倭人伝の記事は台与が掖邪狗ら20人を魏に遣わした時点で終わっていますが、これは帯方郡使の張政の送還を兼ねたものでした。留学生などならいざ知らず郡使には任務を果たすと復命する義務がありますから、張政が266年まで倭国に居たとは考えられません。
掖邪狗らが魏に遣わされたのは247年か翌248年で、帰国したのは248年か翌249年でしょう。ところが掖邪狗らが魏都の洛陽に居たかも知れない249年(正始10年)に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握しています。
以後の魏の皇帝の廃立は司馬氏の思うままでした。司馬懿の子の司馬昭が相国として魏の実権を握っていたのは258年~265年の7年間でしたが、260年に皇帝の高貴郷公は下臣に「司馬昭之心、路人皆知」と言って、逆クーデターを決行します。
高貴郷公は殺され司馬昭は元帝を擁立しますが、その翌年に韓と濊貊が遣使しています。司馬昭の演出した元帝の即位を祝う遣使だったのでしょう。この時倭人が遣使したという記録はありませんが、倭人も元帝の即位を知っていたことが考えられます。
『晋書』武帝紀は司馬昭が相国だった7年間に、何度かの倭人の遣使があったとしていますが、卑弥呼の例からみて遣使は3度か4度だったでしょう。その3・4度の遣使のうちに、元帝の即位を祝う遣使があったことが考えられます。
通説では266年に遣使したのは台与だとされていますが、司馬昭の時代に何度かの倭人の遣使があったのであれば、司馬昭が相国だった時かそれ以前に台与と、台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けている可能性があります。
2世紀末の倭国大乱は後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなったことに原因がありますが、司馬昭が相国だったのは魏が滅びる265年までの7年間でした。司馬昭は表面では元帝を皇帝として立てていましたが冊封体制は機能しなくなっていたでしょう。
司馬懿のクーデター決行以後、魏から「親魏倭王」に冊封された台与の権威が失墜し統治が不安定になるようです。文献にはありませんが、これを打開するために司馬昭の兄の司馬師の時にも倭人の遣使があったことを考える必要があるように思います。
249年(正始10年)以後、台与の王権は次第に弱体化し、男王を立てて倭国を統一する動きが出てくるようですが、このような動きが出てくるのは単に冊封体制が機能しなくなっただけでなく、倭国内の事情もあったようです。
それは女王を共立しなければならなかった倭国内の対立が消滅したことが原因になっているようです。私は2世紀末の倭国大乱も卑弥呼の死後に起きた千余人が殺される争乱も、銅矛を配布した部族と銅戈を配布した部族の倭王位を巡る対立だったと考えています。
倭国大乱を境にして銅矛・銅戈は中広形から広形に変わっていくようですが、後期前半の中広形の段階では銅矛・銅戈は同数か、むしろ銅戈のほうが多いように見えます。ところが後半の広形になると銅矛は増加し、逆に銅戈は3本ほどに激減しています。
倭国大乱で面土国王は卑弥呼を共立し、倭国王位を譲り渡します。このために銅戈を配布した部族は劣勢になり銅矛を配布した部族が優勢になるようです。しかし劣勢にはなったものの広形銅戈は配布されており、銅戈を配布した部族が消滅したわけではありません。
卑弥呼が死ぬと銅矛を配布した部族が男王を擁立しますが、銅戈を配布した部族はこれを認めず千余人が殺される争乱になり台与が共立されるようです。即位した台与は掖邪狗ら20人を魏に遣わしますが、台与も「親魏倭王」に冊封されたでしょう。
掖邪狗らが魏から帰国すると、卑弥呼死後の争乱の当事者が「親魏倭王・台与」の名のもとに処罰され、面土国王は滅ぼされ銅戈を配布した部族が消滅するようです。このことは以前の投稿でも述べましたが、これがスサノオの追放の神話になっています。
面土国王が滅ぼされたことは倭国大乱で卑弥呼を共立し、また卑弥呼死後の争乱で台与を共立した一方の当事者がいなくなったということであり、女王の存在する理由がなくなったということです。こうして台与を退位させ男王を立てようとする動きが出てくるようです。
しかし台与を退位させることに反対する者があり、その妥協策として台与と男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けるようで、名目上の王の台与と実質上の男王という「二人の王」がいた時期があったと考えます。反対したのは物部の一支族だったと考えていますが、台与が退位すれば卑弥呼死後の争乱のような状態が再発しかねない状況だったのでしょう。
