1年2ヶ月ぶりの投稿です。使い慣れたXPがダウン。あわててwindows7を買い求めたものの使い方が分からず悪戦苦闘し、最近何とか扱えるようになってきました。その間に考えたのはこのままブログを続けても今まで述べてきたことの繰り返しになるだろうということでした。
それなら今まで述べてきたことをホームページに纏めるのがよいだろうということで取り掛かったのですが、ブログのようにはいかず1年が経過してしまいました。アドレスはhttp://www.chukai.ne.jp/~a-yamataikoku/です。まだ完全なものになっていませんが追々に直していきたいと思っていますので、当ブログ共々に愛読のほどお願い致します。
当ブログにはコメント欄がありますがホームページのほうにはありません。当ブログのコメント欄をホームページに反映させたいと思っていますので、率直なご意見をお聞かせください。参考までにトップページに使用した図を添付します。
邪馬台国と面土国
卑弥呼は共立されて王になりますが、それ以前の70~80年間は男子が王でした。卑弥呼を共立したのは誰でしょうか。そして卑弥呼以前の男王はその後どうなったのでしょうか。
2013年7月10日水曜日
2012年4月29日日曜日
日向神話の構成 その7
『古事記』は高千穂峯に降臨したヒコホホデミ(台与の後の男王)について「高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき」と記しています。これだとヒコホホデミは高天ヶ原(邪馬台国)に居ることになりますが、同じ用例が『古事記』の大国主の国譲りの物語にもあります。
「唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめすとだる天の御巣如して、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に侍ひなむ」
日向神話では事勝国勝長狹が日向の国譲りをすることになっていますが、出雲神話では大国主が出雲を譲ることになっており、その代償としてホノニニギの住むような立派な宮殿を建てるように要求することになっています。この文でもホノニニギの住む宮殿は「高天原に氷木たかしりて」とあり、日向ではなく高天ヶ原にあったことになります。
私はホノニニギ(台与の後の男王)は高天ヶ原(邪馬台国)にいて日向(侏儒国)や出雲(倭種の国)の統合を指揮したのだと解釈し、それが決着した時点で神武天皇の東遷が始まると考え、ホノニニギが高天ヶ原にいることがヒコホホデミ(彦火火出見・火折)の海幸彦・山幸彦神話の伏線になっていると考えます。
ヒコホホデミの行った海神の宮の所在について、藤原貞幹の『衝口発』は「わたつみの宮と言うは、琉球の恵也島を言う。恵也島、天見島である」とし、薩摩の国学者白尾国柱は『神代山稜考』で「世の人の多くは南琉球であると言っている」としています。
しかし琉球(沖縄)にはホホデミの伝承はなく、それが見られるのは対馬と玄界灘の沿岸部です。『日本書記』の一書第四は事勝国勝長狹をイザナギの子としていますが、イザナギの「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の伝承は福岡平野に見られます。
図は日向神話の豊玉彦・玉依媛やヒコホホデミ・ウガヤフキアエズ、あるいはイザナギに関係する伝承を持つ神社ですが、ホノニニギが玄界灘の沿岸部と関係があってもおかしくはありません。このことを表わすのが糸島市の平原遺跡だと考えますが、その1号墓では径46,5センチの内行花文八葉鏡5面が出土しています。
平原遺跡の年代は弥生時代終末から古墳時代初頭と考えられていて、これは私の考えるホノニニギの活動時期と一致します。それは台与が即位した247年ころ以後で、266年の倭人の遣使よりも以前だと考えます。発掘に当たった原田大六氏は武器の出土が少ないことから、女性の墓だと考え被葬者は大日孁貴だとしています。
大日孁貴は卑弥呼であり「日本書記」第一の一書に見える稚日女が台与で、両者を合成したものが天照大神だと考えますが、原田氏が平原遺跡と大日孁貴を結びつけたのは武器が少ないことの他に、玄界灘沿岸の神話伝承から平原遺跡も神話に関係があるという直感が働いたからだと思います。
平原遺跡出土の内行花文八葉鏡は、副葬された時点ですでに破片になっており、これについて原田氏は鈕が4個しかないことなどから、同時に鋳造されたのは4面で、そのうちの2面は完鏡に近いが、約1面と約3分の2が不足しているとしました。しかし残っているのは5面分であることが分かっています。
5面だとすると埋納された時点で半分以上がすでに無かったことになりますが、弥生時代終末期には直径7センチほどの小型仿製鏡や漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られています。柳田康夫氏は当時大量の銅鏡が必要だったが、鏡の絶対量が不足したので小型仿製鏡や分割鏡が造られたとしています。
中国の諸王朝は帰順してきた者に官職を授け、それを証明する印綬を授与しましたが、文字を使用しない倭人には印綬は必要がありません。そこで台与や台与の後の男王(ホノニニギ)は、小型仿製鏡や分割鏡を授与したと考えます。つまり平原遺跡1号墓の被葬者は台与(天照大御神)か、台与の後の男王(ホノニニギ)だと考えるのです。
しかし中国の印綬と比較すると小型仿製鏡や分割鏡はあまりに貧弱です。そこで巨大な鏡が鋳造され、これを「分割鏡」にして帰順してきた有力者に配布したために半数以上が無かったのだと考えます。熊本県山鹿市方保田東原遺跡では小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、平原遺跡出土鏡の鏡片も長崎県や南九州から、ことによると出雲からも出土することになりそうです。
「唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめすとだる天の御巣如して、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に侍ひなむ」
日向神話では事勝国勝長狹が日向の国譲りをすることになっていますが、出雲神話では大国主が出雲を譲ることになっており、その代償としてホノニニギの住むような立派な宮殿を建てるように要求することになっています。この文でもホノニニギの住む宮殿は「高天原に氷木たかしりて」とあり、日向ではなく高天ヶ原にあったことになります。
私はホノニニギ(台与の後の男王)は高天ヶ原(邪馬台国)にいて日向(侏儒国)や出雲(倭種の国)の統合を指揮したのだと解釈し、それが決着した時点で神武天皇の東遷が始まると考え、ホノニニギが高天ヶ原にいることがヒコホホデミ(彦火火出見・火折)の海幸彦・山幸彦神話の伏線になっていると考えます。
ヒコホホデミの行った海神の宮の所在について、藤原貞幹の『衝口発』は「わたつみの宮と言うは、琉球の恵也島を言う。恵也島、天見島である」とし、薩摩の国学者白尾国柱は『神代山稜考』で「世の人の多くは南琉球であると言っている」としています。
しかし琉球(沖縄)にはホホデミの伝承はなく、それが見られるのは対馬と玄界灘の沿岸部です。『日本書記』の一書第四は事勝国勝長狹をイザナギの子としていますが、イザナギの「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の伝承は福岡平野に見られます。
図は日向神話の豊玉彦・玉依媛やヒコホホデミ・ウガヤフキアエズ、あるいはイザナギに関係する伝承を持つ神社ですが、ホノニニギが玄界灘の沿岸部と関係があってもおかしくはありません。このことを表わすのが糸島市の平原遺跡だと考えますが、その1号墓では径46,5センチの内行花文八葉鏡5面が出土しています。
平原遺跡の年代は弥生時代終末から古墳時代初頭と考えられていて、これは私の考えるホノニニギの活動時期と一致します。それは台与が即位した247年ころ以後で、266年の倭人の遣使よりも以前だと考えます。発掘に当たった原田大六氏は武器の出土が少ないことから、女性の墓だと考え被葬者は大日孁貴だとしています。
