2011年2月20日日曜日

台与の後の王 その5

一月に投稿した「宇佐説・その4」で、台与の時代には周防灘沿岸の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったであろうことを述べましたが、「自女王国以北」を支配していた面土国王と、それに加担する物部の支族が滅亡したことでそれが加速するようです。

ホノニニギ(火瓊瓊杵・穂邇々芸)には天孫降臨の事績があり、フツヌシ(經津主)・タケミカズチ(武甕槌)の平定した葦原中国に降臨することになっていますが、葦原中国は出雲、あるいは大和だと考えられています。ところがホノニニギの降臨先は出雲でも大和でもなく日向とされています。

中国の諸王朝は敵対する大勢力の出現することを警戒して、冊封体制で支配領域を稍(260キロ四方)に制限していましたから、台与の後の王(ホノニニギ)が出雲や大和を支配するには冊封体制が障害になります。ホノニニギの降臨先が出雲や大和でないのは、まだ魏(あるいは晋)の冊封体制から離脱できていなかったということでしょう。

倭の五王の時代(413~502)には明らかに大和朝廷は存在していますから、倭人が中国の冊封体制から離脱したのは、倭人伝の記述の終わる247年から413年の間で、この間に大和朝廷が成立するのでしょう。

具体的には265年以後の3世紀後半だと考えていますが、とすれば266年の倭人の遣使の意味を考えなければならなくなります。『日本書紀』は266年に遣使したのは台与だと思わせようとしていますが、私はこれを神武天皇の東遷を成功させるためには、晋の爵号が必要だったと考えています。

日向(日向・大隈・薩摩の3国)が侏儒国ですが、台与と竝んで(並んで)男王が中国の爵命を受けたというのは、女王国では台与が在位したままで、男王は侏儒国の支配者としての爵命を受けたのだと解釈し、これが天孫降臨の意味だとすることもできそうです。

図は女王国(筑紫)と侏儒国(日向)の間に地質学上の中央構造線が通っていることを示していますが、構造線は大規模な断層で南北の交通を分断していて、九州の古代文化は中央構造線を境にして大きく異なります。

北側は朝鮮半島からの渡来民と縄文人が混血した「渡来系弥生人」の文化圏ですが、その経済基盤は稲作を中心とする農耕で、通婚関係の生じた宗族が部族を形成しており、銅矛・銅戈を配布したようです。

南はいわゆる縄文系弥生人の熊襲・隼人の文化圏で、青銅祭器は豊後の南部を除いてほとんど見られなくなります。これは中央構造線が南北の交通を阻害しているために、朝鮮半島からの渡来民と土着縄文人の通婚がなかったからでしょう。

中央構造線の南側は、日向灘沿岸部は比較的に平坦ですが、北部は山岳地帯で、南部はシラス・ボラと呼ばれる火山の噴出物に覆われているところが多く、稲作に適していません。こうしたことから狩猟民的・海洋民的な性格が強いことが考えられていています。

構造線の南北では文化の違いが見られますが、その境界は緑川流域になっています。緑川以北では中期に北部九州の須玖式土器の影響を受けた黒髪式土器が見られますが、緑川以南には見られません。青銅祭器が見られるのも緑川流域までです。

後期後半になると緑川以南の人吉盆地を中心にして流麗な長頚壷を特徴とする免田式土器が現れてきます。狭義の熊襲はこの文化を持っていた人々のようです。肥後が狗奴国だと考えていますが、狗奴国は異質の二つの文化を包含した国だったようです。

倭人伝は狗奴国の王を卑弥狗呼とし、その官に狗古智卑狗がいるとしていますが、狗古智卑狗は中央構造線の北側の菊池川流域の支配者のようです。難升米は239年に率善中郎将に任ぜられていますが、247年に帯方郡使の張政が難升米に届けた黄幢・詔書は、難升米に武官位が追加付与されたことを表しているようです。

難升米はこれを大義名分にして狗古智卑狗を殺すようです。狗古智卑狗が殺されたのに続いて緑川以南が統合され、さらには南の侏儒国の統合が行なわれたと考えますが、天孫降臨の神話には台与の後の王の時に中央構造線以南が統合されたことが語られているようです。

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