里は同一地点であり、それは「長柵」付近になりそうです。その地点が両国の国境になっていることが考えられ、遼東郡冶と高句麗国都の間は六百里になることが考えられました。
この地図から東夷伝に見える方位・距離の終点は国境だと考えなければならないことに気付きました。「長柵」は「万里の長城」から東に伸びて、吉林省吉林市の北の第二松花江に達しています。また遼寧省開原の北で分岐しており、南に伸びて西朝鮮湾(黄海)に達しています。
明代(1368~1644)には、ほぼ同じ位置に「柳条片牆」という城門を備えた長城がありました。後になって気が付きましたが柳条片牆と長柵とは同じもののようです。
詳細は分かりませんが、日清・日露の戦役の後、遼東半島に権益を持つようになった旧日本軍が、明代の柳条片牆を修復して、中国・ロシアに対する防壁として利用したように考えられます。
柳条片牆は遼東郡冶と玄菟郡冶からの三百里以内を取り巻くように設けられているようです。 夫余伝に「夫余は長城の北に在り」とありますが、その長城が夫余と玄菟郡の国境だと考えられ、おそらくその長城が後に柳条片牆になるのでしょう。
概念的に見ると開原付近から北東に伸びる柳条片牆の東側がツングース系狩猟民の夫余族の住む地域であり、西側が遊牧民の鮮卑・烏丸の住む地域と思えばよいようです。南に伸びる柳条片牆が遼東と高句麗の国境であり、また夫余と玄菟郡の国境でもあるようです。
私たちは「万里の長城」のことはよく知っていますが、その東に柳条片牆が存在していることをほとんど知りません。三世紀と明代とでは時代は異なりますが、柳条片牆は東夷伝の地理記事を解明する手懸かりになりそうです。
2010年4月12日月曜日
再考・国名のみの21ヶ国 その3
9番目の対蘇から15番目の鬼奴までが肥前にあったのであれば、2番目の巳百支国から8番目の沮奴国までは豊前にあったということになります。伊都国は糸島郡ではなく田河郡であり、不弥国は遠賀郡です。
②巳百支=企救 ③伊邪=京都 ④都支=仲津 ⑤彌奴=筑城 ⑥好古都=上毛 ⑦不呼=下毛 ⑧沮奴=宇佐
宇佐の宇佐神宮を邪馬台国と結び付ける説がありますが、宇佐は沮奴国ということになり宇佐説も成立しないようです。また京都郡を邪馬台国とする説もありますが、京都郡が伊邪国ならこの説も成立しないことになります。
大宰府天満宮蔵の『翰苑』には『廣志』を引用した次の文が見られますが、私はこの文が邪馬台国論争の「決め手」だと考えています。『翰苑』は唐代の書ですから遣隋使・遣唐使から得た情報が加わっている可能性があります。
邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。自女王国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也。
表題の「邪届伊都傍連斯馬」は、「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるということです。「ある地点」は宗像郡の田熊・土穴付近であり、邪馬嘉は邪馬台国のことです。伊都国は田川郡であり斯馬国は志摩郡です。
『廣志』の引用文には「自女王国以北」の奴国・不弥国が省略されていますが、倭人伝にも巳百支国・伊邪国が見えますから、巴百支國・伊邪國が奴国・不弥国というのではなさそうです。この2国は「自女王国以北」や伊都国(田川郡)に近く、また邪馬台国にも近い国のようです。
巴百支国は倭人伝の巳百支国のことで、不弥国(遠賀郡)の東の企救郡であり、伊都国(田川郡)の東は伊邪國(京都郡)と都支国(仲津郡)のようです。あまりに辻褄が合い過ぎて、勘違いしているのではないかと不安になってきます。
「案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り」とありますが、通説では伊邪分国の「分」は「久」の誤りで『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことであり、現在の屋久島と考えられています。
