2011年1月30日日曜日

台与の後の王 その2

倭人伝の記事は台与が掖邪狗ら20人を魏に遣わした時点で終わっていますが、これは帯方郡使の張政の送還を兼ねたものでした。留学生などならいざ知らず郡使には任務を果たすと復命する義務がありますから、張政が266年まで倭国に居たとは考えられません。

掖邪狗らが魏に遣わされたのは247年か翌248年で、帰国したのは248年か翌249年でしょう。ところが掖邪狗らが魏都の洛陽に居たかも知れない249年(正始10年)に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。

以後の魏の皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬懿の子の司馬昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年~265年の7年間でしたが、260年に皇帝の高貴郷公は下臣に「司馬昭之心、路人皆知」と言って、逆クーデターを決行します。

高貴郷公は殺され司馬昭は元帝を擁立しますが、その翌年に韓と濊貊が遣使しています。司馬昭の演出した元帝の即位を祝う遣使だったのでしょう。この時倭人が遣使したという記録はありませんが、倭人も元帝の即位を知っていたことが考えられます。

『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった7年間に、何度かの倭人の遣使があったとしていますが、卑弥呼の例からみて遣使は3度か4度だったでしょう。その3・4度の遣使のうちに、元帝の即位を祝う遣使があったことが考えられます。

通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、司馬昭の時代に何度かの倭人の遣使があったのであれば、司馬昭が相国だった時かそれ以前に台与と、台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けている可能性があります。

2世紀末の倭国大乱は後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなったことに原因がありますが、司馬昭が相国だったのは魏が滅びる265年までの7年間でした。司馬昭は表面では元帝を皇帝として立てていましたが冊封体制は機能しなくなっていたでしょう。

司馬懿のクーデター決行以後、魏から「親魏倭王」に冊封された台与の権威が失墜し統治が不安定になるようです。文献にはありませんが、これを打開するために司馬昭の兄の司馬師の時にも倭人の遣使があったことを考える必要があるように思います。

249年(正始10年)以後、台与の王権は次第に弱体化し、男王を立てて倭国を統一する動きが出てくるようですが、このような動きが出てくるのは単に冊封体制が機能しなくなっただけでなく、倭国内の事情もあったようです。

それは女王を共立しなければならなかった倭国内の対立が消滅したことが原因になっているようです。私は2世紀末の倭国大乱も卑弥呼の死後に起きた千余人が殺される争乱も、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立だったと考えています。

倭国大乱を境にして銅矛・銅戈は中広形から広形に変わっていくようですが、後期前半の中広形の段階では銅矛・銅戈は同数か、むしろ銅戈のほうが多いように見えます。ところが後半の広形になると銅矛は増加し、逆に銅戈は3本ほどに激減しています。

倭国大乱で面土国王は卑弥呼を共立し、倭国王位を譲り渡します。このために銅戈を配布した部族は劣勢になり銅矛を配布した部族が優勢になるようです。しかし劣勢にはなったものの広形銅戈は配布されており、銅戈を配布した部族が消滅したわけではありません。

卑弥呼が死ぬと銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になり台与が共立されるようです。即位した台与は掖邪狗ら20人を魏に遣わしますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたでしょう。

掖邪狗らが魏から帰国すると、卑弥呼死後の争乱の当事者が「親魏倭王・台与」の名のもとに処罰され、面土国王は滅ぼされ銅戈を配布した部族が消滅するようです。このことは以前の投稿でも述べましたが、これがスサノオの追放の神話になっています。

面土国王が滅ぼされたことは倭国大乱で卑弥呼を共立し、また卑弥呼死後の争乱で台与を共立した一方の当事者がいなくなったということであり、女王の存在する理由がなくなったということです。こうして台与を退位させ男王を立てようとする動きが出てくるようです。

しかし台与を退位させることに反対する者があり、その妥協策として台与と男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けるようで、名目上の王の台与と実質上の男王という「二人の王」がいた時期があったと考えます。反対したのは物部の一支族だったと考えていますが、台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねない状況だったのでしょう。

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