2011年1月23日日曜日

台与の後の王 その1

2世紀末の倭国大乱の結果卑弥呼が共立されますが、畿内説では卑弥呼が即位したころ、あるいはそれ以前に畿内と北部九州が統合されていたことになります。一方の九州説だと神武天皇の東遷のような、九州勢力の畿内への移動を考える必要があります。

中国の諸王朝は異民族の強大な国が出現して敵対することを警戒して、その有力者に中国の官職を与えて懐柔する一方で、その支配領域を六百里四方(260キロ四方)に制限して分断を図りました。西島定生氏はこのような関係を「冊封体制」と言っています。

六百里四方に制限されていたというのは私の考えで、西島氏がそのように言われたのではありませんが、こう考えると東夷伝の地理記事が容易に理解できるようになります。六百里四方を「稍」と言い、「稍」には「王城を去ること三百里」という意味もあります。

韓伝・倭人伝以外の諸伝は六百里四方を「方二千里」としていますが、この場合の千里は130キロになります。倭人伝には「稍」の存在を思わせる記述はありませんが、韓伝・倭人伝の六百里四方は「方四千里」とされていて、この場合の千里は65キロになります。

卑弥呼も239年に魏から「親魏倭王」に冊封されますが、その支配領域は方六百里(260キロ四方)に制限されていました。そうであれば邪馬台国が畿内(大和)にあっても北部九州を支配することはできず、逆に邪馬台国が北部九州(筑紫)にあっても畿内を支配することはできません。

それどころか出雲や吉備(出雲)も支配できません。「稍」を認めると倭国大乱以前に畿内と北部九州が統合されていたとする畿内説は成立せず、それは倭人伝の記述の終わる正始8年(247)以後畿内と北部九州が統合されたことになります

247年以後に九州勢力の畿内への進出があったのか、逆に畿内勢力が北部九州を統合したかが問題になります。確かに三角縁神獣鏡や初期古墳の年代は247年以後でしょうが、畿内説では統合されたのは247年よりも以前になりますから、247年以後に畿内が九州を統合したとするには別の説明が必要です。

『古事記』『日本書記』の記述するところでは、九州勢力が畿内への進出したことになり、その前段階で出雲・吉備が統合され、四国が統合されたことになります。前回投稿の『宇佐説・その4』では、247年以後には安国寺式土器分布圏の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったと述べましたが、今回は「その後」を述べてみたいと思います。

『日本書記』神功皇后紀は『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされていますが、『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける

「竝」には同列に並べるという意味があり、この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられています。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃のことを言っていると考えることもできそうですが、年代差があまりにも大き過ぎます。『晋書』武帝紀に次の文が見えます。

其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。   

其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す

文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるがその後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使したというのです。

265年に晋の武帝が即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使していますが、これが「泰始初、遣使重譯入貢」です。『晋書』武帝紀によると台与の即位した247年から266年までの間に何度かの倭人の遣使があったことになります。

台与の後の男王の末裔が「倭の五王」の讃だと考えることもできそうですが、これでは266年の遣使が説明できません。『晋書』武帝紀の記事では266年よりも以前に、台与の後の男王が中国の爵命を受けるために遣使したとすることが可能になってきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