2011年2月6日日曜日

台与の後の王 その3

白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で、天照大神が天の岩戸に籠るのは卑弥呼の死と台与の共立を表しているとしていますが、その原因はスサノオの乱暴・狼藉だとされていて、スサノオについては狗奴国の男王の卑弥弓呼だとしています。

スサノオのスサ(須佐・素戔)とは107年に遣使した面土国王の帥升のことですが、ここで言うスサノオはその140年後の子孫(帥升の緒)です。卑弥弓呼は『日本書記』の保食神、『古事記』の大宜津比売だと考えています。保食神はツキヨミに、また大宜津比売はスサノオに斬殺されますが、これは狗奴国が平定されたということです。

スサノオは高天が原から追放されることになっていますが、このスサノオは銅戈を配布した部族が神格化されたものであると同時に、その部族によって擁立された面土国王でもあります。卑弥呼死後の争乱の事後処理、言わば軍事裁判が行われたというのです。

是に八百万の神、共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦、鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。

千位の置戸(ちくらのおきと)とは、賠償の品を乗せる多くの台ということで、賠償を課せられた者や鬚を切り手足の爪を抜くという体刑を受けた者があり、追放された者もいたというのです。これは台与共立の一方の当事者だった面土国王が失脚し、これを擁立した銅戈を配布した部族が消滅したということのようです。

事の性質からみてそれは争乱からごく近く、まだ争乱の余韻の残っているころのことでしょう。前回に述べたように魏に遣わした掖邪狗らが帰国したと推定される249年に近いころで、少なくとも250年代だと考えるのがよさそうです。

追放されたスサノオは出雲に降りヤマタノオロチを退治することになっていますが、オロチ退治の神話には倭国大乱が中国地方に波及したことが語られていて、高天が原から追放される須佐之男とオロチを退治するスサノオは別個のものです。

266年の倭人の遣使以前に面土国王が失脚して女王制は有名無実になっており、『梁書』『北史』にみえるように、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けていることが考えられます。スサノオを面土国王とし、天の岩戸から出てきた天照大神を台与とすると、男王はホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)になります。

『翰苑』にも台与の後の男王の存在を思わせる文があり、この文では413年に遣使した「倭の五王」の讃のように思える記述になっていますが、神話と関連させて考えると男王はホノニニギでなければいけません。『日本書紀』本文は次ぎのように記しています。

そこで皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の主にしようと思われた。しかしその国には、蛍火のように光る多くの神、及びうるさい蠅のような邪まな神がいた。また草木のような名のないものまでが言い合っていた。

ホノニニギは天照大神の孫とされていますが、高天が原の主ではなく葦原中国の主にしようとされています。高天が原は女王の王都のある邪馬台国、あるいは女王国のことですが、それに対し葦原中国は出雲や大和を含めたすべての倭人の国を言います。

卑弥呼・台与を共立した当事者である面土国王は失脚しています。また卑弥呼・台与を「親魏倭王」に冊封した魏も滅亡寸前で冊封体制は機能していなかったことが考えられます。

弥生時代には部族が稍(230キロ四方)を支配する王を擁立しましたが、中国の冊封体制から離脱して部族を解体し、女王制から「氏姓制」に変えようということで、大和朝廷が成立しようとしているのです。

しかし台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねなかったようで、台与の退位、男王の即位に反対する者がいました。『日本書紀』第二の一書は本文とは少し違う伝承を記しています。

 一書に言う。天神は經津主神、武甕槌神を遣わして、葦原中国を平定させた。時に二神は「天に悪い神が居て名を天津甕星と言う。またの名は天香香背男。まずこの神を誅殺して、その後に下って葦原中国を平定したい」と言う。

本文のいう「蛍火の光く神、及び蠅聲す(さばえなす)邪しき神」が、天津甕星、またの名は天香香背男だというのです。そしてホノニニギ(台与の後の王)はフツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになります。

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