2010年5月12日水曜日

倭人伝と稍 その2

倭人の王も支配領域を六百里(260キロ)四方に制限されていたようですが、それを証明しているのが青銅祭器の分布だと考えています。青銅祭器の性格については様々な説がありますが、私は部族が同族関係の生じた宗族に配布した考えています。

部族についてもこれまた確かな説がありませんが、高句麗伝・夫余伝には存在していることが述べられていますから、倭人社会にも存在したと考えてよさそうです。

大和朝廷が成立すると部族は消滅し、氏姓制社会に変わっていくようです。同時に部族の配布した青銅祭器は存在理由を失い、回収され埋納されると思われます。

図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものですが、上の図には中細形の分布が示されており、中の図には中細形C類~中広形の分布が示され、下の図には広形の分布が示されています。

上の図で銅利器と銅鐸の分布が交わる地域とされている中国・四国地方に、中の図では銅剣が分布していることが示され、下の図では青銅祭器が姿を消しています。

中細形・中広形の段階で中国・四国地方にこれだけ多数の青銅祭器が配布されながら、それが広形になると全く見られなくなるのは、銅剣分布圏に、共通する意思を持って行動する集団が存在しているということでしょう。

このことは北部九州の銅矛・銅戈や近畿の銅鐸についても同じだと考えてよいようで、私はそれを倭人社会にも稍が存在し、部族が稍を支配する王を擁立したのだと考えています。

下図は青銅祭器の分布から想定した稍ですが、青銅祭器の分布図と比較してみてください。図の円の直径は280キロほどになりますが、六百里(260キロ)と言ってよい大きさになっています。

北部九州の稍は銅矛・銅戈の分布圏であり、これを広い意味で「筑紫」と言うようです。中国・四国の稍は銅剣の分布圏であり、これが広い意味での「出雲」のようです。近畿を中心にした稍は銅鐸の分布圏ですが、固有の呼び方はありません。

図には示していませんが北陸地方の越や南九州の日向も稍を形成していたことが考えられます。また関東地方では青銅祭器の代りに「有角石斧」を祭器にしていたといわれていますから、関東地方にも稍が存在したことを考えなければならないようです。

北部九州の稍を設定するについては、銅矛の多い対馬と青銅祭器の分布する豊後・肥後北半を南北の限界にしています。中国・四国の稍については土佐の銅剣を南限とし、淡路の銅剣を東限にしています。

近畿を中心にした稍では西半に近畿式、東半に三遠式銅鐸が分布しています。これは偶然の一致ではなく、青銅祭器の配布に部族間の政治的な力が働いており、それが冊封体制に連動しているからでしょう。

冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に使節を送り、貢物を献上するのを妨害してはならなというものがあります。紀元前150年ころ衛氏朝鮮は辰国・真番(黄海道)を支配下に置き、漢に入貢しようとするのを妨害するようになりますが、武帝はこの職約を口実にして、衛氏朝鮮を滅ぼしています。

冊封体制は冊封を受けた国だけでなく、自動的に周辺の国にも及ぶようになっていました。冊封を受けたのは北部九州の銅矛・銅戈の分布圏の国ですが、隣の銅剣・銅鐸の分布圏にも自動的に及ぶようになっていたのです。青銅祭器の分布には冊封体制の変遷が如実に示されています。

1世紀の中細形は奴国王が後漢から「漢委奴国王」に冊封されたころの部族の状態を示しています。2世紀の中広形は面土国王が後漢から「倭国王」に冊封されたころの部族の状態を示しており、3世紀の広形は卑弥呼・台与が魏から「親魏倭王」冊封されたころの状態を示しています。

それが銅鐸の分布圏にも影響していることは明らかです。青銅祭器を配布した部族は稍を支配する王を擁立しましたが、その王は冊封体制によって支配地を六百里四方に制限されました。そのために稍によって分布する青銅祭器が違ってくるようです。

1 件のコメント:

  1. 唐の占領軍隊の駐留場所は大宰府?だったのでしょうか。何かそれに絡んで言葉地名などが残っていないでしょうか? 唐に絡むもの、唐の政治言葉・・・。一説では2000人程度の駐留だったとの説もあり。九州倭王朝が負けて勢力を衰えていった時期、九州では占領されてどのような扱いを受けていたのでしょうか?

    一つの調査参考資料です。
    九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
     こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
     この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れています

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