大日孁貴は卑弥呼であり「日本書記」第一の一書に見える稚日女が台与で、両者を合成したものが天照大神だと考えますが、原田氏が平原遺跡と大日孁貴を結びつけたのは武器が少ないことの他に、玄界灘沿岸の神話伝承から平原遺跡も神話に関係があるという直感が働いたからだと思います。
平原遺跡出土の内行花文八葉鏡は、副葬された時点ですでに破片になっており、これについて原田氏は鈕が4個しかないことなどから、同時に鋳造されたのは4面で、そのうちの2面は完鏡に近いが、約1面と約3分の2が不足しているとしました。しかし残っているのは5面分であることが分かっています。
5面だとすると埋納された時点で半分以上がすでに無かったことになりますが、弥生時代終末期には直径7センチほどの小型仿製鏡や漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られています。柳田康夫氏は当時大量の銅鏡が必要だったが、鏡の絶対量が不足したので小型仿製鏡や分割鏡が造られたとしています。
中国の諸王朝は帰順してきた者に官職を授け、それを証明する印綬を授与しましたが、文字を使用しない倭人には印綬は必要がありません。そこで台与や台与の後の男王(ホノニニギ)は、小型仿製鏡や分割鏡を授与したと考えます。つまり平原遺跡1号墓の被葬者は台与(天照大御神)か、台与の後の男王(ホノニニギ)だと考えるのです。
しかし中国の印綬と比較すると小型仿製鏡や分割鏡はあまりに貧弱です。そこで巨大な鏡が鋳造され、これを「分割鏡」にして帰順してきた有力者に配布したために半数以上が無かったのだと考えます。熊本県山鹿市方保田東原遺跡では小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、平原遺跡出土鏡の鏡片も長崎県や南九州から、ことによると出雲からも出土することになりそうです。
2012年4月22日日曜日
日向神話の構成 その6
天孫降臨として語られている侏儒国(日向)の統合の前段階として、肥前の西半や臼杵―八代構造線以南の球磨川流域の統合があったと考えていますが、狗奴国の官の狗古智卑狗が殺されたことにより、統合はさらに人吉盆地から薩摩・大隅・日向の国境地帯へと拡大したと考えます。
時に彼處に一の神有り。名を事勝国勝長狹と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく「国在りや」とのたまふ。對へて曰さく、「在り」とまうす。因りて曰さく「勅の随に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼處に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は鹽土老翁
事勝国勝長狹は降臨したホノニニギに日向の国譲りをすることになっています。大国主の出雲の国譲りはよく知られていますが、事勝国勝長狹の日向の国譲りはあまり知られていません。これは天孫降臨が有名なためにその陰に隠れてしまっているためでしょう。
出雲神話では国譲り以前の大国主自身の活動があり、またアメノホヒ(天菩比・天穂日)・アメノワカヒコ(天若日子・天稚彦)の国譲りの交渉が失敗し、タケミカヅチ(建御雷之男・武甕槌)の強談判があって、国譲りが実現することになっています。
日向神話にはそのような経過が見られませんが、日向神話で出雲神話における大国主の役割を果たしているのが事勝国勝長狹のようです。事勝国勝長狹は『日本書記』の一書第一・第二・第四・第六に出てきますが、一書第二は国主(国の支配者)だとし、一書第四はイザナギ(伊奘諾)の子であり、またシオツチノオジ(鹽土老翁)の別名だとしています。
シオツチノオジには複雑な性格があって、神話が新たな展開を見せるときに必ず登場し、この神が登場しないと日向神話は薩摩北部・薩摩半島部・大隅北部・大隅半島部・日向南部・日向北部の6つの孤立した物語になって、ホノニニギから神武天皇に至る「日向三代」の神話は成立しなくなります。(2011年4月投稿「二人のヒコホホデミ」)
その名もホノニニギに国を譲るときに限って事勝国勝長狹、または事勝国勝神になっていますが、この事勝国勝長狹の伝承は薩摩北部の薩摩君のものであり、事勝国勝長狹は薩摩君の遠祖ではないかと考えています。そのため薩摩君が支配する川内川流域にホノニニの可愛山稜の伝承があるのでしょう。
同様にオオヤマツミ(大山津見)やカシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売)の伝承は薩摩半島の阿多君のもので、その系譜から神武天皇の妃のアタツヒメ(吾田津媛)や、その兄の吾田君小橋が出てくることが考えられます。しかしこれには奇妙なことがあります。
是に詔りたまはく「此地は韓国に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき。
ホノニニギは立派な宮殿に住み日向を支配するようになったと述べられ、「此地は韓国に向ひ」とされています。「韓国」を唐国・漢国と解釈して中国のことだと見ることもできそうですが、朝鮮半島のことと見るのがよいでしょう。ところが薩摩や日向は「韓国に向ひ」とは言えません。
それにもまして奇妙なことは「高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき」とされていることです。高天ヶ原はホノニニギが高千穂峰に降臨する際の出発地であり、天照大神(卑弥呼・台与)の居る邪馬台国でもありますが、それは筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半分になります。
筑前の西半分が韓国(朝鮮半島)に向いていることは事実で、これだとホノニニギの居るのは高天ヶ原であって日向ではないことになり、ヒコホホデミは高天ヶ原(邪馬台国)に居て日向(侏儒国)の統合を指揮していることになってきます。
事勝国勝長狹・シオツチノオジは出雲神話における大国主とアメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチを合成したような役割を持っているようです。ホノニニギにとってシオツチノオジとその別名の事勝国勝長狹は、言わば古墳時代の名代(なしろ、御名代)に相当し、侏儒国統合の現地司令官だと考えればよいのでしょう。
時に彼處に一の神有り。名を事勝国勝長狹と曰ふ。故、天孫、其の神に問ひて曰はく「国在りや」とのたまふ。對へて曰さく、「在り」とまうす。因りて曰さく「勅の随に奉らむ」とまうす。故、天孫、彼處に留住りたまふ。其の事勝国勝神は、是伊奘諾尊の子なり。亦の名は鹽土老翁
事勝国勝長狹は降臨したホノニニギに日向の国譲りをすることになっています。大国主の出雲の国譲りはよく知られていますが、事勝国勝長狹の日向の国譲りはあまり知られていません。これは天孫降臨が有名なためにその陰に隠れてしまっているためでしょう。
出雲神話では国譲り以前の大国主自身の活動があり、またアメノホヒ(天菩比・天穂日)・アメノワカヒコ(天若日子・天稚彦)の国譲りの交渉が失敗し、タケミカヅチ(建御雷之男・武甕槌)の強談判があって、国譲りが実現することになっています。
日向神話にはそのような経過が見られませんが、日向神話で出雲神話における大国主の役割を果たしているのが事勝国勝長狹のようです。事勝国勝長狹は『日本書記』の一書第一・第二・第四・第六に出てきますが、一書第二は国主(国の支配者)だとし、一書第四はイザナギ(伊奘諾)の子であり、またシオツチノオジ(鹽土老翁)の別名だとしています。
シオツチノオジには複雑な性格があって、神話が新たな展開を見せるときに必ず登場し、この神が登場しないと日向神話は薩摩北部・薩摩半島部・大隅北部・大隅半島部・日向南部・日向北部の6つの孤立した物語になって、ホノニニギから神武天皇に至る「日向三代」の神話は成立しなくなります。(2011年4月投稿「二人のヒコホホデミ」)
その名もホノニニギに国を譲るときに限って事勝国勝長狹、または事勝国勝神になっていますが、この事勝国勝長狹の伝承は薩摩北部の薩摩君のものであり、事勝国勝長狹は薩摩君の遠祖ではないかと考えています。そのため薩摩君が支配する川内川流域にホノニニの可愛山稜の伝承があるのでしょう。