以前の投稿では裸国・黒歯国の方位・距離が東南一年だと太平洋上になるので、『翰苑』の編纂者の張楚金は遣隋使の説明に従い、これを屋久島まで西南海行一日だと考えたとしました。この場合、遣隋使は南島路を採って隋に渡ったことになります。
しかし京都郡が伊邪国であれば、瀬戸内海航路の要津になっていた草野津(かやのつ、行橋市草野)から東南に海を渡った所にある、倭人伝のいう裸国・黒歯国が伊邪分國だと考えることができるようになります。
伊邪分國は裸国・黒歯国のうちの裸国のことだと考えられそうですが、「布帛は無く、革を以って衣と爲す」とあります。奇妙な一致ですが普段は布がないので裸で生活しているが、寒い時には毛皮を纏ったことが考えられます。
「蓋し伊耶國也」の伊耶國とは伊予国のことではないでしょうか。伊予は草野津の西南ではなく東南になりますが、海行一日とは言えるでしょう。伊予は九州で作られた銅矛が四国に搬入される経路になっていて密接な関係が見られます。
銅矛を配布した部族にとって伊予は、草野津のある伊邪國(京都郡)の分国のようなものだと述べられているように思えてきます。しかし実際には分国というわけではなく、そこで伊耶國が出てくるように思われます。
伊耶と伊予は音が似ているとは言えますが、どのような関係があるのか予想もつきません。問題は西南ということと、果たして伊予には布が無かったかということになりそうです。
西南については沖縄まで南下する南島路を採った遣隋使・遣唐使が屋久島のことだと考えたとも思えますが、果たして伊予には布がなかった(少なかった)のでしょうか。新しい課題が出てきましたが、ご存知の方、教示いただければ幸甚です
②巳百支=企救 ③伊邪=京都 ④都支=仲津 ⑤彌奴=筑城 ⑥好古都=上毛 ⑦不呼=下毛 ⑧沮奴=宇佐
宇佐の宇佐神宮を邪馬台国と結び付ける説がありますが、宇佐は沮奴国ということになり宇佐説も成立しないようです。また京都郡を邪馬台国とする説もありますが、京都郡が伊邪国ならこの説も成立しないことになります。
大宰府天満宮蔵の『翰苑』には『廣志』を引用した次の文が見られますが、私はこの文が邪馬台国論争の「決め手」だと考えています。『翰苑』は唐代の書ですから遣隋使・遣唐使から得た情報が加わっている可能性があります。
邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。自女王国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也。
表題の「邪届伊都傍連斯馬」は、「ある地点」の東南五百里に伊都国があり、南には邪馬嘉国があるということです。「ある地点」は宗像郡の田熊・土穴付近であり、邪馬嘉は邪馬台国のことです。伊都国は田川郡であり斯馬国は志摩郡です。
『廣志』の引用文には「自女王国以北」の奴国・不弥国が省略されていますが、倭人伝にも巳百支国・伊邪国が見えますから、巴百支國・伊邪國が奴国・不弥国というのではなさそうです。この2国は「自女王国以北」や伊都国(田川郡)に近く、また邪馬台国にも近い国のようです。
巴百支国は倭人伝の巳百支国のことで、不弥国(遠賀郡)の東の企救郡であり、伊都国(田川郡)の東は伊邪國(京都郡)と都支国(仲津郡)のようです。あまりに辻褄が合い過ぎて、勘違いしているのではないかと不安になってきます。
「案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り」とありますが、通説では伊邪分国の「分」は「久」の誤りで『隋書』流求国伝に登場する「夷邪久国」のことであり、現在の屋久島と考えられています。
以前の投稿では裸国・黒歯国の方位・距離が東南一年だと太平洋上になるので、『翰苑』の編纂者の張楚金は遣隋使の説明に従い、これを屋久島まで西南海行一日だと考えたとしました。この場合、遣隋使は南島路を採って隋に渡ったことになります。
しかし京都郡が伊邪国であれば、瀬戸内海航路の要津になっていた草野津(かやのつ、行橋市草野)から東南に海を渡った所にある、倭人伝のいう裸国・黒歯国が伊邪分國だと考えることができるようになります。
伊邪分國は裸国・黒歯国のうちの裸国のことだと考えられそうですが、「布帛は無く、革を以って衣と爲す」とあります。奇妙な一致ですが普段は布がないので裸で生活しているが、寒い時には毛皮を纏ったことが考えられます。
