長々と弥生時代後期後半の「邪馬台国以後」を述べてきましたが、ここで「面土国以前」に移りたいと思います。表は青銅祭器の造られた時期を推定したものですが、私は弥生時代を前・中・後期に3区分し、それを90年ごとに前半と後半に中区分し、さらに30年ごと小区分しています。
青銅祭器の形式は年代を表しているわけではありませんが、細形と中細形が中期に造られ、中広形と広形が後期に造られたとされています。部族は相互に対抗して青銅祭器を配布しましたから、銅矛と銅戈、銅剣の形式別年代はほぼ同時期と考えてよいようです。
大場磐雄氏は『銅鐸私考』で銅矛を使用したのは安曇氏だとしていますが、私は銅矛を配布した部族が神格化されてイザナギになり、銅戈を配布した部族が神格化されてスサノオになると考えています。従って筑紫神話を理解するには銅矛・銅戈を分析すればよいことになります。
銅剣と銅鐸の分布圏が出雲神話の舞台になっていますが、銅剣を配布した部族が神格化されてイザナミになり、銅鐸を配布した部族がオオクニヌシになると考えています。出雲神話を理解するには銅剣、銅鐸を分析すればよいことになります。
神話が史実であることを証明できるのは、倭人伝と対比させることのできる天の岩戸の前後に限られますが、それは247年ころのことです。これは私の考える区分の後期後半2期になりますが、後期後半は180年から270年までの90年間で、広形の青銅祭器が造られた時期です。後期後半は「邪馬台国時代」と呼ぶことができそうです。
筑紫神話のスサノヲは二世紀初頭から三世紀前半にかけての面土国王でもあり、銅戈を配布した部族でもあります。その活動時期は倭人伝に見える男子が王だった大乱以前の70~80年間と、卑弥呼を共立して以後に分けることができます。
男子が王だった大乱以前の70~80年間は、90年から180年にかけての後期前半内に収まりますが、この時期には中広形が造られています。後期前半は「面土国時代」と呼ぶことできそうです。
スサノオ以前のイザナギ、イザナミの神話の時期は、107年の帥升の遣使以前の1世紀と考えてよく、前漢時代には遡らないと考えます。紀元前後から90年までが中期後半であり、中細形が造られました。中期後半は「奴国時代」と呼ぶことができそうです。
青銅器が祭器に変わるのは紀元前後の王莽の時代であろうと思います。イザナギ・イザナミの神話の始まる時期と、細形が中細形に変わる時期とが一致するようです。前漢が滅んだことにより百余国体制が崩壊し新たな体制が模索されている時に、儒教の宗廟祭祀を重視する思想が流入してきて青銅器が祭器に変わるのでしょう。
とすれば、イザナギ・イザナミ以前の神代七世の神話には、倭人の百余国が遣使した中期前半(紀元前90~紀元)の90年間のことが語られていると見ることができます。まだ青銅器は細形の段階ですが、中期前半を「百余国時代」と呼ぶことができそうです。
神話の時期と、倭人社会に動きが見られる時、及び青銅祭器に形式変化の起きる時は一致するようです。相互に関連しているからですが、それを中国人は倭人との交渉を通じて文字で記しました。文字を知らない倭人は同じことを神話として口伝したのです。それを実証しているのが青銅祭器です。
百余国が中国の冊封体制に組み込まれたことにより、倭人の部族は中国の氏族のような性格を持つようになると思われます。中国の氏族は宗族の集合体ですが、中国でも古くは部族が存在していたようです。それが共通の姓と神話・伝説上の始祖を持つことによって氏族になりました。
倭人の部族も宗族の集合体ですが、共通の姓と神話・伝説上の始祖を持っていません。それに代わるものとして共通の青銅祭器を持つようになります。元来の部族は文化的共同体ですが、青銅祭器を共有することにより政治的共同体に変質して、統治者の王を擁立するようになるようです。
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