同様にオオヤマツミ(大山津見)やカシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売)の伝承は薩摩半島の阿多君のもので、その系譜から神武天皇の妃のアタツヒメ(吾田津媛)や、その兄の吾田君小橋が出てくることが考えられます。しかしこれには奇妙なことがあります。
是に詔りたまはく「此地は韓国に向ひ、笠紗の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」と詔りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき。
ホノニニギは立派な宮殿に住み日向を支配するようになったと述べられ、「此地は韓国に向ひ」とされています。「韓国」を唐国・漢国と解釈して中国のことだと見ることもできそうですが、朝鮮半島のことと見るのがよいでしょう。ところが薩摩や日向は「韓国に向ひ」とは言えません。
それにもまして奇妙なことは「高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき」とされていることです。高天ヶ原はホノニニギが高千穂峰に降臨する際の出発地であり、天照大神(卑弥呼・台与)の居る邪馬台国でもありますが、それは筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半分になります。
筑前の西半分が韓国(朝鮮半島)に向いていることは事実で、これだとホノニニギの居るのは高天ヶ原であって日向ではないことになり、ヒコホホデミは高天ヶ原(邪馬台国)に居て日向(侏儒国)の統合を指揮していることになってきます。
事勝国勝長狹・シオツチノオジは出雲神話における大国主とアメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカヅチを合成したような役割を持っているようです。ホノニニギにとってシオツチノオジとその別名の事勝国勝長狹は、言わば古墳時代の名代(なしろ、御名代)に相当し、侏儒国統合の現地司令官だと考えればよいのでしょう。
2012年4月15日日曜日
日向神話の構成 その5
「天孫降臨」の神話には渡来系弥生人の女王国(筑紫)が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の侏儒国(日向)を統合したことが語られていると考えていますが、それには狗古智卑狗の支配の及んでいなかった肥前の長崎県部分や天草諸島を含めて考えるのがよいと思っています。
図の赤線が臼杵―八代構造線ですが、肥後の文化は構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられており、狗古智卑狗が支配していたのは構造線以北の菊池川流域だったと考えられます。
既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から國覓魏(くにまぎ)行去り(とほり)て、吾田の笠狹碕に到ります。
高千穂峯に降臨された皇孫が進まれる様相 は、神聖な二つの山から降り、浮島が在り、平らな処に立ち、痩せた宍(猪)の背骨のように荒れ果てた国の丘の続く中を、国を求めて通り、吾田の笠狹碕に到られた
これは『日本書記』本文の記述ですが、ホノニニギは日向の高千穂峯に降臨することになっています。高千穂峯については宮崎県西臼杵郡の高千穂とする説と霧島山系の高千穂峰とする説があります。このことについては2011年4月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べています。
霧島山系の高千穂峰とする説のホノニニギの伝承は日向の大淀川流域や薩摩北部の川内川流域にあって、川内市宮内の神亀山はその5分1が新田神社の境内で、5分4がホノニニギの可愛山陵に指定されています。
「吾田の笠狹碕」は薩摩南部の野間岬のこととされていて薩摩南部の加世田市周辺にもホノニニギやオオヤマツミ(大山津見)・カシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売など)の伝承があり、天孫降臨神話そのものの舞台は霧島山系の高千穂峰とするのがよいようです。
神話は『古事記』と『日本書記』で語り伝えた氏族が違うように思われます。『古事記』の天孫降臨は天児屋命・布刀玉命・天宇受売・伊斯許理度売・玉祖命の子孫とされている、中臣連・忌部首・猿女君・作鏡連・玉祖連などが語り伝えたもののようで、ことに猿女君の支族の稗田氏の伝承が中心になっているようです。
それに対し『日本書記』の神話は薩摩の薩摩君・吾田君や日向の諸県君、あるいは大隅の加治木県主・曾県主・大隅直などの土着氏族の伝承が加えられているようです。引用した『日本書記』本文は薩摩の薩摩君・日向の諸県主・大隅の加治木県主などが語り伝えたものだと思われますが、私は球磨川流域の熊(球磨)県主も天孫降臨の伝承を持っていたと考えています。
『古事記』の神話は高千穂峯に降臨したことで終わってしまいますが、『日本書記』の場合には土着氏族が伝えたものなので、本文では降臨した後のことも述べられています。引用した本文の「槵日の二上の天浮橋」は霧島連山や高千穂峰から降っていくことを表わしていると見ることができそうです。
「浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして」の文は海岸の情景が述べられているようですが、桜島の見える鹿児島湾岸のことを述べていることになりそうです。「槵日の二上」は二つの峯を表わし、霧島連山を源とし南流して鹿児島湾(錦江湾)に注ぐ新川沿いに降ることであり、鹿児島湾岸から薩摩半島を横断して吾田の笠狹碕に到るのだと見ることができます。
「浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして」は、有明海や不知火海(八代海)の沿岸のことが述べられていると考え、統合は八代を起点として球磨川流域の人吉盆地から薩摩・大隅・日向の国境地帯へと拡大したと考えます。しかし天孫降臨の神話には有明海・不知火海の沿岸や球磨川流域は登場してきません。
図の赤線が臼杵―八代構造線ですが、肥後の文化は構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられており、狗古智卑狗が支配していたのは構造線以北の菊池川流域だったと考えられます。
既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から國覓魏(くにまぎ)行去り(とほり)て、吾田の笠狹碕に到ります。
高千穂峯に降臨された皇孫が進まれる様相 は、神聖な二つの山から降り、浮島が在り、平らな処に立ち、痩せた宍(猪)の背骨のように荒れ果てた国の丘の続く中を、国を求めて通り、吾田の笠狹碕に到られた
これは『日本書記』本文の記述ですが、ホノニニギは日向の高千穂峯に降臨することになっています。高千穂峯については宮崎県西臼杵郡の高千穂とする説と霧島山系の高千穂峰とする説があります。このことについては2011年4月投稿の「二人のヒコホホデミ」で述べています。
霧島山系の高千穂峰とする説のホノニニギの伝承は日向の大淀川流域や薩摩北部の川内川流域にあって、川内市宮内の神亀山はその5分1が新田神社の境内で、5分4がホノニニギの可愛山陵に指定されています。
「吾田の笠狹碕」は薩摩南部の野間岬のこととされていて薩摩南部の加世田市周辺にもホノニニギやオオヤマツミ(大山津見)・カシツヒメ(鹿葦津姫、吾平津媛・木花之佐久夜毘売・神阿多都比売など)の伝承があり、天孫降臨神話そのものの舞台は霧島山系の高千穂峰とするのがよいようです。
神話は『古事記』と『日本書記』で語り伝えた氏族が違うように思われます。『古事記』の天孫降臨は天児屋命・布刀玉命・天宇受売・伊斯許理度売・玉祖命の子孫とされている、中臣連・忌部首・猿女君・作鏡連・玉祖連などが語り伝えたもののようで、ことに猿女君の支族の稗田氏の伝承が中心になっているようです。