2011年1月30日日曜日
2011年1月23日日曜日
台与の後の王 その1
2世紀末の倭国大乱の結果卑弥呼が共立されますが、畿内説では卑弥呼が即位したころ、あるいはそれ以前に畿内と北部九州が統合されていたことになります。一方の九州説だと神武天皇の東遷のような、九州勢力の畿内への移動を考える必要があります。
中国の諸王朝は異民族の強大な国が出現して敵対することを警戒して、その有力者に中国の官職を与えて懐柔する一方で、その支配領域を六百里四方(260キロ四方)に制限して分断を図りました。西島定生氏はこのような関係を「冊封体制」と言っています。
六百里四方に制限されていたというのは私の考えで、西島氏がそのように言われたのではありませんが、こう考えると東夷伝の地理記事が容易に理解できるようになります。六百里四方を「稍」と言い、「稍」には「王城を去ること三百里」という意味もあります。
韓伝・倭人伝以外の諸伝は六百里四方を「方二千里」としていますが、この場合の千里は130キロになります。倭人伝には「稍」の存在を思わせる記述はありませんが、韓伝・倭人伝の六百里四方は「方四千里」とされていて、この場合の千里は65キロになります。
卑弥呼も239年に魏から「親魏倭王」に冊封されますが、その支配領域は方六百里(260キロ四方)に制限されていました。そうであれば邪馬台国が畿内(大和)にあっても北部九州を支配することはできず、逆に邪馬台国が北部九州(筑紫)にあっても畿内を支配することはできません。
それどころか出雲や吉備(出雲)も支配できません。「稍」を認めると倭国大乱以前に畿内と北部九州が統合されていたとする畿内説は成立せず、それは倭人伝の記述の終わる正始8年(247)以後に畿内と北部九州が統合されたことになります。
247年以後に九州勢力の畿内への進出があったのか、逆に畿内勢力が北部九州を統合したかが問題になります。確かに三角縁神獣鏡や初期古墳の年代は247年以後でしょうが、畿内説では統合されたのは247年よりも以前になりますから、247年以後に畿内が九州を統合したとするには別の説明が必要です。
『古事記』『日本書記』の記述するところでは、九州勢力が畿内への進出したことになり、その前段階で出雲・吉備が統合され、四国が統合されたことになります。前回投稿の『宇佐説・その4』では、247年以後には安国寺式土器分布圏の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったと述べましたが、今回は「その後」を述べてみたいと思います。
『日本書記』神功皇后紀は『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされていますが、『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける
「竝」には同列に並べるという意味があり、この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられています。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃のことを言っていると考えることもできそうですが、年代差があまりにも大き過ぎます。『晋書』武帝紀に次の文が見えます。
其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるがその後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使したというのです。
265年に晋の武帝が即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使していますが、これが「泰始初、遣使重譯入貢」です。『晋書』武帝紀によると台与の即位した247年から266年までの間に何度かの倭人の遣使があったことになります。
台与の後の男王の末裔が「倭の五王」の讃だと考えることもできそうですが、これでは266年の遣使が説明できません。『晋書』武帝紀の記事では266年よりも以前に、台与の後の男王が中国の爵命を受けるために遣使したとすることが可能になってきます。
中国の諸王朝は異民族の強大な国が出現して敵対することを警戒して、その有力者に中国の官職を与えて懐柔する一方で、その支配領域を六百里四方(260キロ四方)に制限して分断を図りました。西島定生氏はこのような関係を「冊封体制」と言っています。
