2012年4月29日日曜日

日向神話の構成 その7

『古事記』は高千穂峯に降臨したヒコホホデミ(台与の後の男王)について「高天原に氷ぎ(木篇に彖)たかしりて坐しき」と記しています。これだとヒコホホデミは高天ヶ原(邪馬台国)に居ことになりますが、同じ用例が『古事記』の大国主の国譲りの物語にもあります。

「唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめすとだる天の御巣如して、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に侍ひなむ」

日向神話では事勝国勝長狹が日向の国譲りをすることになっていますが、出雲神話では大国主が出雲を譲ることになっており、その代償としてホノニニギの住むような立派な宮殿を建てるように要求することになっています。この文でもホノニニギの住む宮殿は「高天原に氷木たかしりて」とあり、日向ではなく高天ヶ原にあったことになります。

私はホノニニギ(台与の後の男王)は高天ヶ原(邪馬台国)にいて日向(侏儒国)や出雲(倭種の国)の統合を指揮したのだと解釈し、それが決着した時点で神武天皇の東遷が始まると考え、ホノニニギが高天ヶ原にいることがヒコホホデミ(彦火火出見・火折)の海幸彦・山幸彦神話の伏線になっていると考えます。

ヒコホホデミの行った海神の宮の所在について、藤原貞幹の『衝口発』は「わたつみの宮と言うは、琉球の恵也島を言う。恵也島、天見島である」とし、薩摩の国学者白尾国柱は『神代山稜考』で「世の人の多くは南琉球であると言っている」としています。

しかし琉球(沖縄)にはホホデミの伝承はなく、それが見られるのは対馬と玄界灘の沿岸部です。『日本書記』の一書第四は事勝国勝長狹をイザナギの子としていますが、イザナギの「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の伝承は福岡平野に見られます。

図は日向神話の豊玉彦・玉依媛やヒコホホデミ・ウガヤフキアエズ、あるいはイザナギに関係する伝承を持つ神社ですが、ホノニニギが玄界灘の沿岸部と関係があってもおかしくはありません。このことを表わすのが糸島市の平原遺跡だと考えますが、その1号墓では径46,5センチの内行花文八葉鏡5面出土しています。

平原遺跡の年代は弥生時代終末から古墳時代初頭と考えられていて、これは私の考えるホノニニギの活動時期と一致します。それは台与が即位した247年ころ以後で、266年の倭人の遣使よりも以前だと考えます。発掘に当たった原田大六氏は武器の出土が少ないことから、女性の墓だと考え被葬者は大日孁貴だとしています。

大日孁貴は卑弥呼であり「日本書記」第一の一書に見える稚日女が台与で、両者を合成したものが天照大神だと考えますが、原田氏が平原遺跡と大日孁貴を結びつけたのは武器が少ないことの他に、玄界灘沿岸の神話伝承から平原遺跡も神話に関係があるという直感が働いたからだと思います。

平原遺跡出土の内行花文八葉鏡は、副葬された時点ですでに破片になっており、これについて原田氏は鈕が4個しかないことなどから、同時に鋳造されたのは4面で、そのうちの2面は完鏡に近いが、約1面と約3分の2が不足しているとしました。しかし残っているのは5面分であることが分かっています。

5面だとすると埋納された時点で半分以上がすでに無かったことになりますが、弥生時代終末期には直径7センチほどの小型仿製鏡や漢鏡を数個に分割した「分割鏡」が造られています。柳田康夫氏は当時大量の銅鏡が必要だったが、鏡の絶対量が不足したので小型仿製鏡や分割鏡が造られたとしています。

中国の諸王朝は帰順してきた者に官職を授け、それを証明する印綬を授与しましたが、文字を使用しない倭人には印綬は必要がありません。そこで台与や台与の後の男王(ホノニニギ)は、小型仿製鏡や分割鏡を授与したと考えます。つまり平原遺跡1号墓の被葬者は台与(天照大御神)か、台与の後の男王(ホノニニギ)だと考えるのです。

しかし中国の印綬と比較すると小型仿製鏡や分割鏡はあまりに貧弱です。そこで巨大な鏡が鋳造され、これを「分割鏡」にして帰順してきた有力者に配布しために半数以上が無かったのだと考えます。熊本県山鹿市方保田東原遺跡では小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、平原遺跡出土鏡の鏡片も長崎県や南九州から、ことによると出雲からも出土することになりそうです。

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