『日本書記』神功皇后紀三十九年条に、泰始2年(266)の遣使記事が引用されていることから、遣使したのは台与だと思われていますが、『晋書』武帝紀は司馬昭が相(総理大臣)だった258年~265年の7年間に何度かの倭人の遣使があったとしています。
倭人伝の記事は正始8年で終りますが、正始10年には司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。東夷伝には司馬懿のクーデター以後の記事はありませんが、これは中国の正史(公式史書)が司馬懿のクーデターまでを「三国時代」とし、クーデター以後を「晋時代」としているということでしょう。
したがって台与が掖邪狗らを魏都の洛陽に遣わしたのは266年ではなく、司馬懿のクーデター以前だと考えなければならず、掖邪狗らが魏に行ったのは正始8年か9年でしょう。掖邪狗が司馬懿のクーデターに遭遇したことも考えられます。
台与は卑弥呼の「宗女」だとされていますから、掖邪狗らを洛陽に遣わしたことにより台与も「晋魏倭王」に冊封されたでしょう。掖邪狗らが魏から帰国すると親魏倭王・台与の名のもとで、卑弥呼死後の争乱の当事者を処罰する軍事裁判が行われたと考えます。『古事記』には次のように記されています。
是に八百万神、共に議りて速須佐之男命に千位の置戸を負せ、亦鬚を切り手足の爪をも抜かしめて、神やらひやらひき。又食物を大気都比売に乞ひたまいき。爾に大気都比売、鼻・口及び尻より種々の味物を取り出して、種々作り具へて進る時、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて穢汙為て奉進ると、乃ち其の大気都比売を殺したまひき。
スサノオの乱暴・狼藉を怒った天照大御神は天の岩戸に籠もってしまい、天地は闇黒になります。そこで八百万神(多くの神々)は「天の安の河原」に集まって善後策を協議しますが、天照大御神が天の岩戸に籠もった原因はスサノオにあるとされています。
卑弥呼死後の争乱の原因は面土国王にあるとされて、多くの賠償が科され体刑が加えられ、さらには追放したというのです。この速須佐之男命は107年に遣使した帥升の140年後の子孫の面土国王であって、狗奴国の男王ではありません。
倭人伝に「自女王国以北の諸国」をあたかも中国の州刺史の如くに支配し、また女王と中国(魏)との外交を津で捜露していると見えるのもこの速須佐之男命であり、捜露の行われた津には後に宗像大社辺津宮(宗像市深田)が創建されると考えます。
高天ヶ原を追放されたスサノオは出雲の国の肥の川上(斐伊川)に降り、ヤマタノオロチ(八俣遠呂知・八岐大蛇)を退治することになっていますが、ここで考えなければならないのは、この時にスサノオがオオケツヒメ(大気都比売)を殺していることです。
同じ内容の物語が『日本書記』一書第十一にもあり、こちらでは天照大御神にウケモチ(保食神)を見てくるように命ぜられたツキヨミ(月夜見)が、命令に違えてウケモチを殺したために、天照大御神とツキヨミは「一日一夜隔て離れて住みたまふ」ようになったとされています。
オオケツヒメもウケモチも食物の神であることが共通しますが、私はこれを狗奴国の官の狗古智卑狗だと考え、オオケツヒメ・ウケモチが殺されたのは狗古智卑狗が殺されたということだと考えています。卑弥呼は狗奴国の男王に殺されたという説もありますがこれは正しくありません。
正始8年に帯方郡使の張政が倭国に来たのは、大夫の難升米に黄幢・詔書を届けるためでしたが、黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられるもので、天子(皇帝)が軍事指揮権を付与したことを表わし、同様のものに「節」があります。
難升米に黄幢・詔書が授けられたのは女王国と狗奴国が不和の関係にあることを魏に訴えたためでしたが、オオケツヒメ、あるいはウケモチが殺されるのは、難升米に軍事指揮権が付与されたことを表す黄幢・詔書が届いたことで、狗古智卑狗が殺されたということだと考えるのです。
女王国内では卑弥呼死後の争乱の事後処理によって面土国王が排除され、対外的には難升米に軍事指揮権が付与されたことにより、狗奴国との対立も解消したと考えますが、この時点で卑弥呼の時代とは政情が一変し、男王が立てられ全ての倭人を統一しようとする動きが出てくるのでしょう。神話ではこれがホノニニギの天孫降臨とされているようです。
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