六百里四方に制限されていたというのは私の考えで、西島氏がそのように言われたのではありませんが、こう考えると東夷伝の地理記事が容易に理解できるようになります。六百里四方を「稍」と言い、「稍」には「王城を去ること三百里」という意味もあります。
韓伝・倭人伝以外の諸伝は六百里四方を「方二千里」としていますが、この場合の千里は130キロになります。倭人伝には「稍」の存在を思わせる記述はありませんが、韓伝・倭人伝の六百里四方は「方四千里」とされていて、この場合の千里は65キロになります。
卑弥呼も239年に魏から「親魏倭王」に冊封されますが、その支配領域は方六百里(260キロ四方)に制限されていました。そうであれば邪馬台国が畿内(大和)にあっても北部九州を支配することはできず、逆に邪馬台国が北部九州(筑紫)にあっても畿内を支配することはできません。
それどころか出雲や吉備(出雲)も支配できません。「稍」を認めると倭国大乱以前に畿内と北部九州が統合されていたとする畿内説は成立せず、それは倭人伝の記述の終わる正始8年(247)以後に畿内と北部九州が統合されたことになります。
247年以後に九州勢力の畿内への進出があったのか、逆に畿内勢力が北部九州を統合したかが問題になります。確かに三角縁神獣鏡や初期古墳の年代は247年以後でしょうが、畿内説では統合されたのは247年よりも以前になりますから、247年以後に畿内が九州を統合したとするには別の説明が必要です。
『古事記』『日本書記』の記述するところでは、九州勢力が畿内への進出したことになり、その前段階で出雲・吉備が統合され、四国が統合されたことになります。前回投稿の『宇佐説・その4』では、247年以後には安国寺式土器分布圏の宇佐や草野津が九州勢力の東方進出の拠点になったと述べましたが、今回は「その後」を述べてみたいと思います。
『日本書記』神功皇后紀は『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされていますが、『梁書』『北史』は台与の後に男王が立ったことを伝えています。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける
「竝」には同列に並べるという意味があり、この文には臺與(台与)の後に男子が王になったことが述べられています。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃のことを言っていると考えることもできそうですが、年代差があまりにも大き過ぎます。『晋書』武帝紀に次の文が見えます。
其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
文帝は司馬懿の子の昭のことで、239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるがその後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使したというのです。
265年に晋の武帝が即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使していますが、これが「泰始初、遣使重譯入貢」です。『晋書』武帝紀によると台与の即位した247年から266年までの間に何度かの倭人の遣使があったことになります。
台与の後の男王の末裔が「倭の五王」の讃だと考えることもできそうですが、これでは266年の遣使が説明できません。『晋書』武帝紀の記事では266年よりも以前に、台与の後の男王が中国の爵命を受けるために遣使したとすることが可能になってきます。
2011年1月16日日曜日
宇佐説 その4
「高天が原神話」は出雲や日向の神話と対比されて「筑紫神話」とも呼ばれますが、その舞台は筑紫だと考えてよさそうです。そうであれば筑紫に高天が原で活動する神を祭る神社があってもよさそうなものですが、それが多くありません。
天照大神は伊勢で祭られ、宗像大社で祭られていても良さそうなスサノオは出雲や紀伊で祭られ、イザナギ・イザナミも淡路・出雲・紀伊・近江で祭られ、これらの神の子神だけが取り残されたように筑前で祭られています。