「蓋し伊耶國也」の伊耶國とは伊予国のことではないでしょうか。伊予は草野津の西南ではなく東南になりますが、海行一日とは言えるでしょう。伊予は九州で作られた銅矛が四国に搬入される経路になっていて密接な関係が見られます。
銅矛を配布した部族にとって伊予は、草野津のある伊邪國(京都郡)の分国のようなものだと述べられているように思えてきます。しかし実際には分国というわけではなく、そこで伊耶國が出てくるように思われます。
伊耶と伊予は音が似ているとは言えますが、どのような関係があるのか予想もつきません。問題は西南ということと、果たして伊予には布が無かったかということになりそうです。
西南については沖縄まで南下する南島路を採った遣隋使・遣唐使が屋久島のことだと考えたとも思えますが、果たして伊予には布がなかった(少なかった)のでしょうか。新しい課題が出てきましたが、ご存知の方、教示いただければ幸甚です
2010年4月8日木曜日
再考・国名のみの21ヶ国 その2
『倭名類従抄』によると筑前は15郡、筑後は9郡、豊前は8郡、豊後も8郡、肥前は13郡になっています。私は斯馬国は「島の国」という意味の国名で、筑前の志摩郡だと考えています。筑前には邪馬台国と面土国、及び「自女王国以北」の国もあり、筑後は投馬国だと考えています。
国名のみの21ヶ国の16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は8郡ですが、日田・海部・国東以外の5郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。
そうすると残る国名のみの14ヶ国は豊前8郡、肥前13郡の範囲に収まりそうですが、肥前の長崎県部分には青銅祭器が見られません。青銅祭器は渡来系弥生人の部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものです。
肥前の長崎県部分は西北九州タイプの「縄文系弥生人」が居住していたようで、そこは熊襲の領域であり狗奴国に属していたようです。とすれば残りの14ヶ国は肥前の佐賀県部分の8郡と豊前の8郡になりそうです。
肥前の佐賀県部分の松浦郡は末盧国であり、豊前の田河郡は伊都国ですから、残りの14郡が14ヶ国のどれかに相当することになります。寺沢薫氏は講談社刊『王権誕生』で次のように述べています。
遺跡の分布状況や「郡」の領域などを参考にすると、佐賀平野は基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神崎(かんざき)、佐嘉(さか)、小城(おぎ)、杵島(きじま)の各郡に相当する、七つのクニからなると考えられる。(中略) 吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ。
豊後の郡名を見ると、⑰躬臣=玖珠 ⑱巴利=速見 ⑲支惟=大分=おおきた ⑳烏奴=大野 21 奴=直入のように、倭人伝に見える国名と音がよく似ています。そのような意味では12番目の華奴蘇奴と肥前の神崎の音がよく似ています。
華奴蘇奴国は神崎郡と考えることができそうです。9番目の対蘇と養父郡鳥栖郷の鳥栖(とす)の音も似ています。ただし鳥栖は基肄郡ではなく養父郡に属していますが、9番目の対蘇と10番目の蘇奴の順番が逆になっているのかも知れません。
15番目の鬼奴も杵島(きしま)の杵(きね)に似ています。杵島郡の西隣は長崎県になりますが彼杵(そのき)郡で、共に郡名に「杵」が用いられています。鬼奴は「きね」の音を表記していると考えることができそうです。
青銅祭器が見られないことから見て、肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたことが考えられますが、このように考えると9番目の対蘇から15番目の鬼奴までは肥前の佐賀県部分にあったことが考えられます。
⑨対蘇=基肄 ⑩蘇奴=養父 ⑪呼邑=三根 ⑫華奴蘇奴=神崎 ⑬鬼=佐嘉 ⑭為吾=小城 ⑮鬼奴=杵島
