2011年1月9日日曜日

宇佐説 その3

国名のみの21ヶ国の最後の奴国は豊後直入郡だと考えていますが、その直入郡の郡境の祖母山には大神氏の始祖伝承があり、また大野川流域には大神氏の伝承が幾つもあります。そして『後漢書』には次の文があります。

建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり

この奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻、穂波の3郡だと考えます。また「倭國の極南界なり」と倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じで、「倭國の極南界」とは倭人伝の国名のみの21ヶ国の最後の奴国のことだと考えています。

その極南界の奴国が豊後直入郡であり、大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようです。豊後の大神氏については大和の大神氏の分流という説もありますが、1世紀には大野川流域の大野郡・直入郡を勢力基盤にしていました。国名が同じであることから見ても、遠賀川流域の奴国王と密接な関係にあることが推察されます。

前回述べたように宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖のようで、筑前の宗像氏とも同族関係にあったようです。宗像氏の遠祖が面土国王ですが、面土国王は「自女王国以北」の面土国・奴国・不弥国を「州刺史の如く」支配していました。

面土国王は卑弥呼と対立するような関係にあったようですが、大神氏は面土国や奴国と連携しつつ豊前に勢力を伸張し、宇佐氏の大日靈(おおひるめ)、辛島氏の豐比賣(豐比咩)に対抗して、宇佐神宮に宗像3女神の信仰を持ち込むと考えます。

九州は南北に長く中央に山塊がありますが、その山塊を源流とする河川流域が東西の交通路になっています。そのうちでも豊後の筑後川・大分川流域と大野川流域、及び豊前の長峡川流域の道が重視され、律令時代には大宰府を中心とする官道として整備されています。

大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て、長峡川河口の草野津(かやのつ)に到るのが「田河路」で、そこには奴国と伊都国がありましたが、卑弥呼・台与は伊都国(田川郡)に一大率を配置して長峡川河口の草野津を確保し、豊前北部の辛島氏を支配していたでしょう。

大宰府から筑後川・大分川沿いに豊後灘に到るのが「豊後路」で、大野川沿いに豊後と肥後を結ぶのが「豊後・肥後路」ですが、豊後・肥後路沿いは大神氏の勢力基盤です。銅矛・銅戈の分布から見て、豊後路沿いの地域には大神氏の支配は及んでいなかったようです。

律令制官道ではありませんが、豐築国境に英彦山を主峰とする山塊があるという地理的条件から、日田郡で豊後路から分岐して周防灘に到る山国川沿いの道と、玖珠郡で分岐して周防灘に到る駅館川沿いの道があって、周防灘と筑後川流域を結び付けています。
 
駅館川沿いの道は宇佐氏の勢力圏ですが、ここが豊前と豊後の境になります。卑弥呼・台与は豊前・豊後を宇佐氏に統治させ、大神氏の勢力が豊後路に及ぶのを阻止させたと考えます。それは周防灘を支配下に置いて吉備や大和との海路を確保するということでもあるようです。

倭人伝には記述がありませんが、宇佐には田河路における伊都国(田川郡)のような役割があり、宇佐氏は一大率のような立場にあったのでしょう。それに対し大神氏は「自女王国以北」の面土国王や奴国王と連携して、豊後を「刺史の如く」支配していた考えます。

宇佐と卑弥呼・台与には関係がありそうですが、邪馬台国とする積極的な根拠は見えません。宇佐は豊後北部を勢力圏とする辛島氏、豊前南部を勢力圏とする土着の宇佐氏、そして豊後の大神氏という3勢力の抗争の地だったでしょう。

朝廷が宇佐神宮に遣わす勅使を「宇佐使い」と言い、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件のように、かつては伊勢神宮よりも重視されていました。伊勢神宮の祭祀が確立する以前の天照大神は宇佐で祭られていたのでしょう。

天照大神が伊勢で祭られるようになって、宇佐氏の祀る大日靈(天照大神、卑弥呼)は伊勢神宮内宮の天照大神になり、辛島氏の祀る豐比賣(豐比咩、台与)は外宮の豊受大神になると考えると面白いと思います。

その理由はよくわかりませんが、宇佐に神功皇后が祭られるようになったことで、大日靈と豐比賣は合成されて比賣大神になり、大神氏が祭っていたのは、元来はスサノオだったが宗像三女神になると考えます。

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