筑紫にあった政治の中心が大和に移ると、主要な神は九州から大和とその周辺に移動しますが、さらに各地で応神天皇・神功皇后が祀られるようになったことで、九州の神社の祭神が変わるのでしょう。宇佐氏・辛島氏の祀る大日靈・豐比賣は比賣大神になり、宗像氏・大神氏が祭っていたのはスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
神功皇后紀の編纂者は天照大神を中心とする九州勢力の歴史観に異質なものを感じているようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っていて、その上で卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせて天照大神の痕跡を消そうとしています。
神功皇后紀の編纂者は初期の大和朝廷、いわゆる葛城王朝が卑弥呼・台与の王統を継承していると称したのに対して、政治の中心は九州から畿内に移って大和朝廷は確立しており、卑弥呼・台与の王統を継承していると称する必要はないと言いたいようです。このことは次のような点からも考えられます。
1、2世紀の面土国は筑前宗像郡
2、3世紀の伊都国・奴国は玄界灘沿岸ではなく遠賀川流域
3、草野津・宇佐は玄界灘ではなく周防灘に面している
57年に遣使した奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡であり、107年に遣使した面土国は宗像郡だと考えていますが、1世紀中葉から2世紀の時点で、中心は玄界灘沿岸から筑前東部の遠賀川流域に移っているようです。
さらに3世紀前半の卑弥呼の王城は玄界灘沿岸を離れて内陸の朝倉郡に移ると考えています。倭国大乱で共立された卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、玄界灘沿岸を避けたことも考えられますが、朝倉郡が筑前、筑後、豊前・豊後の地理上の中心になることが考慮されているのでしょう。
3世紀中葉の台与の時代には、文化の中心が玄界灘沿岸や筑前東部の遠賀川流域から周防灘沿岸に移り、宇佐や長峡川々口の草野津が重視されるようになると考えます。
図は後期後半の土器の分布圏ですが、九州説では高三潴式が邪馬台国の土器になり、畿内説だと唐古Ⅴ式が邪馬台国の土器ということになりそうです。
肥後と肥前の長崎県部分の土器が狗奴国の土器であり、薩摩・大隅の土器が侏儒国の土器ですが、これらは土着性の強い土器です。それに対し豊前・豊後・日向に分布する安国寺式は畿内や瀬戸内の土器の影響を受けていると言われています。
これは地理的な条件から九州西部が畿内や瀬戸内と交流を持つことができなかったということで、女王国が畿内や瀬戸内との交流の拠点としたのが安国寺式土器分布圏の宇佐であり、また長峡川河口の草野津であったと考えます。
瀬戸内海の航路を考えると高三潴式と唐古Ⅴ式の中間の土器が安国寺式ということになります。物的根拠が少ないのが難点ですが、台与の時代から3世紀後半に弥生時代が終わるまで、文化の中心は安国寺式土器の分布圏だったと考えます。
四国西部に広形銅矛の見られることはよく知られていますが、安国寺式土器の分布圏が中心になったことで、山陰の青木Ⅱ式や吉備の上東式の分布圏との接触も始まるのでしょう。神武天皇の東遷の出発点が日向の美々津とされ、途中、宇佐に立ち寄るとされているのも無関係ではないようです。
この時期の記憶が『豊前国風土記』の京都郡の郡名の由来や、宇佐神宮の比賣大神に残って、京都郡や宇佐郡を邪馬台国とする説が生まれたのであり、このことが認識されていないために、玄界灘沿岸と大和との文化の関連性が不明瞭になるようです。
天照大神は伊勢で祭られ、宗像大社で祭られていても良さそうなスサノオは出雲や紀伊で祭られ、イザナギ・イザナミも淡路・出雲・紀伊・近江で祭られ、これらの神の子神だけが取り残されたように筑前で祭られています。
筑紫にあった政治の中心が大和に移ると、主要な神は九州から大和とその周辺に移動しますが、さらに各地で応神天皇・神功皇后が祀られるようになったことで、九州の神社の祭神が変わるのでしょう。宇佐氏・辛島氏の祀る大日靈・豐比賣は比賣大神になり、宗像氏・大神氏が祭っていたのはスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
神功皇后紀の編纂者は天照大神を中心とする九州勢力の歴史観に異質なものを感じているようです。神功皇后紀は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っていて、その上で卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせて天照大神の痕跡を消そうとしています。
