2011年1月16日日曜日

宇佐説 その4

「高天が原神話」は出雲や日向の神話と対比されて「筑紫神話」とも呼ばれますが、その舞台は筑紫だと考えてよさそうです。そうであれば筑紫に高天が原で活動する神を祭る神社があってもよさそうなものですが、それが多くありません。

天照大神は伊勢で祭られ、宗像大社で祭られていても良さそうなスサノオは出雲や紀伊で祭られ、イザナギ・イザナミも淡路・出雲・紀伊・近江で祭られ、これらの神の子神だけが取り残されたように筑前で祭られています。

筑紫にあった政治の中心が大和に移ると、主要な神は九州から大和とその周辺に移動しますが、さらに各地で応神天皇・神功皇后が祀られるようになったことで、九州の神社の祭神が変わるのでしょう。宇佐氏・辛島氏の祀る大日靈・豐比賣は比賣大神になり、宗像氏・大神氏が祭っていたのはスサノオだったが宗像三女神になると考えます。

神功皇后紀の編纂者は天照大神を中心とする九州勢力の歴史観に異質なものを感じているようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っていて、その上で卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせて天照大神の痕跡を消そうとしています。

神功皇后紀の編纂者は初期の大和朝廷、いわゆる葛城王朝が卑弥呼・台与の王統を継承している称したのに対して、政治の中心は九州から畿内に移って大和朝廷は確立しており、卑弥呼・台与の王統を継承していると称する必要はないと言いたいようです。このことは次のような点からも考えられます。

1、2世紀の面土国は筑前宗像郡
2、3世紀の伊都国・奴国は玄界灘沿岸ではなく遠賀川流域
3、草野津・宇佐は玄界灘ではなく周防灘に面している

57年に遣使した奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡であり、107年に遣使した面土国は宗像郡だと考えていますが、1世紀中葉から2世紀の時点で、中心は玄界灘沿岸から筑前東部の遠賀川流域に移っているようです

さらに3世紀前半の卑弥呼の王城は玄界灘沿岸を離れて内陸の朝倉郡に移ると考えています。倭国大乱で共立された卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、玄界灘沿岸を避けたことも考えられますが、朝倉郡が筑前、筑後、豊前・豊後の地理上の中心になることが考慮されているのでしょう。

3世紀中葉の台与の時代には、文化の中心が玄界灘沿岸や筑前東部の遠賀川流域から周防灘沿岸に移り、宇佐や長峡川々口の草野津が重視されるようになると考えます。

図は後期後半の土器の分布圏ですが、九州説では高三潴式が邪馬台国の土器になり、畿内説だと唐古Ⅴ式が邪馬台国の土器ということになりそうです。

肥後と肥前の長崎県部分の土器が狗奴国の土器であり、薩摩・大隅の土器が侏儒国の土器ですが、これらは土着性の強い土器です。それに対し豊前・豊後・日向に分布する安国寺式は畿内や瀬戸内の土器の影響を受けている言われています。

これは地理的な条件から九州西部が畿内や瀬戸内と交流を持つことができなかったということで、女王国が畿内や瀬戸内との交流の拠点としたのが安国寺式土器分布圏の宇佐であり、また長峡川河口の草野津であったと考えます。

瀬戸内海の航路を考えると高三潴式と唐古Ⅴ式の中間の土器が安国寺式ということになります。物的根拠が少ないのが難点ですが、台与の時代から3世紀後半に弥生時代が終わるまで、文化の中心は安国寺式土器の分布圏だったと考えます。

四国西部に広形銅矛の見られることはよく知られていますが、安国寺式土器の分布圏が中心になったことで、山陰の青木Ⅱ式や吉備の上東式の分布圏との接触も始まのでしょう。神武天皇の東遷の出発点が日向の美々津とされ、途中、宇佐に立ち寄るとされていのも無関係ではないようです。

この時期の記憶が『豊前国風土記』の京都郡の郡名の由来や、宇佐神宮の比賣大神に残って、京都郡や宇佐郡を邪馬台国とする説が生まれたのであり、このことが認識されていないために、玄界灘沿岸と大和との文化の関連性が不明瞭になるようです。

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