文を引用させていただいた寺沢氏は「母集落を核とした動的な遺跡群を一括する約3~5㎞の日常生活圏」を「小共同体」とし、「律令の郡規模を目安とした政治性をも内包した圏」を「クニ」としています。
私は寺沢氏の言われる母集落はその地域で最も有力な宗族の集落であり、小共同体はその有力な宗族の日常生活圏であり、クニはその宗族の通婚圏であり「政治性をも内包」していると考えています。というよりも律令制の郡の多くが倭人伝の国そのものだと考えます。
寺沢氏は紀元前後の状態を想定して「吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ」と述べられていますが、それは3世紀になっても変わっていないことになります。残る7ヶ国は豊前にあったと考えてよさそうです。
吉野ヶ里を邪馬台国とする説がありますが、寺沢氏の言われるように「神崎のクニ(華奴蘇奴の国)の拠点」だと考えるのがよさそうです。あるいは肥前の7ヶ国の拠点になっているのかも知れませんが、それが邪馬台国だとは言えないようです。
国名のみの21ヶ国の16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。豊後は8郡ですが、日田・海部・国東以外の5郡の郡名が倭人伝の国名とよく似ています。
そうすると残る国名のみの14ヶ国は豊前8郡、肥前13郡の範囲に収まりそうですが、肥前の長崎県部分には青銅祭器が見られません。青銅祭器は渡来系弥生人の部族が通婚関係の生じた宗族に配布したものです。
肥前の長崎県部分は西北九州タイプの「縄文系弥生人」が居住していたようで、そこは熊襲の領域であり狗奴国に属していたようです。とすれば残りの14ヶ国は肥前の佐賀県部分の8郡と豊前の8郡になりそうです。
肥前の佐賀県部分の松浦郡は末盧国であり、豊前の田河郡は伊都国ですから、残りの14郡が14ヶ国のどれかに相当することになります。寺沢薫氏は講談社刊『王権誕生』で次のように述べています。
遺跡の分布状況や「郡」の領域などを参考にすると、佐賀平野は基肄(きい)、養父(やぶ)、三根(みね)、神崎(かんざき)、佐嘉(さか)、小城(おぎ)、杵島(きじま)の各郡に相当する、七つのクニからなると考えられる。(中略) 吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ。
豊後の郡名を見ると、⑰躬臣=玖珠 ⑱巴利=速見 ⑲支惟=大分=おおきた ⑳烏奴=大野 21 奴=直入のように、倭人伝に見える国名と音がよく似ています。そのような意味では12番目の華奴蘇奴と肥前の神崎の音がよく似ています。
華奴蘇奴国は神崎郡と考えることができそうです。9番目の対蘇と養父郡鳥栖郷の鳥栖(とす)の音も似ています。ただし鳥栖は基肄郡ではなく養父郡に属していますが、9番目の対蘇と10番目の蘇奴の順番が逆になっているのかも知れません。
15番目の鬼奴も杵島(きしま)の杵(きね)に似ています。杵島郡の西隣は長崎県になりますが彼杵(そのき)郡で、共に郡名に「杵」が用いられています。鬼奴は「きね」の音を表記していると考えることができそうです。
青銅祭器が見られないことから見て、肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたことが考えられますが、このように考えると9番目の対蘇から15番目の鬼奴までは肥前の佐賀県部分にあったことが考えられます。
⑨対蘇=基肄 ⑩蘇奴=養父 ⑪呼邑=三根 ⑫華奴蘇奴=神崎 ⑬鬼=佐嘉 ⑭為吾=小城 ⑮鬼奴=杵島
文を引用させていただいた寺沢氏は「母集落を核とした動的な遺跡群を一括する約3~5㎞の日常生活圏」を「小共同体」とし、「律令の郡規模を目安とした政治性をも内包した圏」を「クニ」としています。
私は寺沢氏の言われる母集落はその地域で最も有力な宗族の集落であり、小共同体はその有力な宗族の日常生活圏であり、クニはその宗族の通婚圏であり「政治性をも内包」していると考えています。というよりも律令制の郡の多くが倭人伝の国そのものだと考えます。
寺沢氏は紀元前後の状態を想定して「吉野ヶ里遺跡は五つほどの小共同体からなる「神崎」のクニの拠点だ」と述べられていますが、それは3世紀になっても変わっていないことになります。残る7ヶ国は豊前にあったと考えてよさそうです。
