佐賀県東松浦半島が末盧国でありその距離は一万里になるが、帯方郡から末盧国までの方位・距離には矛盾する点はないと考えられています。筑前怡土郡(現在の糸島市)が伊都国だが、その方位の南は東か東南の誤りだと考えられています。
そして奴国は福岡平野で、その方位の南もやはり東か東南の誤りだとされています。次の不弥国は宇美とする説や宗像とする説があって、これも方位に誤りがあるとされていて、ここで邪馬台国=畿内説と北部九州説が分かれます。
私もかつては対馬国が対馬であり一支国が壱岐であることは間違いないので、金海・釜山付近を狗邪韓国とする矛盾をさして重要とは思っていませんでした。しかし最近になって狗邪韓国が金海・釜山付近とされているために、邪馬台国の位置が分からなくなっていることに気が付きました。
これを無視することができないので検証してみます。まず帯方郡の位置ですが一般にソウル(京城)周辺とされています。那珂通世・白鳥庫吉・榎一雄らは黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡冶(郡役所)としています。
この説は1912年に近くの古墳群で「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が発見されたことから有力視されていますが、帯方太守が帯方郡の出身者とは限らず、その墓が必ずしも帯方郡内にあるとは限りません。
帯方郡は楽浪郡を分割して設置されましたが、楽浪郡冶(平城付近)と沙里院の距離は南50キロほどに過ぎず、これでは近すぎて分置された意味がないと言われており、また韓の広さの「方四千里」と整合しないとも言われています。
韓は黄海側の56ヶ国が馬韓を形成しており、これが後に百済になります。日本海側の12ヶ国が辰韓を形成ししており、これが新羅になります。対馬西水道側の12ヶ国が弁韓を形成しており、これが任那(伽耶)になります。この三韓の広さが「方四千里」ですが、四千里は260キロになります。
七千余里の起点と終点はどこかという点も問題になります。帯方郡冶がソウル付近なら、水行の起点は仁川(インチョン)と考えて問題はなさそうですが、通説の終点は金海(キムヘ)または釜山(プサン)だと考えられています。
『三国史記』地理志に「金海小京、古、金官国<一云伽落、一云伽耶>」とあり、金海は金官国とされています。金官国(語呂合わせですが金韓国?)と金海、および金官国の別名の伽耶・伽落と狗邪の音が似ていることから、狗邪韓国は金海・釜山付近ということになったのでしょう。また弁韓12ヶ国の中の弁辰狗邪国が金海・釜山の近くとされていることにも関係するのでしょう。
これは伊都国と糸島郡、奴国と那珂郡、不弥国と宇美の音が似ているのと共通しますが、この地名は『日本書記』神功皇后紀に見える応神天皇の誕生説話から生れたものです。伽耶・伽落と狗邪の音が似ているとしたのは神功皇后紀の編纂者で、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしているのでしょう。
倭人伝は帯方郡から狗邪韓国に到る七千余里について「暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里」としています。これは馬韓の海岸線に沿って南下し、さらに弁韓の海岸線に沿って東に方向を変えて狗邪韓国に到る距離が七千余里であることを表しています。
馬韓56ヶ国を通過する方向が南であり、弁韓12ヶ国の沿岸を通過する方向が東ですが、では馬韓56ヶ国の沿岸を南下する距離は何里になるでしょうか。韓の広さが「方四千里」であることを考慮して試算してみてください。
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