2011年10月9日日曜日

大山津見神 その4

四国の中央構造線以南(土佐と仮称)では西からは広形銅矛が、東からはⅣ-2式以後の近畿式銅鐸が流入してきますが平形銅剣が見られません。銅矛・銅鐸が平形銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかで、九州の場合もそうですが中央構造線が弥生文化を南北に分断しています。

図の赤線が中央構造線ですが、私は中央構造線以北には朝鮮半島から渡来してきた渡来民の子孫の、いわゆる「渡来系弥生人」が居り、中央構造線以南には「縄文系弥生人」が居たと考えるのがよいと思っています。

南九州の熊襲・隼人の文化も縄文系弥生人のものだと考えています。柳田國男は東南アジア・江南の文化が沖縄・西南諸島を経由する「海上の道」によって伝播してきたとしていますが、そこには沖縄・南西諸島の「ニライカナイ」に見られるような「海と山」の文化があります。

中央構造線以北の「渡来系弥生人」の文化は華北・朝鮮半島の影響が強く、文化に相違が生じる中央構造線付近でオオヤマツミの伝承が生まれるように思われます。九州の場合、中央構造線以南は肥後の南半分と日向になります。

そこは「日向神話」の世界で、薩摩半島の加世田市周辺にオオヤマツミ・コノハナノサクヤヒメの伝承があり海幸彦・山幸彦の伝承があります。海幸彦の行く「綿津見の宮」には海の彼方に人間界とは隔絶された「異界」が存在するという、縄文系弥生人の「海と山」の文化が感じられます。

紀伊半島にはオオヤマツミの伝承はありませんが、熊野灘沿岸に縄文系弥生人の「海と山」の文化を思わせるものが見られます。「熊野信仰」は縄文系弥生人の海の彼方の「異界」と、仏教の「西方浄土」の思想が融合したもので、大和が政治の中心になっったことで生まれるのでしょう。

四国の中央構造線以南にオオヤマツミの伝承はありませんが、黒潮の分流は瀬戸内海に流入していて、そこにはオオヤマツミを祭る愛媛県今治市大三島の大山祇神社があります。弥生時代に広形銅矛やⅣ-2式以後の銅鐸が流入したことで、オオヤマツミの伝承は瀬戸内沿岸に後退したと考えることができそうです。

後期終末から古墳時代初頭にかけて、北部九州(高天が原・女王国)による中央構造線以南の政治的統合が進むようです。2月に投稿した「宇佐説」では台与の即位以後、政治の中心が玄界灘沿岸から豊後灘・周防灘の周辺に移ると述べました。

また4月の「2人のヒコホホデミ」では、南九州(日向)を統合したのは2人のヒコホホデミの内の神武天皇であろうことを述べました。日向北部や豊後灘沿岸が統合の中心になったことが考えられ、四国西部の広形銅矛分布圏も、この時に神武天皇によって統合されたと考えます。

『日本書紀』第二の一書ではオオナムチ(大己貴)の出雲の国譲りに続いて、フツヌシ(経津主神)が岐神(ふなとのかみ)を郷導(くにのみちびき、案内役)として、オオモノヌシ(大物主)とコトシロヌシ(事代主)を帰順させます。

『古事記』で国譲りをするのは大国主ですが、大己貴も大物主も大国主の別名と考えられています。しかしこの一書では大己貴と大物主が明確に区別されており、大己貴の出雲の国譲大物主の服属とは別の物語になっています。

第二の一書はオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に、出雲・筑紫・讃岐・阿波・紀伊・伊勢の忌部が定められたとしています。この忌部は祭祀氏族の忌部首氏とではなく物部氏と関係があるようです。

出雲・筑紫以外は三遠式銅鐸・Ⅳ-2式以後の近畿式銅鐸の分布圏であり、讃岐は平形銅剣の分布圏です。ここには中央構造線以南の「土佐」が出てきません。

西側の広形銅矛分布圏は250年代に神武天皇によって統合されますが、東側の銅鐸分布圏は第二の一書が述べるフツヌシ(経津主)によってオオモノヌシ・コトシロヌシが帰順した時に統合されるのでしょう。そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の東遷が始まると考えます。

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