神功皇后紀の編纂者は初期の大和朝廷、いわゆる葛城王朝が卑弥呼・台与の王統を継承していると称したのに対して、政治の中心は九州から畿内に移って大和朝廷は確立しており、卑弥呼・台与の王統を継承していると称する必要はないと言いたいようです。このことは次のような点からも考えられます。
1、2世紀の面土国は筑前宗像郡
2、3世紀の伊都国・奴国は玄界灘沿岸ではなく遠賀川流域
3、草野津・宇佐は玄界灘ではなく周防灘に面している
57年に遣使した奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡であり、107年に遣使した面土国は宗像郡だと考えていますが、1世紀中葉から2世紀の時点で、中心は玄界灘沿岸から筑前東部の遠賀川流域に移っているようです。
さらに3世紀前半の卑弥呼の王城は玄界灘沿岸を離れて内陸の朝倉郡に移ると考えています。倭国大乱で共立された卑弥呼はどの国に対しても中立でなければならず、玄界灘沿岸を避けたことも考えられますが、朝倉郡が筑前、筑後、豊前・豊後の地理上の中心になることが考慮されているのでしょう。
3世紀中葉の台与の時代には、文化の中心が玄界灘沿岸や筑前東部の遠賀川流域から周防灘沿岸に移り、宇佐や長峡川々口の草野津が重視されるようになると考えます。
図は後期後半の土器の分布圏ですが、九州説では高三潴式が邪馬台国の土器になり、畿内説だと唐古Ⅴ式が邪馬台国の土器ということになりそうです。
肥後と肥前の長崎県部分の土器が狗奴国の土器であり、薩摩・大隅の土器が侏儒国の土器ですが、これらは土着性の強い土器です。それに対し豊前・豊後・日向に分布する安国寺式は畿内や瀬戸内の土器の影響を受けていると言われています。
これは地理的な条件から九州西部が畿内や瀬戸内と交流を持つことができなかったということで、女王国が畿内や瀬戸内との交流の拠点としたのが安国寺式土器分布圏の宇佐であり、また長峡川河口の草野津であったと考えます。
瀬戸内海の航路を考えると高三潴式と唐古Ⅴ式の中間の土器が安国寺式ということになります。物的根拠が少ないのが難点ですが、台与の時代から3世紀後半に弥生時代が終わるまで、文化の中心は安国寺式土器の分布圏だったと考えます。
四国西部に広形銅矛の見られることはよく知られていますが、安国寺式土器の分布圏が中心になったことで、山陰の青木Ⅱ式や吉備の上東式の分布圏との接触も始まるのでしょう。神武天皇の東遷の出発点が日向の美々津とされ、途中、宇佐に立ち寄るとされているのも無関係ではないようです。
この時期の記憶が『豊前国風土記』の京都郡の郡名の由来や、宇佐神宮の比賣大神に残って、京都郡や宇佐郡を邪馬台国とする説が生まれたのであり、このことが認識されていないために、玄界灘沿岸と大和との文化の関連性が不明瞭になるようです。
2011年1月9日日曜日
宇佐説 その3
国名のみの21ヶ国の最後の奴国は豊後直入郡だと考えていますが、その直入郡の郡境の祖母山には大神氏の始祖伝承があり、また大野川流域には大神氏の伝承が幾つもあります。そして『後漢書』には次の文があります。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり
この奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻、穂波の3郡だと考えます。また「倭國の極南界なり」と倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じで、「倭國の極南界」とは倭人伝の国名のみの21ヶ国の最後の奴国のことだと考えています。
その極南界の奴国が豊後直入郡であり、大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようです。豊後の大神氏については大和の大神氏の分流という説もありますが、1世紀には大野川流域の大野郡・直入郡を勢力基盤にしていました。国名が同じであることから見ても、遠賀川流域の奴国王と密接な関係にあることが推察されます。
前回述べたように宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖のようで、筑前の宗像氏とも同族関係にあったようです。宗像氏の遠祖が面土国王ですが、面土国王は「自女王国以北」の面土国・奴国・不弥国を「州刺史の如く」支配していました。
