卑弥呼は倭国王であると同時に親魏倭王でもありますが、倭国王と親魏倭王とでは性格が違うようです。その卑弥呼は親魏倭王として隣国である出雲や大和の有力者の個々人に「邑君」「邑長」のような、魏の官職を与えることができたと考えています。
『魏志』韓伝には公孫氏が平定された後、韓の臣智と呼ばれる階層に邑君の印綬が授けられ、それに次ぐ有力者には邑長という位称が授けられたとありますが、『日本書紀』一書第十一の神話には月夜見尊が保食神を殺した後に「天の邑君」が定められたとあります。
この神話は248年から間もないころに女王国が狗奴国を討伐したことが語られているようですが、帰順してきた者に邑君・邑長のような魏の官職が授けられたことを表していると考えています。韓の臣智には邑君の印綬が授与されましたが、日本では邑君の印綬が授与された形跡はありません。
印綬は木簡を封印するための印と、それに付いている組紐ですが、西嶋氏は中国との間には三世紀にすでに「文書外交」が成立していたとされています。しかし倭人の間で「文書外交」が行なわれたようには思われません。
文字が一般化していない倭人の間では印綬は必要のないものですから、親魏倭王の卑弥呼が印綬に代わるものとして与えたのが銅鏡だと考えています。倭人伝に見える百枚の銅鏡は三角縁神獣鏡ではないかと言われていますが、このような大型の完境は高位の者に与えられたでしょう。
メダルのような小型の仿製鏡は副葬品として出土しますが、後漢鏡を故意に数個に分割した分割鏡は住居址で出土すると言われています。これらは邑君・邑長など下位の者に与えられたもので、邑君には宗族長階層が任ぜられ、邑長には門戸の長が任ぜられたのではないでしょうか。
熊本県山鹿市方保田東原遺跡で小型仿製鏡・分割鏡8点が出土していますが、この地は菊池川流域の中心地であり、狗奴国の官の狗古智卑狗との関係が考えられます。8点の小型仿製鏡・銅鏡を持っていたのは台与から邑君・邑長に任ぜられた狗奴国の有力者のように思われます。
部族の配布した青銅祭器は同族関係にある宗族であることを表しますが、銅鏡には印綬のような性格があって、女王国内の有力者に限らず、大和や出雲の有力者の中にも、卑弥呼の元に使者を送り貢物を献上して、魏の官職と銅鏡を与えられた者がいたと考えます。
後漢鏡は北部九州を中心として分布し、魏晋鏡は畿内を中心として分布することから、邪馬台国は畿内にあったと言われています。しかし親魏倭王の性格から見ると、女王国と敵対し親呉勢力になる可能性のある、出雲や畿内、及びその周辺の有力者に優先的に配布されたと考えるのがよさそうです。
高倉洋彰氏は小型仿製鏡の時期を3期に分け、2期の小型仿製鏡は後期中葉~後半に北部九州で作られ、3期(終末期~古墳時代初頭)の小型仿製鏡は北部九州と近畿及びその周辺で別個に作られたので、北部九州で出土しない鏡種があると指摘されています。(『三世紀の考古学』、学生社)
3期に畿内及びその周辺でも小型仿製鏡の製作が始まるのは、2期に卑弥呼が親魏倭王に冊封され、3期には畿内とその周辺でも部族制社会から氏姓制社会に変わる機運が出てきたということであり、邑君・邑長に任ぜられる階層を取り込む必要があったということだと考えています。
邑君・邑長の官職は親魏倭王以外には授けることができず、青銅祭器を配布した部族の部族長にも、稍を支配する王にもこの官職を授ける権限はなかったでしょう。これは女王国のみならず倭人社会全体に、部族が擁立した王と冊封体制によって権威づけられた親魏倭王という、二重のヘゲモニー(覇権・主導性)が存在しているということのようです。
それは弥生時代の部族社会が古墳時代の氏姓制社会に変わっていく接点に、卑弥呼がいるということでしょう。1月投稿の『出雲神在祭』で述べましたが、部族社会の統治方法は有力者が集まって合議する「寄り合い評定」でした。
それに対し氏姓制社会は大王(後の天皇)が氏族長に姓(かばね)を与えて統治を分担させ、大王は氏族を間接的に支配するものです。親魏倭王も宗族長など有力者個人に魏の官職を与えることにより間接的に倭人を支配するもののようです。
共に部族の存在理由がありません。大和朝廷の成立と共に部族は消滅し、部族の配布した青銅祭器は埋納されます。それに代わって登場してくるのが与えられた銅鏡を神体とする氏神の祭祀のようです。氏神は氏族の始祖を神として祀るものですが、銅鏡を与えられた人物が始祖とされているように思われます。
