2011年10月16日日曜日

大山津見神 その5

出雲神話に触れてきましたが倭人伝には出雲に関係する記述が殆どないので、神話と青銅祭器だけで話を進めなければならず、取り留めのないものになりました。いずれにしても出雲神話の出雲は、単に律令制出雲国だけでなくその周辺の中国・四国地方と考えなければならないようです。

左図は9月18日の「その1」に掲載したものですが、青銅祭器の出土が見られないことから、黄色に塗り潰した地域が出雲神在祭の原形の「寄り合い評定」に参集した有力者の居る地域だと推定しました。

この図は別の意図があって作図したもので、前回には神話と出雲の関係を述べたために意図するところを述べることができませんでしたので追加します。

1984年に荒神谷遺跡で358本の銅剣が発見された時、島根大学の山本清氏は山陰道が8国・52郡・387郷であることから、1郡に平均7本を分与するために用意されたと考え、「山陰地方共同体」いう構想を提示されました。

土器の分布が示す山陰道が一つの生活圏の様相を示すことが考えられ、邪馬台国のような共同体が想定できるというものです。私はこの共同体を部族連盟国家だと考えますが、部族連盟国家は複数の部族が連合して国家を形成しているもので、その統治方法が出雲神在祭の原形になった「寄り合い評定」だと考えます。

そして山陰道8ヶ国のうちの但馬・丹波・丹後を除外して、安芸・備後・備中・備前の中国山地部と美作を加えるのがよいと考えます。つまり四隅突出型墳丘墓を墓制とし中細形銅剣C類を祭祀とする部族が、部族連盟国家を形成していたと考えるのです。

但馬・丹波・丹後は山陰の文化圏というよりも近畿地方の文化圏考えるのがよいと思います。山陰道・山陽道という行政区分は律令制以後のものであって、弥生時代の中国山地部は山陰の文化圏だったと考えなければならないようです。

後漢・魏・晋など中国の諸王朝は冊封体制を形成していましたが、その職約(義務)で異民族の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、あるいは「方六百里」に制限していました。これは今まで全く知られていなかったことです。

魏の一里は434メートルですから三百里は130キロになり、六百里は260キロになります。これを「稍」と言いますが、図の青色の方形が一辺六百里260キロ)の「稍」になっています。

韓伝は韓の広さを「方四千里」としていますが千里は65キロになります。山陽新幹線(新大阪~新下関)の営業キロ数は455キロだということですが、千里=65キロとすると、それは倭人伝に見える帯方郡から狗邪韓国までと同じ七千里になります。

帯方郡から倭国までの距離は万二千里とされていますが、畿内大和までは二万二千里になりそうで、邪馬台国=畿内説が成立する余地はまったくありません。中国・四国地方についても山陰説・吉備説・阿波説がありますが、これらの説も成立することは有りえません。

南九州説も同様であり、成立するのは図で筑紫としている北部九州のみということになりますが、図は倭人伝の地理記事と神話圏を対比させたものでもあります。図で筑紫としている「稍」が女王国であり「筑紫神話圏」になります。筑紫神話圏には肥後の北半や壱岐・対馬が含まれています。

中国・四国地方の「稍」が「出雲神話圏」になりますが、それは中国山地を含む日本海側と瀬戸内、そして中央構造線以南の太平洋側に分かれるようです。中央構造線以南の四国を「出雲神話圏」に含めてよいのか疑問ですが、少なくとも瀬戸内を含むと見てよいと思っています。

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