面土国王は卑弥呼と対立するような関係にあったようですが、大神氏は面土国や奴国と連携しつつ豊前に勢力を伸張し、宇佐氏の大日靈(おおひるめ)、辛島氏の豐比賣(豐比咩)に対抗して、宇佐神宮に宗像3女神の信仰を持ち込むと考えます。
九州は南北に長く中央に山塊がありますが、その山塊を源流とする河川流域が東西の交通路になっています。そのうちでも豊後の筑後川・大分川流域と大野川流域、及び豊前の長峡川流域の道が重視され、律令時代には大宰府を中心とする官道として整備されています。
大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て、長峡川河口の草野津(かやのつ)に到るのが「田河路」で、そこには奴国と伊都国がありましたが、卑弥呼・台与は伊都国(田川郡)に一大率を配置して長峡川河口の草野津を確保し、豊前北部の辛島氏を支配していたでしょう。
大宰府から筑後川・大分川沿いに豊後灘に到るのが「豊後路」で、大野川沿いに豊後と肥後を結ぶのが「豊後・肥後路」ですが、豊後・肥後路沿いは大神氏の勢力基盤です。銅矛・銅戈の分布から見て、豊後路沿いの地域には大神氏の支配は及んでいなかったようです。
律令制官道ではありませんが、豐築国境に英彦山を主峰とする山塊があるという地理的条件から、日田郡で豊後路から分岐して周防灘に到る山国川沿いの道と、玖珠郡で分岐して周防灘に到る駅館川沿いの道があって、周防灘と筑後川流域を結び付けています。
駅館川沿いの道は宇佐氏の勢力圏ですが、ここが豊前と豊後の境になります。卑弥呼・台与は豊前・豊後を宇佐氏に統治させ、大神氏の勢力が豊後路に及ぶのを阻止させたと考えます。それは周防灘を支配下に置いて吉備や大和との海路を確保するということでもあるようです。
倭人伝には記述がありませんが、宇佐には田河路における伊都国(田川郡)のような役割があり、宇佐氏は一大率のような立場にあったのでしょう。それに対し大神氏は「自女王国以北」の面土国王や奴国王と連携して、豊後を「刺史の如く」支配していたと考えます。
宇佐と卑弥呼・台与には関係がありそうですが、邪馬台国とする積極的な根拠は見えません。宇佐は豊後北部を勢力圏とする辛島氏、豊前南部を勢力圏とする土着の宇佐氏、そして豊後の大神氏という3勢力の抗争の地だったでしょう。
朝廷が宇佐神宮に遣わす勅使を「宇佐使い」と言い、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件のように、かつては伊勢神宮よりも重視されていました。伊勢神宮の祭祀が確立する以前の天照大神は宇佐で祭られていたのでしょう。
天照大神が伊勢で祭られるようになって、宇佐氏の祀る大日靈(天照大神、卑弥呼)は伊勢神宮内宮の天照大神になり、辛島氏の祀る豐比賣(豐比咩、台与)は外宮の豊受大神になると考えると面白いと思います。
その理由はよくわかりませんが、宇佐に神功皇后が祭られるようになったことで、大日靈と豐比賣は合成されて比賣大神になり、大神氏が祭っていたのは、元来はスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人は大夫と自称する。倭國の極南界なり
この奴国は遠賀川流域の鞍手・嘉麻、穂波の3郡だと考えます。また「倭國の極南界なり」と倭人伝の「女王の境界の尽きる所」とは同じで、「倭國の極南界」とは倭人伝の国名のみの21ヶ国の最後の奴国のことだと考えています。
その極南界の奴国が豊後直入郡であり、大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようです。豊後の大神氏については大和の大神氏の分流という説もありますが、1世紀には大野川流域の大野郡・直入郡を勢力基盤にしていました。国名が同じであることから見ても、遠賀川流域の奴国王と密接な関係にあることが推察されます。
前回述べたように宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖のようで、筑前の宗像氏とも同族関係にあったようです。宗像氏の遠祖が面土国王ですが、面土国王は「自女王国以北」の面土国・奴国・不弥国を「州刺史の如く」支配していました。
面土国王は卑弥呼と対立するような関係にあったようですが、大神氏は面土国や奴国と連携しつつ豊前に勢力を伸張し、宇佐氏の大日靈(おおひるめ)、辛島氏の豐比賣(豐比咩)に対抗して、宇佐神宮に宗像3女神の信仰を持ち込むと考えます。