それに対し『日本書記』の神話は薩摩の薩摩君・吾田君や日向の諸県君、あるいは大隅の加治木県主・曾県主・大隅直などの土着氏族の伝承が加えられているようです。引用した『日本書記』本文は薩摩の薩摩君・日向の諸県主・大隅の加治木県主などが語り伝えたものだと思われますが、私は球磨川流域の熊(球磨)県主も天孫降臨の伝承を持っていたと考えています。
『古事記』の神話は高千穂峯に降臨したことで終わってしまいますが、『日本書記』の場合には土着氏族が伝えたものなので、本文では降臨した後のことも述べられています。引用した本文の「槵日の二上の天浮橋」は霧島連山や高千穂峰から降っていくことを表わしていると見ることができそうです。
「浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして」の文は海岸の情景が述べられているようですが、桜島の見える鹿児島湾岸のことを述べていることになりそうです。「槵日の二上」は二つの峯を表わし、霧島連山を源とし南流して鹿児島湾(錦江湾)に注ぐ新川沿いに降ることであり、鹿児島湾岸から薩摩半島を横断して吾田の笠狹碕に到るのだと見ることができます。
私は天孫降臨の神話について、土着の氏族ではなく天孫降臨には第三者的な立場の、稗田氏が伝えた『古事記』の視点で考えるのがよいと思っています。その場合には狗古智卑狗が殺された後に、肥前の長崎県部分や天草諸島が統合され、統合はさらに臼杵―八代構造線以南に及んでいくと見るのがよいと思っています。
2012年4月8日日曜日
日向神話の構成 その4
スサノオ(須佐之男)がオオケツヒメ(大気津比売)を、ツキヨミ(月読)がウケモチ(保食神)を殺すのは、狗奴国の官の狗古智卑狗が殺されたということだと考えていますが、狗奴国は肥後と肥前の長崎県部分と考え、狗古智卑狗は肥後の菊池川流域の支配者だと考えます。
中国の諸王朝は冊封体制によって東夷諸国の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限していたようです。これを「稍」と言いますが、魏の1里は434メートルですから三百里は130キロになり、「方六百里」は260キロ四方になります。
東夷伝には7条(伝と通称)がありますが、韓伝と倭人伝以外の諸伝では300里を千里と称し、「方六百里」を「方二千里」と称しています。しかし韓伝と倭人伝に限っては300里を二千里と称し、600里四方を「方四千里」と称しているようで、倭人伝の千里は65キロになります。
図は千里を65キロとして地理記事を考察したもので、筑前・筑後・豊前・豊後と肥前の佐賀県部分を女王国とし、肥後と肥前の長崎県部分を狗奴国としています。
細い赤線は倭人伝の地理記事から推定した交通路で、赤い円は各国の中心地と推定する場所です。また赤い方形が卑弥呼の王都があったと推定している筑前上座郡(かむつあさくら、朝倉郡)です。
図の太い赤線は地学上の臼杵・八代構造線ですが、構造線以北の肥後の北部が上座郡を中心とする2千里圏内に入っています。このことが女王国と狗奴国の狗古智卑狗との不和の主因になっているようです。
倭人伝には女王国の南には狗奴国と侏儒国があって、侏儒国は「女王(国)を去ること四千余里」とあります。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡東郷・土穴付近だと考えていますが、東郷・土穴の南四千里(260キロ)といえば肥後と薩摩の国境付近になります。侏儒国は薩摩であり狗奴国は肥後ということになりますが、魏が認めた卑弥呼の支配領域は「稍」の考え方に従った「方四千里」(260キロ四方)で、狗奴国の大部分は卑弥呼の支配が認められた地域でした。
肥後の文化は臼杵・八代構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられていますが、臼杵・八代構造線以北には多数の青銅祭器が見られます。南側にはほとんど見られず肥前でも佐賀県部分には見られるのに長崎県部分には見られません。これは前々回の投稿で述べたように、女王国が渡来系弥生人の形成する国であるのに対し、狗奴国は縄文系弥生人の熊襲が形成する国であることによります。
肥前の佐賀県部分では渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があったようで、青銅祭器も分布していて女王国に属していたようです。それに対し肥後の臼杵・八代構造線以北は渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があり青銅祭器も分布しているものの狗奴国に属していたようです。
狗古智卑狗が殺されたことで構造線以北が女王国の版図に入ると考えますが、それには青銅祭器を祭っていた宗族の協力があったでしょう。狗古智卑狗が殺されたことで女王国の臼杵・八代構造線以南への進出が可能になったと考えることができます。
このころ女王国では台与共立の一方の当事者だった面土国王が排除されて、女王制が有名無実になり男王が擁立されます。この男王がホノニニギですが狗古智卑狗が殺されたことでホノニニギの「天孫降臨」が始まることになります。
私のイメージする天孫降臨は、女王国が臼杵・八代構造線以南の九州を統合したというものですが、それには狗古智卑狗の支配の及んでいなかった肥前の長崎県部分や天草諸島を含めるべきであり、それは女王国の東にある倭種の国(神話の出雲)にも及んでいくと考えます。
中国の諸王朝は冊封体制によって東夷諸国の王の支配領域を「王城を去ること三百里」、或いは「方六百里」に制限していたようです。これを「稍」と言いますが、魏の1里は434メートルですから三百里は130キロになり、「方六百里」は260キロ四方になります。
東夷伝には7条(伝と通称)がありますが、韓伝と倭人伝以外の諸伝では300里を千里と称し、「方六百里」を「方二千里」と称しています。しかし韓伝と倭人伝に限っては300里を二千里と称し、600里四方を「方四千里」と称しているようで、倭人伝の千里は65キロになります。
図は千里を65キロとして地理記事を考察したもので、筑前・筑後・豊前・豊後と肥前の佐賀県部分を女王国とし、肥後と肥前の長崎県部分を狗奴国としています。
細い赤線は倭人伝の地理記事から推定した交通路で、赤い円は各国の中心地と推定する場所です。また赤い方形が卑弥呼の王都があったと推定している筑前上座郡(かむつあさくら、朝倉郡)です。
図の太い赤線は地学上の臼杵・八代構造線ですが、構造線以北の肥後の北部が上座郡を中心とする2千里圏内に入っています。このことが女王国と狗奴国の狗古智卑狗との不和の主因になっているようです。
倭人伝には女王国の南には狗奴国と侏儒国があって、侏儒国は「女王(国)を去ること四千余里」とあります。倭人伝の方位・距離の起点は宗像郡東郷・土穴付近だと考えていますが、東郷・土穴の南四千里(260キロ)といえば肥後と薩摩の国境付近になります。侏儒国は薩摩であり狗奴国は肥後ということになりますが、魏が認めた卑弥呼の支配領域は「稍」の考え方に従った「方四千里」(260キロ四方)で、狗奴国の大部分は卑弥呼の支配が認められた地域でした。
肥後の文化は臼杵・八代構造線の北側と南側、及び天草諸島部で異なることが考えられていますが、臼杵・八代構造線以北には多数の青銅祭器が見られます。南側にはほとんど見られず肥前でも佐賀県部分には見られるのに長崎県部分には見られません。これは前々回の投稿で述べたように、女王国が渡来系弥生人の形成する国であるのに対し、狗奴国は縄文系弥生人の熊襲が形成する国であることによります。
肥前の佐賀県部分では渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があったようで、青銅祭器も分布していて女王国に属していたようです。それに対し肥後の臼杵・八代構造線以北は渡来系弥生人と縄文系弥生人の通婚があり青銅祭器も分布しているものの狗奴国に属していたようです。
狗古智卑狗が殺されたことで構造線以北が女王国の版図に入ると考えますが、それには青銅祭器を祭っていた宗族の協力があったでしょう。狗古智卑狗が殺されたことで女王国の臼杵・八代構造線以南への進出が可能になったと考えることができます。
