『古事記』『日本書記』は神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしており、そこから伊都国=糸島市付近、奴国=福岡平野という通説が生れましたが、狗邪韓国を金海・釜山とするのも同様で、狗邪韓国は馬韓と辰韓の境界付近のようです。では『古事記』『日本書記』はどこを邪馬台国と思わせたいのでしょうか。
いうまでもなく畿内大和になりますが、『古事記』『日本書記』は邪馬台国だけでなく、107年に遣使した「倭面土国」もヤマト国と読ませて畿内大和のことだと思わせようとしているようです。このように考えると倭面土国王の帥升は仲衷天皇以前の天皇の中の誰かということになります。
松下見林は帥升を景行天皇だとしていますが、音が似ている点では垂仁天皇か祟神天皇になりそうです。結果的に見るとこの企てに乗ったのが京都大学教授の内藤湖南だと言えそうで、倭面土国を大和朝廷によって統一された日本だと考えています。
これに対し東京大学教授の白鳥庫吉は面は回の古字の誤りで「倭回土国」が正しいとし、これを「倭のウェィト国」と読んで伊都国のことだとしました。また慶應義塾大学教授の橋本増吉は「倭のマズラ国」と読んで末盧国のことだとしました。
内藤・白鳥の考えは現在にも大きな影響を与えていて、内藤湖南が邪馬台国=畿内説であるのに対し、白鳥庫吉は邪馬台国=九州説で、「「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と対比されていますが、先に解明されなければならないのは「倭面土国」の実態であり、それが解明されれば邪馬台国の位置論も自ずと決着すると考えています。
これは「倭面土国」と読むのか、「倭の面土国」と読むのかという問題でもありますが、この問題に取り組んだのが東京大学教授の西嶋定生氏で、西嶋氏は白鳥説を継承する立場にあります。西嶋氏は倭面土国について『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で次のように述べられています。
私はこの面土国については、今でも疑問を持っています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができないかぎり、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。
57年の奴国王の遣使と239年の卑弥呼の遣使の中間の107年に「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになるとされています。その「疑問」に関して『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)では次のように述べられています。
私はこの伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七~八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し、卑弥呼が女王になってから以後は、暦年邪馬台国を都とする第二次の倭国の女王に服属しながら、ただ名目的に王名を称していたのではないかと想定する。そして王の所在の記述のない他の諸国は、帥升を王とする倭国の出現以後、その統属ごとに、その王位を失うことになったのではあるまいか。
倭人伝の伊都国の記事に「世有王。皆統属女王国」とありますが、西嶋氏はこの王を倭国王帥升の子孫の伊都国王だと考え、57年に奴国王が遣使した時点ではまだ倭国は存在していなかったが、107年に帥升が遣使した時点で倭国が出現すると想定されています。
以上に述べたところの、二世紀初頭に出現した最初の倭国は伊都国を中心とするものであり、その倭国が一八〇年前後の「倭国の乱」で崩壊して、卑弥呼をその女王とし、邪馬台国をその都とする第二次倭国になったという想定は、わずかに女王国時代になっても伊都国のみに名目的な王が残存しているという一文によって推察したものであり、文献的に確認された事実ではない。
伊都国には一人の官と2人の副(副官)が居ますが、そのために名目的な王と実質的な官という2重の支配者がいるというのです。この2重の支配は卑弥呼が女王になってからのものであり、それ以前の倭国は伊都国王が支配していたとされています。
しかしこの想定は、上述した「其国」とは「倭国」のことであるという判断と、女王卑弥呼はそれ以前の倭国王の系譜を直接に継承するものではないという判断から、想定されたものである。そしてこの想定には、「倭国」形成以後、それに包含される諸国は、いずれもその王位を喪失した、ということが前提とされていることはいうまでもない。
文中の<「其国」とは「倭国」のことである>という点は中国社会科学院考古研究所々長で、中国考古学界の重鎮、王仲殊氏の見解との相違点でもあるようですが、こうしたことから面土国は存在せず、卑弥呼以前の男王は伊都国王だとされています。
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