2010年2月21日日曜日

神世七代 その2

紀元前108年、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡を設置しますが、前82年に真番・臨屯は廃止され玄菟も西に後退します。ただ楽浪郡だけは廃止された真番・臨屯の一部を吸収して大きくなり、朝鮮半島経営の拠点になります。

私は中期前半を紀元前90年~紀元ころ、つまり紀元前一世紀と考えています。楽浪郡が東夷諸国の交渉の窓口になった、いわゆる大楽浪郡時代に並行する時期です。このころ倭人の百余国が遣使したようです。

前74年に即位した宣帝は武帝死後の混乱した前漢王朝を安定させます。宣帝とその子の元帝の時代には匈奴との関係も良好で、前漢時代で最も平穏な時代でした。百余国が遣使したのは宣帝・元帝の時代だと考えています。

紀元前一世紀の北部九州には「百余国体制」とでも言うべきものが存在していたことが考えられます。百余国については他に資料がないので推察になりますが、女王に属している30ヶ国と、その周辺の六百里(260キロ)四方だと考えています。

冊封体制では王の支配できる領域は六百里四方に制限されましたから、九州の北半と中国・四国の西側くらいになると思います。その内の筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の一部の70国ほどが統合されて、後の女王国になる考えます。

紀元前180年ころの箕氏朝鮮の滅亡や108年の衛氏朝鮮の滅亡で、玄界灘・響灘沿岸に渡来人の流入があったようです。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ研究者もいますが、百余国体制はそうした渡来系弥生人を中心にして形成された思います。

百余国の中心になったのは細形の青銅武器が多く分布している対馬や唐津平野・糸島平野・福岡平野など玄界灘沿岸のように思われますが、細形の青銅器は山口県の響灘沿岸にも見られ、宗像市田熊石畑遺跡では最多の15本が出土しました。もっと響灘沿岸に注意を向ける必要があるのではないかと思っています。

中国の氏族は宗族の集合体ですが、中国でも殷・周よりもはるか以前には部族が存在していたようです。中国の氏族は共通の姓と神話・伝説上の始祖を持ち、政治的結合体ですが、元来の倭人の部族は姓も始祖も持たず、文化的結合体であったと思われます

武帝以後、中国の冊封体制に組み込まれた倭人の部族も政治的な側面を持つようになり、中国の氏族のような性格を持つようになりますが、それと共に神話・伝説上の始祖が必要になり、それが「神世七代」の神話になっていると考えます。

神話の冒頭に「別天つ神」として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇摩志阿斯可訶備比古遅神・天之常立神の五柱の神が出てきます。これらの神は高天が原に居る神とされ、神世七代の神とは別系統の神です。

ことに高御産巣日神は「天の岩戸」以後、高天が原の最高司令神として活動しますが、前述のようにこの神は倭人伝の大倭であり、元来の邪馬台国の王です。大倭と卑弥呼・台与がどのような関係にあったかについても先に述べているので参考にしてください。

それに続いて国之常立神・豊雲野神からイザナミ・イザナギに至る、神世七代の神が登場してきます。これらの神は高天が原にいる神ではありません。「神世七代」の神話には百余国のことが語られているようです。

その系譜はイザナギ・イザナミにつながっていますから銅矛・銅剣を配布した部族と関係があるのでしょう。国之常立神・豊雲野神について『古事記』は「独り神として成りまして」とし、『日本書記』の一書は「純男」だと記しています。

その他の神が男女のペアになっているのに対し、この2神だけは単独だというのです。紀元8年に前漢が滅び、25年に後漢が興りますが、私はこの時期を中期後半1期と考えています。この中期後半1期がイザナギ・イザナミの神話の始まる時期であり、その5・6代前が始祖の国之常立神・豊雲野神とされていると考えます。それは百余国が遣使したであろう、宣帝・元帝の時代に当たるように思います。

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