九州は南北に長く中央に山塊がありますが、その山塊を源流とする河川流域が東西の交通路になっています。そのうちでも豊後の筑後川・大分川流域と大野川流域、及び豊前の長峡川流域の道が重視され、律令時代には大宰府を中心とする官道として整備されています。
大宰府から遠賀川上流部・田河郡を経て、長峡川河口の草野津(かやのつ)に到るのが「田河路」で、そこには奴国と伊都国がありましたが、卑弥呼・台与は伊都国(田川郡)に一大率を配置して長峡川河口の草野津を確保し、豊前北部の辛島氏を支配していたでしょう。
大宰府から筑後川・大分川沿いに豊後灘に到るのが「豊後路」で、大野川沿いに豊後と肥後を結ぶのが「豊後・肥後路」ですが、豊後・肥後路沿いは大神氏の勢力基盤です。銅矛・銅戈の分布から見て、豊後路沿いの地域には大神氏の支配は及んでいなかったようです。
律令制官道ではありませんが、豐築国境に英彦山を主峰とする山塊があるという地理的条件から、日田郡で豊後路から分岐して周防灘に到る山国川沿いの道と、玖珠郡で分岐して周防灘に到る駅館川沿いの道があって、周防灘と筑後川流域を結び付けています。
駅館川沿いの道は宇佐氏の勢力圏ですが、ここが豊前と豊後の境になります。卑弥呼・台与は豊前・豊後を宇佐氏に統治させ、大神氏の勢力が豊後路に及ぶのを阻止させたと考えます。それは周防灘を支配下に置いて吉備や大和との海路を確保するということでもあるようです。
倭人伝には記述がありませんが、宇佐には田河路における伊都国(田川郡)のような役割があり、宇佐氏は一大率のような立場にあったのでしょう。それに対し大神氏は「自女王国以北」の面土国王や奴国王と連携して、豊後を「刺史の如く」支配していたと考えます。
宇佐と卑弥呼・台与には関係がありそうですが、邪馬台国とする積極的な根拠は見えません。宇佐は豊後北部を勢力圏とする辛島氏、豊前南部を勢力圏とする土着の宇佐氏、そして豊後の大神氏という3勢力の抗争の地だったでしょう。
朝廷が宇佐神宮に遣わす勅使を「宇佐使い」と言い、弓削道鏡と和気清麻呂の神託事件のように、かつては伊勢神宮よりも重視されていました。伊勢神宮の祭祀が確立する以前の天照大神は宇佐で祭られていたのでしょう。
天照大神が伊勢で祭られるようになって、宇佐氏の祀る大日靈(天照大神、卑弥呼)は伊勢神宮内宮の天照大神になり、辛島氏の祀る豐比賣(豐比咩、台与)は外宮の豊受大神になると考えると面白いと思います。
その理由はよくわかりませんが、宇佐に神功皇后が祭られるようになったことで、大日靈と豐比賣は合成されて比賣大神になり、大神氏が祭っていたのは、元来はスサノオだったが宗像三女神になると考えます。
2011年1月2日日曜日
宇佐説 その2
もう一つの宇佐神宮の特殊神事の行幸会神事は、大分県中津市大貞の薦神社境内にある三角池(御澄池とも)で刈り取られたマコモ(真薦、苽)で枕が調製され、調製された新しい薦枕が宇佐郡内の10社を巡幸する神事です。
巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。
この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。
前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。
薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。
薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。
不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。
大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。
鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。
それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。
平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。
即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。
「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。
この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。
