紀元前一世紀に存在したことの考えられる百余国体制は王莽の失政の影響を受けて崩壊しますが、後漢王朝が成立したことにより奴国王を中心とする「奴国体制」が出現するようです。これがイザナギ・イザナミ二神の島生み・国生みの神話になっているようです。
二神の島生みで生まれる島を見ると、玄界灘と瀬戸内海の島が中心になっており、そこには銅剣・銅矛が分布しています。この神話には玄界灘沿岸の銅矛を配布した部族と、瀬戸内海沿岸の銅剣を配布した部族の地理観が反映しているようです。
銅矛を配布した部族は北部九州を中心に中細形銅矛を配布しますが、イザナギが禊をして神を生んだという「小戸の阿波岐原」は、通説にもなっているように福岡平野や博多湾の周辺と考えてよいように思います。この地は那珂海人の住む場所ですが、私はこの地域を邪馬台国だと考えています。
それに対して中細形銅剣は遠賀川流域、豊後など北部九州の東部から、中国、四国地方にかけて分布しています。これがイザナミであり、銅剣を配布した部族を中心にして形成された国が遠賀川流域の奴国だと考えています。奴国がイザナミの住む「根之堅洲国」であり、スサノオが統治する「海原」 は面土国(宗像)だと考えています。
二神は淤能碁呂島に「八尋殿」と「天の御柱」を見立てて(存在しているように見なして)島を生みますが、古くから柱を神聖視する習慣があったようです。伊勢神宮では本殿中央の床下の柱が、また出雲大社でも中央の柱が神聖視され、共に「心の御柱」と呼ばれています。「天の御柱」を見立てるとは、淤能碁呂島が神聖視されていたということでしょう。
淤能碁呂島については瀬戸内海の家島とするもの、淡路の絵島、友ヶ島群島の沖ノ島とするもの、淡路島の南の沼島とするものなどがありますが、これはイザナギが淡路に葬られたとされていることから考えられたもので、私は博多湾頭の志賀島と見るのがよいと考えています。
いわゆる「地乗り航法」では、山や島が航路を決める目安になりますが、志賀島は玄界灘を航行する那珂・安曇・宗像・崗(遠賀)などの海人たち、とりわけ那珂・安曇海人の航路標識とも言うべきものであり、それだけに神聖視されていたのでしょう。
志賀島からは57年に奴国王に授与された金印が出土していますが、出土地点の沖合に能古島がありそこが玄界灘と博多湾の境のようになっています。志賀島を海人たちが神聖視していたがゆえに金印の埋納場所にもなったのだと考えます。
二神は最初に淤能碁呂島を造りますが、 「海の中道」が沼矛に見立てられており、矛の先から滴り落ちた塩の凝り固まったものが志賀島で、これが淤能碁呂島だと考えられているようです。島ができるとイザナギは左から、イザナミは右から回りますが、これは志賀島周辺の航路を表しているようです。
博多湾(小戸の阿波岐原)から船で遠賀川流域の奴国(根之堅洲国)に行くには、南の博多方面から見て、志賀島の左側(西側)を通り玄界灘に出ます。逆に遠賀川流域の奴国からだと志賀島の右側(東側)から博多湾に入ってくることになります。
神話の伝承地に行って何時も感じることですが、その光景を実に巧みに神話の中に取り入れています。今は志賀島が淤能碁呂島だと思う人はいないでしょうが、古代人の観察の鋭さには驚かされます。志賀島と海の中道・博多湾の関係も例外ではないようです。
島を回り終えて女神のイザナミが先に声をかけたのが悪いことだとされ、二神は再度柱を回り、今度は男神のイザナギが先に声をかけます。これを男尊女卑の思想とする考えもありますが、私は銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族の間に対立が有ったのだと理解しています。
倭人伝の記述では邪馬台国の戸数は七万、奴国は二万であり、57年の遣使は優勢な邪馬台国が行うのが当然のように思われますが、劣勢の奴国王が行っています。この神話ではその不合理さが語られているようです。
このことは中細形の銅矛・銅剣の分布からも考えられます。九州の中細形銅剣の分布は遠賀川周辺と豊後に限られ、しかも極めて少数で九州の西半分にはほとんど見られません。奴国王の統治には中国・四国地方の銅剣を配布した部族が、何等かの影響を与えているようです。
銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族は、三郡山地や志賀島を境にして対立するような関係にあったのではないかと考えています。再度柱を回りイザナギが先に声をかけたのは、銅剣を配布した部族と、銅矛を配布した部族の間に合意があって、奴国王の統治が認められたということでしょう。
島根県安来市は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地です。草那芸之大刀を発明した地であるともいわれ今も安来鋼が名産となっています。この根の堅洲国は正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。
返信削除この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちの崇敬の島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミを含むそれ以前の時代を、
神世といってその後の神代の時代と分けて表現されますが、神世七代には十の神がおりそれからつけられた神聖な島だったのだと思われます。ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くにイザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。