図の赤線が臼杵―八代構造線ですが、肥後の文化は構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられており、狗古智卑狗が支配していたのは構造線以北の菊池川流域だったと考えられます。
既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から國覓魏(くにまぎ)行去り(とほり)て、吾田の笠狹碕に到ります。
高千穂峯に降臨された皇孫が進まれる様相 は、神聖な二つの山から降り、浮島が在り、平らな処に立ち、痩せた宍(猪)の背骨のように荒れ果てた国の丘の続く中を、国を求めて通り、吾田の笠狹碕に到られた
これは『日本書記』本文の記述ですが、ホノニニギは日向の高千穂峯に降臨することになっています。高千穂峯については宮崎県西臼杵郡の高千穂とする説と霧島山系の高千穂峰とする説があります。このことについては2011年4月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べています。
霧島山系の高千穂峰とする説のホノニニギの伝承は日向の大淀川流域や薩摩北部の川内川流域にあって、川内市宮内の神亀山はその5分1が新田神社の境内で、5分4がホノニニギの可愛山陵に指定されています。
「吾田の笠狹碕」は薩摩南部の野間岬のこととされていて薩摩南部の加世田市周辺にもホノニニギやオオヤマツミ(大山津見)・カシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売など)の伝承があり、天孫降臨神話そのものの舞台は霧島山系の高千穂峰とするのがよいようです。
神話は『古事記』と『日本書記』で語り伝えた氏族が違うように思われます。『古事記』の天孫降臨は天児屋命・布刀玉命・天宇受売・伊斯許理度売・玉祖命の子孫とされている、中臣連・忌部首・猿女君・作鏡連・玉祖連などが語り伝えたもののようで、ことに猿女君の支族の稗田氏の伝承が中心になっているようです。
それに対し『日本書記』の神話は薩摩の薩摩君・吾田君や日向の諸県君、あるいは大隅の加治木県主・曾県主・大隅直などの土着氏族の伝承が加えられているようです。引用した『日本書記』本文は薩摩の薩摩君・日向の諸県主・大隅の加治木県主などが語り伝えたものだと思われますが、私は球磨川流域の熊(球磨)県主も天孫降臨の伝承を持っていたと考えています。
『古事記』の神話は高千穂峯に降臨したことで終わってしまいますが、『日本書記』の場合には土着氏族が伝えたものなので、本文では降臨した後のことも述べられています。引用した本文の「槵日の二上の天浮橋」は霧島連山や高千穂峰から降っていくことを表わしていると見ることができそうです。
「浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして」の文は海岸の情景が述べられているようですが、桜島の見える鹿児島湾岸のことを述べていることになりそうです。「槵日の二上」は二つの峯を表わし、霧島連山を源とし南流して鹿児島湾(錦江湾)に注ぐ新川沿いに降ることであり、鹿児島湾岸から薩摩半島を横断して吾田の笠狹碕に到るのだと見ることができます。
私は天孫降臨の神話について、土着の氏族ではなく天孫降臨には第三者的な立場の、稗田氏が伝えた『古事記』の視点で考えるのがよいと思っています。その場合には狗古智卑狗が殺された後に、肥前の長崎県部分や天草諸島が統合され、統合はさらに臼杵―八代構造線以南に及んでいくと見るのがよいと思っています。
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