周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。
豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。
巡幸が終わると前回に調製された古い薦枕は国東半島東南端にある奈多八幡宮に納められ、奈多八幡宮にあった前々回に調整された薦枕と取り替えられます。奈多八幡宮にあった古い薦枕は愛媛県瀬戸町三机に運ばれ、海に流されたということです。
この神事の主体は薦枕ですが、薦枕は神社の神体の鏡を入れるマコモで作られた箱だと考えています。出雲大社・鹿島神宮・八坂神社などにもマコモを用いる神事があり、マコモには魔よけの力があるとされています。それを新品に取り替えることで神霊が蘇生すると考えられているのでしょう。
前回には宇佐神宮の神体の鏡の鋳造に香春の古宮八幡宮が関与したことを述べましたが、その神官の鶴賀氏は辛国(からくに、新羅)からの渡来民だと言われています。宇佐神宮の神官を出す家系には宇佐・辛島・大神の3氏がありますが、豊前には渡来系氏族が多く辛島氏も渡来してきた泰氏系の氏族だと考えられています。
薦枕が調製される薦神社は辛島氏の祭る神社ですが、豊前北部の田河・京都から築城・上毛郡にかけて泰氏系の渡来民勢力が存在し、南部の宇佐氏系土着民と対立していたことが考えられます。辛島氏が宇佐神宮に関与するのはそうした由来によるのでしょう。
薦枕の巡幸は宇佐郡の全域にわたりますが、巡幸先は古伝では8社、現在では10社とされていて、10社のうちの宇佐系神社は5社、辛島系神社は4社で、大神系は1社だけだということです。行幸会神事は宇佐氏・辛島氏の神事であり、大神氏との関係は薄いようです。
不思議なことは薦枕の巡幸に大神宝と呼ばれる鉾が同行することです。旧暦11月初午の日に神事が始まりますが、翌日の下毛郡(中津市大貞)の薦神社と、4日目の豊後国速見郡(山香町)の辛川神社には薦枕は巡幸せず大神宝の鉾だけが巡幸します。
大神宝の鉾だけが巡幸する薦神社と辛川神社は辛島氏と関係があるようで、大神宝の鉾を祀る宇佐氏が、銅鏡を祀る辛島氏を牽制しているような感じを受けます。薦枕の巡幸は宇佐氏に対抗して辛島氏が創りだした神事であり、大神宝の鉾は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来すると考えます。
鉾の巡幸については四国・対馬に青銅祭器の銅矛が巡幸する実例がありますが、宇佐の大神宝の鉾は青銅祭器の銅矛が巡幸したことを伝えているのでしょう。奈多八幡宮の古い薦枕が愛媛県瀬戸町三机に運ばれるのも、四国西部に分布している多数の広形銅矛が運ばれたことを表しているように思えます。
それには大神氏は関係していないと思われますが、その始祖の大神比義は大和大神氏の分流で宇佐神宮の創始に参画し、以後大神氏が禰宜職・大宮司職を継いたが、宇佐氏との抗争に敗れて豊後に本拠を移したとされています。
平安後期以後の大神氏は、豊後の大野川・大分川流域を勢力基盤にしています。この大神氏は宗像氏と深い関係があるようで、『日本書記』第3の一書は次のように述べています。
即ち日神の生れませる三の女神を以っては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。
「宇佐嶋」は宇佐神宮のことであり「海の北の道の中」は宗像大社のことです。宇佐神宮二の御殿の比賣大神を宗像3女神とする説は大神氏が持ち込んだのでしょう。
この伝承は筑後三潴郡の豪族、水沼君の伝えたもののようで、大神氏が宗像氏・水沼君と関係のあったことを表しているようです。私は始祖の明確なものを宗族とし、始祖が不明確で神話・伝説上の始祖を持つのが氏族だと考えていますが、宗像3女神は宗像氏・大神氏・水沼君の神話・伝説上の遠祖なのでしょう。
周防灘・豊後灘沿岸部の青銅祭器の分布密度を見ると、宇佐周辺がもっとも濃密です。このことは宇佐が如何に重要な地であったかを示していますが、大神宝の鉾の巡幸は宇佐氏が銅矛を配布した部族に属していたことに由来するのでしょう。
豊後国内の青銅祭器を見ると、筑後川流域には銅矛は見られるものの銅戈は見られず、逆に大野川流域には銅矛が見られません。そして宇佐では銅矛・銅戈が混在しています。大野川流域を勢力基盤とする大神氏は、筑前の宗像氏や筑後の水沼君と共に銅戈を配布した部族に属していたと考えます。
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