吉野ヶ里を邪馬台国とする説がありますが、寺沢氏の言われるように「神崎のクニ(華奴蘇奴の国)の拠点」だと考えるのがよさそうです。あるいは肥前の7ヶ国の拠点になっているのかも知れませんが、それが邪馬台国だとは言えないようです。
2010年4月6日火曜日
再考・国名のみの21ヶ国 その1
前回の「因幡の素兔」は話が少々脱線しました。神話は根拠が曖昧ですから想像を掻き立てます。それを深追いするとんでもない結論に到達しますが、私はこれを「神話の迷路」と呼び、迷路に迷い込まないよう自戒しているつもりです。
しかしどうもすでに迷路に迷い込んでいるようです。ということで神話と邪馬台国の関連も一巡したことですし、ここで神話は終わりたいと思います。そこで国名のみの21ヶ国について再度、具体的に考えてみたいと思います。
対馬国が「方四百里」とされ一大(一支)国が「方三百里」とされていることから見て、対馬国は対馬の上県郡でしょうし、一大国は壱岐島と考えてよいでしょう。その戸数は対馬国の千余戸に対し一大国は三千余家です。
末盧国は肥前の松浦郡でしょうが、律令制松浦郡の郡域は広く、その戸数が四千余戸のようです。伊都国は通説では糸島郡だと考えられていますが、私は田河郡だと考えていますが、それは千余戸です。不弥国は遠賀郡だと考えますがその戸数も千余戸です。
このように考えると国名のみの21ヶ国も郡程度の大きさで、その戸数は千~4千戸程度と考えてよさそうです。私は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡が戸数2万の奴国であることから見て、平野部の人口密度の高い所では7千戸になると考えます。
畿内説では21ヶ国を律令制の国名と結び付けて、伊邪=伊予国、斯馬=志摩国、弥奴=美濃国などとされている例がありますが、これを千~四千余家の郡程度の大きさと考えてよいでしょうか。
これら律令制の国はその面積や国内の郡数から見て、戸数七万の邪馬台国よりもはるかに大きかったと考えなければならないでしょう。例えば美濃国は18郡ですが、倭人伝の国の平均戸数を2千戸すると3万2千戸になります。
濃尾平野の稲作量から見て2倍の4千戸とすると7万2千戸になり、7千戸とすると、邪馬台国の七万よりもはるかに多い12万6千戸になります。これは伊邪=伊予国、斯馬=志摩国などについても同じことが言えるでしょう。ちなみに大和15郡を平均7千戸とすると、10万5千戸になります。
国名のみの21ヶ国の面積と戸数は、律令制の国と郡のどちらに近いでしょうか。そしてどうして九州説と畿内説ではこのような違いが起きるのでしょうか。それは倭国を統一された民族国家と見るか、未統一の部族国家と見るかの違いのようです。
倭人伝は女王国のことを倭国と言っており、それは外交に用いられる呼び方です。それ以外は「倭種」「倭地」と呼んで区別しています。3世紀の倭国はまだ部族が王を擁立する「部族国家」の時代で、倭国とは北部九州にあった女王国のことです。
対馬国が対馬国上県郡であり、一大国が壱岐島であり、末盧国は肥前国の松浦郡であることは明らかで、その戸数・面積から見て国名のみの21ヶ国が女王の支配する北部九州以外にあるとは思えません。
倭国がすでに倭人の民族国家になっていたのなら畿内説も成立するでしょうが、統一された民族国家になるのは280年ごろに大和朝廷が成立して以後のことです。これがオオクニヌシの国譲りや神武東遷の物語になっています。
畿内説は無理があります。倭人伝に見える方位・距離は信用できない上に、ここに示した対馬国・一大国・末盧国の面積・戸数も信用できないというのであれば、邪馬台国の存在自体が信用できないということにもなりかねません。
それはさておいて21ヶ国の最初は斯馬国ですが、最後の奴国については「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、宗像郡(面土国)の田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます。
