2012年1月1日日曜日

神功皇后伝承を巡って その5

『神功皇后紀』の記述するところから見て物部・中臣氏など天神系氏族と蘇我氏など武内宿禰系氏族の対立には朝鮮半島の問題が絡んでいたことが考えられます。物部氏は河内を勢力基盤とする氏族ですが、その祖のニギハヤヒは天磐船に乗って天から降ってきたという伝承を持っています。

私はその天を遠賀川流域とする説に同意したいと思っていますが、九州には多くの物部氏の同族がいます。武内宿禰系氏族が朝鮮に出兵することを主張したのに対し、物部・中臣氏などの天神系氏族は九州の勢力と結んでこれに反対したのであろうと思います。

『日本書記』仲哀天皇紀八年条に岡県主の祖の熊鰐が周防の沙麼(山口県防府市)で天皇を出迎えたことや、伊覩県主の祖の五十迹手が穴門の引嶋(下関市彦島)で天皇を出迎えたことが見えます。

岡県は遠賀郡で倭人伝の不弥国だと考えています。また伊覩県は糸島郡ではなく田川郡だと考えます。朝鮮に出兵するには関門海峡を確保することが必要ですが、岡県主・伊覩県主などの祖たちは朝鮮出兵を認めたのでしょう。

しかし大倉主・菟夫羅媛のようにこれを認めないものもおり、仲哀天皇はこれを討伐しようとし強行したので、反対する者(熊襲)の矢を受けて死んだとされているのでしょう。こうした人々が応神天皇を擁立したのだと思います。

朝廷内部でも皇統を巡る、蘇我氏などの武内宿禰系氏族と物部氏などの天神系氏族の対立が始まっており、対立を解消するためには両者に無関係で奴国王の末裔でもある応神天皇を迎える必要があり、それを主導したのが物部氏だと考えます。このあたりに「九州王国」の存在が考えられるようになった遠因があるように思われます。

皇統を巡る対立は、奴国王の末裔である応神天皇を迎えたことで一時的に解消し、「河内王朝」と言われる時代になり、天皇の権威も高まって巨大な古墳が築かれますが、氏姓制は皇統を巡る豪族間の対立を煽る構造になっています。

武烈天皇が継嗣のないまま没すると、大伴金村は丹波の国桑田郡にいた仲哀天皇5世孫倭彦を天皇に迎えようとしますが、倭彦王は姿をくらまします。そこで越前の国三国(福井県坂井郡三国)から応神天皇5世孫の彦主人王の子とされる継体天皇が迎えられます。

大伴金村や物部氏などの天神系系氏族が仲哀天皇5世孫の倭彦王を迎えようとしたのでしょうが、倭彦王は豪族間の対立に巻き込まれるのを避けたのでしょう。そこで系蘇我氏などの武内宿禰系氏族が応神天皇6世孫とされる継体天皇を迎えるのだと考えます。

『古事記』では継体天皇は「近淡国より上り坐さしめて」となっていますが、継体天皇の母の振媛の本拠地は琵琶湖西岸の高島郡です。また神功皇后は琵琶湖東岸の米原市息長を本貫とする息長氏の一族とされています。

応神天皇が即位したことで紀伊半島周辺の武内宿禰系氏族と、物部氏などの九州から来たという伝承を持つ天神系氏族に加えて、近江・越前・山城など、近畿北部・北陸の豪族が皇統を巡る対立に加わってくることが考えられます。

武内宿禰系氏族と天神系氏族という概念は私の考えたもので、これが適切かどうかは分りませんが、それが許されるなら近畿北部・北陸の豪族は諸蕃系氏族と呼ぶことができそうです。この三者を結びつけているのが神功皇后のようで、神功皇后の母は新羅の王子・天之日矛の5世孫とされています。

三韓征伐の帰途に応神天皇が誕生するのは、応神天皇から継体天皇に至る皇統に諸蕃系氏族が関係するようになることを表しているのでしょう。また神功皇后の渡海は継体天皇22年の近江毛野臣の渡海から考え出されたものでしょう。

継体天皇21年に筑紫君磐井の乱が起きますが、近江毛野臣と磐井が友人であった事実はなさそうです。近江毛野臣の渡海から神功皇后の渡海が考え出され、それは金海・釜山を狗邪韓国と思わせるためであり、斉明天皇の朝鮮半島出兵を正当化するためであることが考えられます。

0 件のコメント:

コメントを投稿