このころ女王国では台与共立の一方の当事者だった面土国王が排除されて、女王制が有名無実になり男王が擁立されます。この男王がホノニニギですが狗古智卑狗が殺されたことでホノニニギの「天孫降臨」が始まることになります。
私のイメージする天孫降臨は、女王国が臼杵・八代構造線以南の九州を統合したというものですが、それには狗古智卑狗の支配の及んでいなかった肥前の長崎県部分や天草諸島を含めるべきであり、それは女王国の東にある倭種の国(神話の出雲)にも及んでいくと考えます。
2012年4月1日日曜日
日向神話の構成 その3
『日本書記』神功皇后紀三十九年条に、泰始2年(266)の遣使記事が引用されていることから、遣使したのは台与だと思われていますが、『晋書』武帝紀は司馬昭が相(総理大臣)だった258年~265年の7年間に何度かの倭人の遣使があったとしています。
倭人伝の記事は正始8年で終りますが、正始10年には司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。東夷伝には司馬懿のクーデター以後の記事はありませんが、これは中国の正史(公式史書)が司馬懿のクーデターまでを「三国時代」とし、クーデター以後を「晋時代」としているということでしょう。
したがって台与が掖邪狗らを魏都の洛陽に遣わしたのは266年ではなく、司馬懿のクーデター以前だと考えなければならず、掖邪狗らが魏に行ったのは正始8年か9年でしょう。掖邪狗が司馬懿のクーデターに遭遇したことも考えられます。
台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、掖邪狗らを洛陽に遣わしたことにより台与も「晋魏倭王」に冊封されたでしょう。掖邪狗らが魏から帰国すると親魏倭王・台与の名のもとで、卑弥呼死後の争乱の当事者を処罰する軍事裁判が行われたと考えます。『古事記』には次のように記されています。
是に八百万神、共に議りて速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。又食物を大気都比売に乞ひたまいき。爾に大気都比売、鼻・口及び尻より種々の味物を取り出して、種々作り具へて進る時、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて穢汙為て奉進ると、乃ち其の大気都比売を殺したまひき。
スサノオの乱暴・狼藉を怒った天照大御神は天の岩戸に籠もってしまい、天地は闇黒になります。そこで八百万神(多くの神々)は「天の安の河原」に集まって善後策を協議しますが、天照大御神が天の岩戸に籠もった原因はスサノオにあるとされています。
卑弥呼死後の争乱の原因は面土国王にあるとされて、多くの賠償が科され体刑が加えられ、さらには追放したというのです。この速須佐之男命は107年に遣使した帥升の140年後の子孫の面土国王であって、狗奴国の男王ではありません。
倭人伝に「自女王国以北の諸国」をあたかも中国の州刺史の如くに支配し、また女王と中国(魏)との外交を津で捜露していると見えるのもこの速須佐之男命であり、捜露の行われた津には後に宗像大社辺津宮(宗像市深田)が創建されると考えます。
高天ヶ原を追放されたスサノオは出雲の国の肥の川上(斐伊川)に降り、ヤマタノオロチ(八俣遠呂知・八岐大蛇)を退治することになっていますが、ここで考えなければならないのは、この時にスサノオがオオケツヒメ(大気都比売)を殺していることです。
同じ内容の物語が『日本書記』一書第十一にもあり、こちらでは天照大御神にウケモチ(保食神)を見てくるように命ぜられたツキヨミ(月夜見)が、命令に違えてウケモチを殺したために、天照大御神とツキヨミは「一日一夜隔て離れて住みたまふ」ようになったとされています。
オオケツヒメもウケモチも食物の神であることが共通しますが、私はこれを狗奴国の官の狗古智卑狗だと考え、オオケツヒメ・ウケモチが殺されたのは狗古智卑狗が殺されたということだと考えています。卑弥呼は狗奴国の男王に殺されたという説もありますがこれは正しくありません。
正始8年に帯方郡使の張政が倭国に来たのは、大夫の難升米に黄幢・詔書を届けるためでしたが、黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられるもので、天子(皇帝)が軍事指揮権を付与したことを表わし、同様のものに「節」があります。
難升米に黄幢・詔書が授けられたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に訴えたためでしたが、オオケツヒメ、あるいはウケモチが殺されるのは、難升米に軍事指揮権が付与されたことを表す黄幢・詔書が届いたことで、狗古智卑狗が殺されたということだと考えるのです。
女王国内では卑弥呼死後の争乱の事後処理によって面土国王が排除され、対外的には難升米に軍事指揮権が付与されたことにより、狗奴国との対立も解消したと考えますが、この時点で卑弥呼の時代とは政情が一変し、男王が立てられ全ての倭人を統一しようとする動きが出てくるのでしょう。神話ではこれがホノニニギの天孫降臨とされているようです。
倭人伝の記事は正始8年で終りますが、正始10年には司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。東夷伝には司馬懿のクーデター以後の記事はありませんが、これは中国の正史(公式史書)が司馬懿のクーデターまでを「三国時代」とし、クーデター以後を「晋時代」としているということでしょう。
したがって台与が掖邪狗らを魏都の洛陽に遣わしたのは266年ではなく、司馬懿のクーデター以前だと考えなければならず、掖邪狗らが魏に行ったのは正始8年か9年でしょう。掖邪狗が司馬懿のクーデターに遭遇したことも考えられます。
台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、掖邪狗らを洛陽に遣わしたことにより台与も「晋魏倭王」に冊封されたでしょう。掖邪狗らが魏から帰国すると親魏倭王・台与の名のもとで、卑弥呼死後の争乱の当事者を処罰する軍事裁判が行われたと考えます。『古事記』には次のように記されています。
是に八百万神、共に議りて速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。又食物を大気都比売に乞ひたまいき。爾に大気都比売、鼻・口及び尻より種々の味物を取り出して、種々作り具へて進る時、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて穢汙為て奉進ると、乃ち其の大気都比売を殺したまひき。
スサノオの乱暴・狼藉を怒った天照大御神は天の岩戸に籠もってしまい、天地は闇黒になります。そこで八百万神(多くの神々)は「天の安の河原」に集まって善後策を協議しますが、天照大御神が天の岩戸に籠もった原因はスサノオにあるとされています。
卑弥呼死後の争乱の原因は面土国王にあるとされて、多くの賠償が科され体刑が加えられ、さらには追放したというのです。この速須佐之男命は107年に遣使した帥升の140年後の子孫の面土国王であって、狗奴国の男王ではありません。
倭人伝に「自女王国以北の諸国」をあたかも中国の州刺史の如くに支配し、また女王と中国(魏)との外交を津で捜露していると見えるのもこの速須佐之男命であり、捜露の行われた津には後に宗像大社辺津宮(宗像市深田)が創建されると考えます。
高天ヶ原を追放されたスサノオは出雲の国の肥の川上(斐伊川)に降り、ヤマタノオロチ(八俣遠呂知・八岐大蛇)を退治することになっていますが、ここで考えなければならないのは、この時にスサノオがオオケツヒメ(大気都比売)を殺していることです。
同じ内容の物語が『日本書記』一書第十一にもあり、こちらでは天照大御神にウケモチ(保食神)を見てくるように命ぜられたツキヨミ(月夜見)が、命令に違えてウケモチを殺したために、天照大御神とツキヨミは「一日一夜隔て離れて住みたまふ」ようになったとされています。