図は律令制官道に、倭人伝の記述から私の想定する交通路を重ねたものですが、度々述べてきたように16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。次回には赤線で示した部分について述べてみたいと思います。
しかしどうもすでに迷路に迷い込んでいるようです。ということで神話と邪馬台国の関連も一巡したことですし、ここで神話は終わりたいと思います。そこで国名のみの21ヶ国について再度、具体的に考えてみたいと思います。
対馬国が「方四百里」とされ一大(一支)国が「方三百里」とされていることから見て、対馬国は対馬の上県郡でしょうし、一大国は壱岐島と考えてよいでしょう。その戸数は対馬国の千余戸に対し一大国は三千余家です。
末盧国は肥前の松浦郡でしょうが、律令制松浦郡の郡域は広く、その戸数が四千余戸のようです。伊都国は通説では糸島郡だと考えられていますが、私は田河郡だと考えていますが、それは千余戸です。不弥国は遠賀郡だと考えますがその戸数も千余戸です。
このように考えると国名のみの21ヶ国も郡程度の大きさで、その戸数は千~4千戸程度と考えてよさそうです。私は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡が戸数2万の奴国であることから見て、平野部の人口密度の高い所では7千戸になると考えます。
畿内説では21ヶ国を律令制の国名と結び付けて、伊邪=伊予国、斯馬=志摩国、弥奴=美濃国などとされている例がありますが、これを千~四千余家の郡程度の大きさと考えてよいでしょうか。
これら律令制の国はその面積や国内の郡数から見て、戸数七万の邪馬台国よりもはるかに大きかったと考えなければならないでしょう。例えば美濃国は18郡ですが、倭人伝の国の平均戸数を2千戸すると3万2千戸になります。
濃尾平野の稲作量から見て2倍の4千戸とすると7万2千戸になり、7千戸とすると、邪馬台国の七万よりもはるかに多い12万6千戸になります。これは伊邪=伊予国、斯馬=志摩国などについても同じことが言えるでしょう。ちなみに大和15郡を平均7千戸とすると、10万5千戸になります。
国名のみの21ヶ国の面積と戸数は、律令制の国と郡のどちらに近いでしょうか。そしてどうして九州説と畿内説ではこのような違いが起きるのでしょうか。それは倭国を統一された民族国家と見るか、未統一の部族国家と見るかの違いのようです。
倭人伝は女王国のことを倭国と言っており、それは外交に用いられる呼び方です。それ以外は「倭種」「倭地」と呼んで区別しています。3世紀の倭国はまだ部族が王を擁立する「部族国家」の時代で、倭国とは北部九州にあった女王国のことです。
対馬国が対馬国上県郡であり、一大国が壱岐島であり、末盧国は肥前国の松浦郡であることは明らかで、その戸数・面積から見て国名のみの21ヶ国が女王の支配する北部九州以外にあるとは思えません。
倭国がすでに倭人の民族国家になっていたのなら畿内説も成立するでしょうが、統一された民族国家になるのは280年ごろに大和朝廷が成立して以後のことです。これがオオクニヌシの国譲りや神武東遷の物語になっています。
畿内説は無理があります。倭人伝に見える方位・距離は信用できない上に、ここに示した対馬国・一大国・末盧国の面積・戸数も信用できないというのであれば、邪馬台国の存在自体が信用できないということにもなりかねません。
それはさておいて21ヶ国の最初は斯馬国ですが、最後の奴国については「此れ女王の境界の尽きる所なり」とあって、宗像郡(面土国)の田熊・土穴に最も近いのが斯馬国であり、最も遠いのが最後の奴国であることが考えられます。
図は律令制官道に、倭人伝の記述から私の想定する交通路を重ねたものですが、度々述べてきたように16番目の邪馬国から最後の奴国までの6ヶ国は豊後にあったと考えています。次回には赤線で示した部分について述べてみたいと思います。
2010年4月1日木曜日
因幡の素兎 その3
その「気多の前」、つまり因幡国気多郡(鳥取市)の長尾鼻の西の付け根に青谷上寺地遺跡があります。同遺跡では殺傷痕のあるものを含む100余体の人骨が、溝の中に放り込まれた状態で出土しています。
