遠賀川流域が「自女王国以北」だと考えていますが、そこは面土国王(スサノオ)が「刺史の如く」支配していました。それは鞍手郡の物部氏の遠祖との連合支配でしたが、台与の後の王(ホノニニギ)の即位に反対したために物部氏の支族が消滅するようです。
その後にホノニニギの「天孫降臨」が始まりますが、降臨するホノニニギをサルタヒコ(猿田彦・猨田彦)がアメノヤチマタ(天八達之衢)で待ち受けていました。私は伊都国を田川郡だと考えていますが、サルタヒコは伊都国で常治していた一大率だと思っています。
遠賀川流域では猿田彦(猨田彦)大神と陰刻された石塔をよく見かけますが、初めて見たのは北九州市の小倉城のもので強く印象に残っています。サルタヒコは道教の「道祖神」や山王信仰の猿と融合して、賽ノ神と同様に道路が交わる辻を守護する神とされています。
サルタヒコの石塔は田川郡香春町の鏡山の周辺に特に多く見られて、鏡山の隣の岩原・宮原では集落内に三〇基以上があります。香春と猿の関係については香春町採銅所の現人神社の祭神で、香春城主の原田義種を猿が救ったという伝承があり、猿を神の使いとする山王信仰の影響を受けているようで、石塔には「庚申」と刻まれているものもあります。
その後この地方で疫病が大流行し原田義種を救った猿の信仰が広がり「お猿様」と言われて親しまれていて、以前には現人神社の祭礼の日には北九州市などから臨時列車が編成されるほど賑わったということですが、この「お猿様」とサルタヒコが融合しているようです。
鏡山付近に猿田彦の石塔が多いのは山王信仰と無関係ではないようですが、猿田彦信仰は遠賀川流域や豊前に広く見られますから、鏡山付近に一大率、つまりサルタヒコが居たという伝承があったと考えるのがよさそうです。
国道201号線と322号線は鏡山で分岐しており、201号線は行橋方面に、322号線は小倉方面に到りますが、201号線が律令制官道の田河路になります。鏡山のように道路が四通八達している交通の要所が賽ノ神・庚申や猿田彦が祀られる場所になっています。
私は奴国の「東南至奴国百里」を宗像郡(面土国)と鞍手郡(奴国)の郡境の猿田峠だと考えていますが、猿田と言う地名から見てここに一大率配下の兵が配置され、面土国と奴国を監視していたようです。直方市にも猿田があり猿田彦神社があります。
猿田峠の西側(宗像市)には猿田という集落があり、その隣の高六にはサルタヒコを祭る神社があります。小さな神社ですが行橋市草場の豊日別宮(草葉神社)と関係があるようです。私は高六を猿田だと勘違いしていましたが、猿田にも神社があるようで、おそらくサルタヒコかトヨヒワケ(豊日別)が祭神でしょう。
さて先払いの者が帰ってきてアメノヤチマタ(天八達之衢)に一人の神がいると報告しましますが、これがサルタヒコでいかにも恐ろしげな姿です。私はこれを倭人伝に見える「自女王国以北。特置一大率検察諸国。畏憚之」の、諸国が一大率を畏れ憚っているさまを描写していると考えています。
「一人の神が天八達之衢に居ます。その鼻の長さは七咫、背の長さは七尺余り。まさに七尋と言うべきでしょう。また口尻は明るく輝いています。眼は八咫鏡のようで照り輝く様子は赤いホオズキに似ている」という。
後にこれが山王思想(修験道)と結びついて想像上の天狗になるようです。ホノニニギに随行する神を遣わして何者なのか問わせようとしますが、その姿が恐ろしくて誰も問いかけることができません。そこでアメノウズメ(天鈿女・天宇受売)が遣わされます。
天鈿女はその胸乳を露に出して、裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ。此の時に衢神(ちまたのかみ)は問いかけて「天鈿女、汝が為しているのは何の故があっての事か」という。答えて「天照大神の子の行こうとされる道路に、このように居るのは誰か、敢て(あえて)問う」と言う。
この神話ではサルタヒコとアメノウズメがペアで活動していますが、アメノウズメの胸乳を露出し裳帯を臍の下に押し垂れて、あざ笑って向き立つ姿は、天照大神の籠っている天の岩戸の前での光景と共通しています。
これはシャーマンが神懸かりしている状態のようで、アメノウズメにはシャーマンとしての性格が見られます。この神話についてはサルタヒコとアメノウズメの子孫とされている猿女君の性格を知ること、及び「敢て(あえて)問う」と言っていることの意味を考えてみる必要がありそうです。
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