オオケツヒメもウケモチも食物の神であることが共通しますが、私はこれを狗奴国の官の狗古智卑狗だと考え、オオケツヒメ・ウケモチが殺されたのは狗古智卑狗が殺されたということだと考えています。卑弥呼は狗奴国の男王に殺されたという説もありますがこれは正しくありません。
正始8年に帯方郡使の張政が倭国に来たのは、大夫の難升米に黄幢・詔書を届けるためでしたが、黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられるもので、天子(皇帝)が軍事指揮権を付与したことを表わし、同様のものに「節」があります。
難升米に黄幢・詔書が授けられたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に訴えたためでしたが、オオケツヒメ、あるいはウケモチが殺されるのは、難升米に軍事指揮権が付与されたことを表す黄幢・詔書が届いたことで、狗古智卑狗が殺されたということだと考えるのです。
女王国内では卑弥呼死後の争乱の事後処理によって面土国王が排除され、対外的には難升米に軍事指揮権が付与されたことにより、狗奴国との対立も解消したと考えますが、この時点で卑弥呼の時代とは政情が一変し、男王が立てられ全ての倭人を統一しようとする動きが出てくるのでしょう。神話ではこれがホノニニギの天孫降臨とされているようです。
2012年3月25日日曜日
日向神話の構成 その2
『粱書』『北史』に「複立卑弥呼宗女・臺與為王。其後複立男王。竝受中国爵命」とありますが、台与の後にも男王が並び立ち中国の爵命を受けたというのです。「竝」には2人が横に並ぶということで「並び立つ」という意味があり、この文によると台与が女王だった3世紀後半に2人の王がいたことになります。
台与が即位して間もなく面土国王は卑弥呼死後の争乱の当事者として処罰され失脚するようです。王が2人居れば王位を巡る対立が起きるものですが、面土国王が排除されたことで台与は有名無実の王になり男王が立てられたようです。これが「天孫降臨」の神話になりますが、台与の後に男王が立ったこと自体がほとんど考えられていません。
図は倭人伝中の人物と高天ヶ原神話に登場してくる神を対比させたもので()内が倭人伝中の人物です。『日本書記』神功皇后紀は卑弥呼・台与を神功皇后だとしていますが、安本美典氏は卑弥呼を天照大神とし、台与を万幡豊秋津師比売とされています。
その名に「トヨ」の音が含まれていることやその系譜をみると、安本氏の言われるように万幡豊秋津師比売が台与の可能性がありますが、私は天照大神の別名のオオヒルメムチ(大日孁貴、卑弥呼)と『日本書記』第一の一書に見えるワカヒルメ(稚日女、台与)を合成したものが天照大神だと考えています。
白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男・素戔鳴)を狗奴国の男王だとしていますが、これは面土国の存在が考えられていないことによるものであり、スサノオは面土国王であり宗像氏のはるかな遠祖です。
天照大神とスサノオの誓約(ウケヒ)で生まれたオシホミミ(忍穂耳・忍骨)は、葦原中国に降るために「天の浮橋」まで来て引き返しますが、これは卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱になったことが語られているようで、オシホミミは弥呼死後の男王だと考えてよさそうです。
台与は卑弥呼死後の争乱を決着させるために、13歳で即位した名目だけの女王でしたが、倭人伝の記述が終わる正始8年(247)から間もないころに、争乱の当事者だった面土国王(スサノオ)が排除されたことにより、女王の存在理由がなくなります。そこで台与を退位させ男王を立てることが考えられたと思います。
この男王がホノニニギですが、私はこの男王も名目だけの王で、その背後にキングメーカー(陰の実力者)が居て、2人の王を操っていると考えています。そのキングメーカーこそ倭人伝の大倭であり、それが神話のタカミムスヒ(高皇産霊、高御産巣日、高木神)だと考えます。
倭人伝中でその名が最も多く見えるのは7回の難升米ですが、難升米は魏から「率善中朗将」に任ぜられ、245年には黄幢・詔書を授与されています。大倭を補佐して台与の退位と台与の後の男王の擁立を画策したのは難升米のようで、それは神話のオモイカネ(思金、思兼)だと考えています。(2011年1~2月投稿)
其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初 遣使重譯入貢
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるが、その後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初め(泰始2年、266)にも倭人が遣使したというのです。
『日本書記』神功皇后紀は、泰始の初めの遣使は台与が行ったとしていますが、『晋書』武帝紀によると司馬昭が相だった258年~265年の7年間か、或いはそれ以前にも何度かの倭人の遣使があったことになり、その中に台与の後の男王(ホノニニギ)が中国の爵命を受けるための遣使があったとすることができます。
台与が即位して間もなく面土国王は卑弥呼死後の争乱の当事者として処罰され失脚するようです。王が2人居れば王位を巡る対立が起きるものですが、面土国王が排除されたことで台与は有名無実の王になり男王が立てられたようです。これが「天孫降臨」の神話になりますが、台与の後に男王が立ったこと自体がほとんど考えられていません。
図は倭人伝中の人物と高天ヶ原神話に登場してくる神を対比させたもので()内が倭人伝中の人物です。『日本書記』神功皇后紀は卑弥呼・台与を神功皇后だとしていますが、安本美典氏は卑弥呼を天照大神とし、台与を万幡豊秋津師比売とされています。
その名に「トヨ」の音が含まれていることやその系譜をみると、安本氏の言われるように万幡豊秋津師比売が台与の可能性がありますが、私は天照大神の別名のオオヒルメムチ(大日孁貴、卑弥呼)と『日本書記』第一の一書に見えるワカヒルメ(稚日女、台与)を合成したものが天照大神だと考えています。
白鳥庫吉はスサノオ(須佐之男・素戔鳴)を狗奴国の男王だとしていますが、これは面土国の存在が考えられていないことによるものであり、スサノオは面土国王であり宗像氏のはるかな遠祖です。
天照大神とスサノオの誓約(ウケヒ)で生まれたオシホミミ(忍穂耳・忍骨)は、葦原中国に降るために「天の浮橋」まで来て引き返しますが、これは卑弥呼の死後に男王が立ったが千余人が殺される争乱になったことが語られているようで、オシホミミは弥呼死後の男王だと考えてよさそうです。
台与は卑弥呼死後の争乱を決着させるために、13歳で即位した名目だけの女王でしたが、倭人伝の記述が終わる正始8年(247)から間もないころに、争乱の当事者だった面土国王(スサノオ)が排除されたことにより、女王の存在理由がなくなります。そこで台与を退位させ男王を立てることが考えられたと思います。
この男王がホノニニギですが、私はこの男王も名目だけの王で、その背後にキングメーカー(陰の実力者)が居て、2人の王を操っていると考えています。そのキングメーカーこそ倭人伝の大倭であり、それが神話のタカミムスヒ(高皇産霊、高御産巣日、高木神)だと考えます。
倭人伝中でその名が最も多く見えるのは7回の難升米ですが、難升米は魏から「率善中朗将」に任ぜられ、245年には黄幢・詔書を授与されています。大倭を補佐して台与の退位と台与の後の男王の擁立を画策したのは難升米のようで、それは神話のオモイカネ(思金、思兼)だと考えています。(2011年1~2月投稿)
其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初 遣使重譯入貢
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるが、その後も遣使は絶えることなく続き、司馬昭が相(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初め(泰始2年、266)にも倭人が遣使したというのです。