遺体の腐敗が進んでいたようで骨がばらばらになっているということです。それには女性や10代の少年も見られますが、幼児のものはないということです。この人骨の年代は倭国大乱のころと考えられており、2世紀末の倭国大乱と結びつける考え方があります。
倭国大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。先にヤマタノオロチは倭国大乱が山陰に波及してきたことが語られていると述べ、100余体の人骨はその犠牲者ではないかと述べましたが、これはこの考えに従っています。
推察になりますが、兎が鮫を騙して裸にされたというのは青谷上寺地の100余人が殺されたということであろうと思っています。出雲から因幡にかけての山陰地方にも倭国大乱が波及してきて部族の間に抗争が起きたのでしょう。
青谷上寺地では破片ですが突線鈕4式、または5式の銅鐸が出土しています。また2000年には「聞く銅鐸」の破片も出土していますから、銅鐸を配布した部族に属していたと考えることができます。
八十神は海水を浴びるように教えて兎を苦しめますが、オオアナムチは真水で洗って蒲の穂綿に包まるように教えてこれを助けます。青谷上寺地の人々をさらに苦しめたのが銅剣を配布した部族の八十神であり、助けたのが銅鐸を配布した部族のオオアナムチだということになりそうです。
私は兎を銅鐸を使用した宗族だと考えていますが、別の考えを述べてみたいと思います。このような考えが氾濫しているために神話は史実ではないとされていることは承知していますが、あえてそれを述べてみます。
青谷上寺地では木製の銅戈の鞘が出土していますが、鞘には2つの小穴が有り、差し込んだ銅戈が抜け落ちないように工夫されています。中期後葉のものとされるその鞘は、大きさや形から見て中細形銅戈が収められていたようです。
肝心の銅戈がありませんが、青銅祭器が他の遺物と共伴する例はありません。鞘があるのは青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していた可能性があるということでしょう。
九州で作られた中細形銅戈は信濃で2本が出土しており、出雲大社の境外摂社・命主神社の背後でも1本が出土しています。青谷上寺地に実際に銅戈が有ったのであれば、銅戈の分布という点で、出雲と信濃の中間地点が青谷上寺地だということになります。
青谷上寺地の人々は漁労・農耕・狩猟を行う一方で、交易を盛んに行なっていたようです。交易は北陸から北部九州・瀬戸内、さらには朝鮮半島・中国にまで及んでいたことが、その出土品から知られています。
青谷上寺地は出雲と共に、北部九州と信濃を結ぶ日本海航路の中継基地・交易拠点になっていたことが考えられますが、こうしたことから北部九州の面土国王との同族関係が生じていたと考えることができそうです。
私は銅戈を配布した部族が神格化されてスサノオになると考えていますが、そうであれば青谷上寺地にもスサノオの伝承があったと考えることができます。因幡・伯耆にはヤマタノオロチの伝承はありませんが、鞘に収められていた銅戈がオロチを退治するスサノオのモデルになっている可能性もあります。
青谷上寺地が面土国王と同族関係にあったために周囲の反感を買い、100余人が殺されたようにも感じていますが、それが兎が鮫を騙して裸にされたと語り伝えられているとも考えられます。
そうであれば紀伊の神話のように「気多の前」はスサノオの住む根之堅州国であり、八上比売はスサノオの娘ということになりそうですが、そうはなっていません。青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していたのなら、スサノオが殺されたという神話になりそうです。
ヤマタノオロチを退治する筈のスサノオが殺されたというのでは神話になりません。そこでたまたま隣の高草郡の白兎海岸に兎に似た小島があったので、スサノオが兎になり、周囲の波蝕棚が鮫になったと考えることができそうです。
それをオオアナムチが助けたことにより、後にオオクニヌシはスサノオの後継者とされるようになることが考えられます。ダイコク様が助けたのは白兎ではなく、実はスサノオであったという落ちになりますが、これが事実かどうかは自信がありません。
