2011年11月6日日曜日

再考 従郡至倭の行程 その3


倭人伝の記事の多くは正始8年(247)に黄幢・詔書を届けに来た、帯方郡使の張政の見聞記録でしょう。その見聞記録では倭人伝の地理記事は「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたと思います。

「倭国圏」を表す呼称には倭人・倭国・倭種・倭地・女王国などがありますが、倭人は今日で言う日本人と思えばよいでしょう。その日本人の国が日本国ですが倭国は日本国に相当し、これは外交関係に用いられる呼称のようです。

女王国は女王が支配している国ということですが、中国が冊封体制によって日本国として認めているのは首都(東京)のある関東地方だけで、北海道・九州地方は日本国として認めていないのだと思えばよいようです。

そこで関東地方の日本人と同じ日本人が北海道・九州地方にも居るという意味で、北海道や九州が倭地とされ、そこに住む人々が倭種とされていると思えばよいでしょう。この譬えの関東地方が女王国であり、女王国は北部九州にありました。

卑弥呼・台与は邪馬台国の女王だという人もいますが、この譬えで言えば卑弥呼・台与は東京都知事だと言っているようなものです。ここで仮定している「倭国圏」とは今日で言う日本人の居る圏内を言います。

正始8年の張政の見聞記録では「暦韓国圏」「海峡圏」「倭国圏」の3圏に分けて考えられていたものを、『三国志』の編纂者の陳寿が「暦韓国圏」と「海峡圏」を「従郡至倭」の行程に変えたのでしょう。

「倭国圏」は「従郡至倭」の行程には含まれないようです。伊都国以後が「倭国圏」であり、それには対馬国・一支国・末盧国を含まず、この3国は狗邪韓国と共に「海峡圏」になります。しかし「海峡圏」の存在が考えられていないので、通説ではこの3国も「倭国圏」の国のように思われています。

「従郡至倭」の行程に「倭国圏」は含まれていないのであれば、伊都国以後の国々の距離も万二千余里には含まれないことになり、倭人伝の地理記事に対する考え方を根本的に変えなければならなくなります。

金海・釜山が狗邪韓国とされ、対馬国への渡海地点とされていますが、検討してきたように千里=65キロであればインチョンから金海・釜山までは一万里になるでしょう。そうであれば対馬の厳原までは万二千里になり、壱岐(一支国)は万三千里になってしまいます。狗邪韓国は金海・釜山ではないのです。

狗邪韓国は後に任那、あるいは伽耶と呼ばれるようになる、韓伝の弁韓と同じもので、七千余里の終点は全羅南道の巨文島付近だと考えます。また韓伝に見える弁辰狗邪国は慶尚南道の馬山・巨済島付近だと考えます

狗邪韓国と末盧国の間は三千里だとされていますが、インチョンから巨済島までは九千里になり、インチョンから巨済島・対馬を経由して東松浦半島(末盧国)までは万二千余里になります。

これは末盧国の海岸が万二千里の終点であり、「従郡至倭」の行程の終点だということです。それは「倭国圏」の始まりが末盧国の海岸であることを意味しています。

対馬国への渡海コースは金海・釜山からではなく、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が最も狭隘な巨済島と対馬の浅茅湾の間だと考えます。金海・釜山まで行くと三千里ほどの遠回りになりますが、帯方郡使の張政に金海・釜山まで行く必要があったでしょうか。

渡海地点の巨済島は鎌倉時代の元寇・応永の外寇では朝鮮半島から九州に向かう元軍の結集地になりました。元軍に3千里も遠回りして金海・釜山で結集する必要がないのと同じで、張政にも金海・釜山まで行く必要はありません。

南北朝後半から室町前半の倭寇が巨済島を侵犯したことも知られています。また豊臣秀吉の文禄・慶長の役ではこの島を日本軍が足掛かりとし、今も倭城の遺跡が残るなど日本と深い関係があります。

金海・釜山から対馬に渡ると朝鮮海峡の東流する強い潮流に流されて日本海を漂流する危険性がありますが、巨済島からだと潮流に流されても対馬に着ことができます。巨済島が渡海地点になったのはこうした点も考慮されているのでしょう。

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