『日本書記』神功皇后紀は、泰始の初めの遣使は台与が行ったとしていますが、『晋書』武帝紀によると司馬昭が相だった258年~265年の7年間か、或いはそれ以前にも何度かの倭人の遣使があったことになり、その中に台与の後の男王(ホノニニギ)が中国の爵命を受けるための遣使があったとすることができます。
2012年3月18日日曜日
日向神話の構成 その1
新井白石・本居宣長以来続いている邪馬台国論争は決着する気配がありませんが、これは『古事記』や『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていることに始まる「ボタンの掛け違い」でしょう。最初のボタン穴を間違えると最後まで喰い違ってしまいますが、面土国の存在を認めない限り、この状態は永遠に続くと思います。
このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。
邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。
宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。
図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。
青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。
出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。
南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。
紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。
それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺跡で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。
狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。
卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)と博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。
イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。
このことは邪馬台国の位置論だけでなく神話にも関係してきます。白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』で卑弥呼を天照大神としスサノオは狗奴国の男王だとしていますが、スサノオは宗像郡と深い関係がある一方で出雲の山間部でも活発に活動することになっています。
邪馬台国=九州説では一般に狗奴国は肥後とされますが、スサノオが狗奴国の男王なら出雲に狗奴国、あるいは肥後との関係を思わせるものがあるはずですがそれがまったく見られません。スサノオは狗奴国の男王ではなく面土国王であり、面土国は宗像郡なのです。
宗像郡にはスサノオの所持する剣から生まれたとされている宗像三女神を祭神とする宗像大社があり、4世紀になると朝鮮半島と大和朝廷の関係を思わせる沖ノ島祭祀遺跡が出現してきますが、平成20年には弥生中期の田熊石畑遺跡で全国最多の銅剣・銅矛・銅戈15点が出土しました。宗像には面土国とするにふさわしい歴史があります。
図は出土した弥生時代人骨の形質を地域別に区分したものですが、赤色の実線は地学上の臼杵―八代構造線(九州山地)です。構造線は九州の南北の交通を分断しており、南北で文化の違いが見られます。
青銅祭器は通婚することにより巨大化した部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えていますが、臼杵―八代構造線の北側には多数の青銅祭器が見られるのに南側には殆ど見られず、肥前でも東半には見られるのに西半には見られません。
出土した弥生人骨の形質別分布という点からみると、佐賀県の中央部で東の北部九州・山口タイプと、西の西北九州タイプに分かれています。その特徴をみると北部九州・山口タイプは、身長が高く長頭で顔つきはのっぺりとしており、朝鮮半島からの渡来民が流入したことが考えられています。これを「渡来系弥生人」と呼ぶ考え方があります。
南西諸島と薩摩半島には南九州・南西諸島タイプがみられ、西北九州タイプと南九州・南西諸島タイプは、身長が低く短頭で、目鼻立ちがはっきりしていますが、西北九州と南九州・西南諸島には渡来民の流入がなく縄文時代以来の形質が残ったと考えられていて、これを「縄文系弥生人」と呼んでいます。西北九州と南九州・南西諸島との間にも差異があるそうです。
紀元前1世紀に中国と交渉を持った倭人の百余国は、中国・朝鮮半島製の青銅器を受け入れ、それを祭器に発展させた渡来系弥生人の形成する国であり、それが30ほどに統合されたものが後の女王国なのでしょう。それは臼杵―八代構造線以北であり、壱岐・対馬や松浦半島・糸島郡などの玄界灘・響灘沿岸が中心になっていたと考えます。
それには図に示されているように周防・長門(山口県)の響灘沿岸が含まれる可能性があります。周防灘と響灘の境に位置している宗像市田熊石畑遺跡で出土した銅剣・銅矛・銅戈15点は全国最多ですが、百余国と響灘沿岸の宗像、および周防・長門の関係を考える上で重要な意味を持っているように思います。
狗奴国は後世に熊襲と呼ばれるようになる西北九州の縄文系弥生人が形成する国で、後に律令制の肥後と肥前の西半分になるようです。肥前の東半は渡来系弥生人と融合し女王国に属していたと考えます。侏儒国は隼人と呼ばれるようになる南九州・西南諸島の縄文系弥生人の形成する国で、薩摩・大隅・日向になると考えています。
卑弥呼は天照大神であり、その卑弥呼を共立したのは面土国王(スサノオ)と博多湾沿岸の海人族(イザナギ)だと考えますが、博多湾沿岸にはイザナギに関係する福岡市の住吉神社や志賀島の志賀海神社があり、また福岡平野には須玖岡本遺跡などが、早良平野には吉武高木遺跡などがあります。
イザナギ・イザナミや天照大神・スサノオの神話、つまり高天ヶ原神話は博多湾を中心とする玄界灘・響灘沿岸で起きた、実際にあった渡来系弥生人の歴史であり、それに対しホノニニギの天孫降臨以後の日向神話は、渡来系弥生人の女王国が臼杵―八代構造線以南にあった縄文系弥生人の熊襲・隼人の国である狗奴国・侏儒国を統合したことが語られているようです。
2012年3月11日日曜日
倭面土国を考える その10
通説では王莽の新の時代に鋳造された「貨泉」の流通が停止され、五銖銭が復活した40年ころが中期と後期の境とされていますが、私は貨泉の鋳造が始まった7年ころを中期中葉とし、後漢第四代の和帝が在位した88~105年ころを後期の初めとするのがよいと思っています。
こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見
建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。
107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。
2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。
中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。
部族が神格化されて神話の神になりますが、その歴史を語り伝えたものが神話です。図は私の考えている神話の神が活動する場所ですが、このことは2011年5月、6月に投稿した「高天が原神話」で述べていますので参照してみてください。
イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。
イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..
奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。
奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。
倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。
以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。
こうすると面土国王の帥升が遣使した107年は後期の初頭になり、倭国大乱以後の3世紀を後期後半とすることができ、後期は部族連盟国家の倭国(後の女王国)の時代であり、3世紀後半に弥生時代が終わると考えることができます。『後漢書』倭伝に次のように記されています。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見
建武中元二年は57年ですが、その前年に後漢の光武帝が功績のあった皇帝(王)だけが行うことのできる「封禅の儀」を挙行しています。57年の遣使は「奉貢朝賀」とされていますから、奴国王が封禅の儀の挙行を祝う使者を送ったのに対し、光武帝は印綬を授与したのでしょう。
107年の面土国王帥升の遣使については「願請見」とあるだけで印綬が授与されたという記述がなく、帥升は倭王に冊封されていないという考え方がありますが、『後漢書』が帥升を倭国王としていることは冊封されて印綬も授与されたということでしょう。
2世紀の中国は幼帝の即位が続いて外戚・宦官が跋扈し、後漢王朝は次第に衰退していきますが、それに連動して倭国でも部族の対立が激化したようで、その結果が中広形の銅矛と銅戈の出土数に表れていると考えます。
中広形銅戈の出土数は銅矛を凌駕しますが、銅戈が多いのは奴国王に代わって面土国王が倭国を統治するようになることを示しているのでしょう。それが広形になると銅戈は3本ほどに激減し銅矛のみが目立つようになりますが、これは面土国王が卑弥呼を共立して倭王位を譲ったために、銅戈を配布した部族が衰退したことを表わしています。
イザナギは銅矛を配布した部族が神格化されたものであると同時に、銅矛を配布した部族に属していた安曇・住吉など博多湾沿岸の海人族でもあり、それに対しイザナミは銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王のようです。
イザナミは火の神カグツチを生んだために焼死し、出雲に葬られていることになっていますが、カグツチについては阿蘇山とその周辺、つまり狗奴国の部族だと考えています..
奴国王は部族国家の奴国の王であって倭王ではなく、狗奴国を統治する権限が無かったのでしょう。中期後半(1世紀)の中広形青銅祭器を見ると、九州には銅剣が殆ど見られなくなり、出雲に中細銅剣C類が、また瀬戸内に平型銅剣が現れますが、これが焼死したイザナミが出雲に葬られる神話になっているようです。
奴国王に代わって倭国を統治するようになるのが帥升ですが、帥升は部族国家の面土国の王でした。しかし奴国王と違って後漢王朝から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王になるようです。これが神話のスサノオです。
倭国大乱で卑弥呼(天照大神)を共立したのは面土国王(スサノオ)と、博多湾沿岸の海人族(イザナギ)、すなわち銅戈を配布した部族と銅矛を配布した部族です。卑弥呼を共立した後の面土国王は、かつての倭国王としての権威を保持しており、「自女王国以北」の諸国を「刺史の如く」に支配し、女王の行う外交々渉を捜露するようになります。
以前の投稿では触れていませんが、図ではホノニニギ(番能邇邇芸・火瓊瓊杵)の活動する場所を、通説で伊都国とされている糸島郡としています。いささか突飛な発想ですが最近気になっていて、このことについて述べてみたいものだと思っています。
2012年3月4日日曜日
倭面土国を考える その9
西嶋定生氏は倭面土国を古墳時代のヤマト国のことだとされているようですが、弥生時代が「部族制社会」であるのに対して古墳時代は「氏姓制社会」であり、更には「律令制社会」に変るという変遷が考えられていないように思います。
私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)
「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう。
通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。
同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。
奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。
55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)
紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。
冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。
倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十国になると考えます。
帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。
換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。
私は倭人が中国の冊封体制に組み込まれる紀元前1世紀以前には、律令制の郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、3世紀にはそれが統合されて部族連盟国家の倭国(女王国)になると考えています。(1910年8月投稿「部族 その4」)
「倭面土国王帥升等」の「等」は複数の倭人が遣使したことを表わすと考えられていますが、「等」は帥升が部族国家の面土国の王に過ぎないことを表わしており、『後漢書』などが帥升を倭国王とするのは帥升が部族連盟国家の倭国(後の女王国)の王でもあるということでしょう。
通説では奴国は福岡平野とされていますが、遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡がそれぞれ部族国家を形成していたが、それが統合されて戸数2万の奴国になると考えます。
同様に筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半にある10郡(10国)ほどが統合されて、戸数7万の邪馬台国が形成されたと考え、また筑後の7郡(7国)ほどが統合されて戸数5万の投馬国が形成されたと考えています。
奴・ 邪馬台・投馬の3国は20ほどの部族国家の統合された部族連盟国家だが、女王国は更に大きな部族連盟国家で、この3国は部族国家と女王国の中間の形態の国だと考えるのがよさそうです。
筑前を三郡山地で東西に2分した時の東半には面土国(宗像郡)と不弥国(遠賀郡)もあって、五つの部族国家が存在したと考えていますが、これに対馬国・一支国、および国名のみの21ヶ国を加えると約55ヶ国になりそうです。
55ほどの部族国家は筑前・筑後・豊前・豊後、及び肥前の佐賀県部分にあったと考えていますが、図に示しているようにそれが30国に統合されたものが女王国だと考えます。(2010年4月投稿「再考 国名のみの21ヶ国」)
紀元前108年に武帝が朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置しますが、後に4郡は楽浪郡を残して廃止されます。残された楽浪郡は朝鮮半島経営の拠点になり、倭人も前漢王朝の冊封体制に組み込まれます。
冊封体制では支配権の強弱に応じて授与される称号が異なり、支配地が広いことや支配する人民の多いことが高位の称号を得るための条件になります。そのため部族が形勢する部族国家は統合され、規模の大きな部族連盟国家を形成するようです。
倭人伝に「旧百余国、漢の時に朝見する者有り。今使譯の通じる所三十国」とありますが、中国の冊封体制に組み込まれたことにより、紀元前1世紀の百余国が1世紀には55国ほどに統合され、2世紀~3世紀にはさらに統合が進んで三十国になると考えます。
帥升が倭面土国王とされるのは、57年の奴国王と同様に55ほどの部族国家のうちの一国の王という意味であり、倭国王とされるのは30ほどに統合された部族連盟国家の王という意味だと考えています。
換言すると面土国王の帥升が後漢から倭国王に冊封されたことにより、部族連盟国家の倭国が誕生したと言えると思います。これが弥生時代中期から後期への転換点であり、青銅祭器が中細形から中広形に変わる原因になっていると考えます。
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