遺体の腐敗が進んでいたようで骨がばらばらになっているということです。それには女性や10代の少年も見られますが、幼児のものはないということです。この人骨の年代は倭国大乱のころと考えられており、2世紀末の倭国大乱と結びつける考え方があります。
倭国大乱は霊帝の光和年中(178~183)に起きています。先にヤマタノオロチは倭国大乱が山陰に波及してきたことが語られていると述べ、100余体の人骨はその犠牲者ではないかと述べましたが、これはこの考えに従っています。
推察になりますが、兎が鮫を騙して裸にされたというのは青谷上寺地の100余人が殺されたということであろうと思っています。出雲から因幡にかけての山陰地方にも倭国大乱が波及してきて部族の間に抗争が起きたのでしょう。
青谷上寺地では破片ですが突線鈕4式、または5式の銅鐸が出土しています。また2000年には「聞く銅鐸」の破片も出土していますから、銅鐸を配布した部族に属していたと考えることができます。
八十神は海水を浴びるように教えて兎を苦しめますが、オオアナムチは真水で洗って蒲の穂綿に包まるように教えてこれを助けます。青谷上寺地の人々をさらに苦しめたのが銅剣を配布した部族の八十神であり、助けたのが銅鐸を配布した部族のオオアナムチだということになりそうです。
私は兎を銅鐸を使用した宗族だと考えていますが、別の考えを述べてみたいと思います。このような考えが氾濫しているために神話は史実ではないとされていることは承知していますが、あえてそれを述べてみます。
青谷上寺地では木製の銅戈の鞘が出土していますが、鞘には2つの小穴が有り、差し込んだ銅戈が抜け落ちないように工夫されています。中期後葉のものとされるその鞘は、大きさや形から見て中細形銅戈が収められていたようです。
肝心の銅戈がありませんが、青銅祭器が他の遺物と共伴する例はありません。鞘があるのは青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していた可能性があるということでしょう。
九州で作られた中細形銅戈は信濃で2本が出土しており、出雲大社の境外摂社・命主神社の背後でも1本が出土しています。青谷上寺地に実際に銅戈が有ったのであれば、銅戈の分布という点で、出雲と信濃の中間地点が青谷上寺地だということになります。
青谷上寺地の人々は漁労・農耕・狩猟を行う一方で、交易を盛んに行なっていたようです。交易は北陸から北部九州・瀬戸内、さらには朝鮮半島・中国にまで及んでいたことが、その出土品から知られています。
青谷上寺地は出雲と共に、北部九州と信濃を結ぶ日本海航路の中継基地・交易拠点になっていたことが考えられますが、こうしたことから北部九州の面土国王との同族関係が生じていたと考えることができそうです。
私は銅戈を配布した部族が神格化されてスサノオになると考えていますが、そうであれば青谷上寺地にもスサノオの伝承があったと考えることができます。因幡・伯耆にはヤマタノオロチの伝承はありませんが、鞘に収められていた銅戈がオロチを退治するスサノオのモデルになっている可能性もあります。
青谷上寺地が面土国王と同族関係にあったために周囲の反感を買い、100余人が殺されたようにも感じていますが、それが兎が鮫を騙して裸にされたと語り伝えられているとも考えられます。
そうであれば紀伊の神話のように「気多の前」はスサノオの住む根之堅州国であり、八上比売はスサノオの娘ということになりそうですが、そうはなっていません。青谷上寺地が銅戈を配布した部族に属していたのなら、スサノオが殺されたという神話になりそうです。
ヤマタノオロチを退治する筈のスサノオが殺されたというのでは神話になりません。そこでたまたま隣の高草郡の白兎海岸に兎に似た小島があったので、スサノオが兎になり、周囲の波蝕棚が鮫になったと考えることができそうです。
それをオオアナムチが助けたことにより、後にオオクニヌシはスサノオの後継者とされるようになることが考えられます。ダイコク様が助けたのは白兎ではなく、実はスサノオであったという落ちになりますが、これが事実かどうかは自信がありません。
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