2011年10月30日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その2

韓の広さの「方四千里」は260キロのようですが、馬韓の海岸を南下する距離は六千里ほどになりそうです。狗邪韓国までの七千余里は馬韓56ヶ国の沿岸を通過する距離に過ぎず、金海・釜山までだと一万里になってしまいます。

金海・釜山を狗邪韓国とすることはできません。インチョンから狗邪韓国に至る距離は南行六千里+東行千里の合計七千里であり、狗邪韓国は4・5世紀(三国時代)の百済と任那(伽耶)の国境付近にあった国だと考えるのがよいようです。

馬韓(百済)と弁韓(任那・伽耶)の国境は全羅南道中部の巨文島付近と考え、弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島周辺だと考えます。巨文島と馬山・巨済島の間の二千里が倭人伝の狗邪韓国であり、狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる地域のようです。

私は倭人伝の地理記事を「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」とでも言える3圏に分けて考えるのがよいと思っています。「暦韓国圏」は韓の全域を言うのではなく、帯方郡から狗邪韓国の西境までを言い、検討してきたようにその距離が七千余里になります。

韓は馬韓56国、弁韓12国、辰韓12国で構成されていましたが、倭人伝に見える「暦韓国」は馬韓のみで弁韓・辰韓は含まれていないようです。弁韓と辰韓は一括して弁辰と呼ばれており、「暦韓国圏」の馬韓と弁辰が対比されているようです。

「暦韓国圏」は紀元前108年に楽浪郡が設置されるとその影響を受け、また黄海を渡ってくる山東半島の文化の影響を受けた地域のようです。韓伝には両者に言語の違いなど相違点があることが述べられており、弁韓・辰韓とでは異なった文化があったことが考えられています。

「海峡圏」は朝鮮海峡・対馬海峡・及び壱岐海峡に面した国を言い、狗邪韓国・対馬国・一支国・末盧国がこれに属します。狗邪韓国と弁韓とは同じものだと考えますが、辰韓の南部も「海峡圏」に加えるのがよいようです。この「海峡圏」は通説では全く考えられていない概念です。

弁韓の風俗について韓伝に「男女近倭、亦文身」とあり、その風俗に倭人と共通するものがあるようです。また倭人伝の対馬国の記事に「良田無く海物を食して自活し、船に乗り南北に市糴す」とありますが、このを馬韓(暦韓国圏)と、その影響を受けている弁辰と考え、を「倭国圏」と考えれば理解しやすいでしょう。

「海峡圏」には海路による交流があり「暦韓国圏」や「倭国圏」とは異質の文化が存在していることが考えられますが、韓伝に「倭と界を接す」と見える弁辰瀆盧国斉州島と見て、これを「海峡圏」に加えるとその性格がよく理解できるようです。

『魏志』倭人伝の「其北岸狗邪韓国」や『後漢書』倭伝の「其西北界狗邪韓国」の「其」の文字についてはこれを倭国のこととし、倭国が狗邪韓国を支配しているのだと解釈して、これを問題視する向きもあるようです。狗邪韓国は倭国の領土だと考えられているのですが、『日本書記』神功皇后紀の三韓征伐もこれを強調しているのでしょう。

倭人伝の「従郡至倭」の行程記事からは「海峡圏」の存在を考えることはできませんが、『後漢書』倭伝にみえる西北界は狗邪韓国が「海峡圏」の西北界であることを表しています。金海・釜山は「海峡圏」の東北界であって西北界ではありません。このことからも狗邪韓国が金海・釜山ではないことが分かります。

「倭国圏」には伊都国・奴国・不弥国や邪馬台国などがあり、その東方にも倭人の国があって、それを表す呼称に倭国・女王国・倭人・倭種・倭地がありますが、「倭国圏」は伊都国以後の国であり対馬国・一支国・末盧国は「海峡圏」になります。

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