イザナギ・イザナミ二神は島を生んだ後に35柱の神を生みますが、部族は中細形の青銅祭器を配布して政治的な側面を強め、中国の氏族のような性格を帯びてくるようです。中期後半2期の57年に奴国王が遣使していますが、神生みには「奴国体制」のことが語られているようです。
しかしイザナミは火の神、カグツチ(迦具土、軻遇突智)を生んだことで、神避り(かみさり、神が死ぬこと)します。このイザナミは銅剣を配布した部族、または銅剣を配布した部族に擁立された奴国王です。
イザナギはカグツチを斬殺しますが、このイザナギは銅矛を配布した部族、または銅矛を配布した部族に擁立された那珂海人の王だと考えています。那珂海人の王とは福岡平野の那珂川・御笠川流域の支配者ということですが、この地域は3世紀には邪馬台国の一部になると考えます。
神避りしたイザナミは死後の世界である黄泉の国に行きますが、この神話には、一〇七年の面土国王帥升の遣使の直前に奴国王家が滅ぶ原因になった争乱があったことが語られているようです。それは後漢第5代和帝・第7代安帝のころだと考えます。
このころ中国や朝鮮半島ではさまざまな動きがありました。105年に和帝が死ぬと生後百余日の殤帝が立てられますが、翌年に死亡し13歳の安帝が即位します。以後幼帝の即位が続き外戚・宦官の力が強くなっていきます。
中国の西では106年ころにチベットの羌族の反乱があり、東では105年に高句麗が遼東郡に入蒄していますが、そのため106年には玄菟郡が第二玄菟郡から第三玄菟郡に移動しており、第二玄菟郡は高句麗族が支配するところとなります。
こうした東アジアの動きが倭国に波及してきて、奴国王の統治が不安定になって争乱が起き、面土国王の帥升が倭王になることが考えられます。この争乱は相当に大規模なものだったようで、これが中期から後期に移る原因になっているようです。
この争乱で奴国王から面土国王への政権の移動に伴う部族の再編成があったようで、それは青銅祭器の形式変化とその配布量に表れています。この時に中細形から中広形変化しますが、この段階で北部九州では銅戈が急増し、逆に銅剣が激減しています。
そして瀬戸内で平形銅剣が、また山陰で大量の中細形銅剣c類が造られています。銅剣を配布した部族の中枢が中国・四国地方、ことに山陰に移っていますが、このことが「黄泉の国」の神話になっているようです。「黄泉の国」の神話には荒神谷遺跡の358本の銅剣が造られたことが語られていることになります。
カグツチはイザナミが最後に生んだ子とされていますから、奴国王と何らかの関係がある部族、あるいは宗族でしょう。奴国の滅亡にカグツチが関係していることが推察されますが、私はそれを解明する手懸りは『後漢書』の次の文だと考えています。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり
この文で問題になるのは「倭國の極南界なり」の意味です。倭人伝は国名のみの21ヶ国を列記していますが、その最後の奴国について「女王の境界の尽きる所」としています。先に述べたように最後の奴国は豊後の直入郡です。
私は『後漢書』の「倭國の極南界なり」と、倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じだと考えています。直入郡は豊後、肥後、日向三国の国境が交わる所ですが、その直入郡は一世紀中葉にあっては「倭國の極南界」であり、三世紀中葉にあっては「女王の境界の尽きる所」だったと考えます。
豊後の直入郡は肥後と接していますが肥後は狗奴国でした。3世紀にも女王国と狗奴国は不和の関係にありましたが、不和の関係は一世紀の奴国の時代以来のもののようです。カグツチも狗奴国(肥後)に関係しており、また大夫と自称した奴国王の使人が2世紀初頭の奴国の滅亡に関係していると考えています。
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