2010年5月25日火曜日
親魏倭王 その1
西島定生氏は卑弥呼の親魏倭王について、魏の皇帝と君主と下臣の関係にあるという意味の王だとされています。(『邪馬台国と倭国』、吉川弘文堂)他説では倭国王と親魏倭王の違いがほとんど考えられていません。
前回には推察ですが狗奴国が呉の冊封を受けていたのではないかと述べました。魏の側からすれば親魏倭王は、呉と連携しようとする国が出現するのを阻止するための王のように思われます。
後漢が滅ぶと魏の東部は公孫氏の支配するところとなり、公孫淵は233年に呉から燕王に冊封されます。公孫氏を滅ぼした魏は卑弥呼を親魏倭王に冊封して呉を牽制し、蜀を牽制するについてはクシャーン王国のヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封しています。
当時、魏西部の涼州の諸王も公孫氏と同様の立場にあり、周辺には月氏・康居などの西戎(中国の西に住む異民族)が居住していました。西嶋氏によると、227年に涼州の諸王が西戎の首長20余人を蜀に遣わし、蜀が魏と戦うなら蜀に加担すると申し出させたということです。
西嶋氏によるとこれに対抗して魏は229年にヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封して、西戎の親蜀勢力を牽制しようとしたようです。西嶋氏は当時ヴァースデーヴァ王の権威が失墜していた時期なので、その復興を魏との冊封関係に求めたのかも知れないとされています。
ヴァースデーヴァ王は「親魏大月氏王」に冊封されることによって、西戎諸国をクシャーン王国の支配下に置こうとしたのでしょう。卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことで、倭人社会の盟主であることが認められていたと考えられます。
卑弥呼の遣使は、景初3年の公孫氏滅亡直後の初回以後、①景初3年6月②正始元年、または2年③正始4年④正始6年⑤正始8年、または9年と、卑弥呼の死までほぼ隔年に行われています。
冊封体制には「九服の制」と呼ばれている考え方があり、『魏志』東夷伝の評語にもそのことが見えます。王(皇帝・天子)の住む城を中心にして五百里まで(千里四方)が王の支配する王畿(国畿)で、その外周は五百里ごとに九畿に区分されます。
九畿には諸侯が冊封されますが、王城から五百~千里を候畿といい、候畿に冊封された候服は一年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。千里~千五百里を旬畿といい、旬畿に冊封された旬服は二年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。
千五百~二千里を男畿といい、男畿に冊封された男服は三年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。57年に遣使した奴国王、及び107年に遣使した面土国王は一世に一度遣使すればよい蕃服だったようです。
卑弥呼は隔年に遣使しており、二年に一度入貢する義務のある旬服に相当する高位だったと思われます。秩禄二千石の郡太守は王、候、大夫、士の内の大夫に相当しますが、卑弥呼の元に使者を送ることは、洛陽の皇帝に使者を送るのには及ばないにしても、帯方郡に使者を送る以上の遣使をしたことになると思われます。
秦以後には王は皇帝・天子と呼ばれるようになり、諸侯が王と呼ばれるようになりますが、諸王が権力を持つと皇帝の座を狙うようになることから、政治の実権を持たされず俸禄を受け取るだけの存在になると言われています。
そのような意味では面土国王帥升の倭国王は名目だけで実権の伴わない王だと言えるようです。それに対し三国が鼎立する時代の魏は、卑弥呼・ヴァースデーヴァ王に対しては東夷の親呉勢力、西戎の親蜀勢力を牽制するための手段として、特別に隣国の有力者に魏の官職を与える特権を持たせたと思われます。
魏の官職を与えて懐柔しようというのですが、これを拒絶する者については武力によって討伐することになります。魏は難升米に黄幢・詔書を授与しますが、これは魏が難升米に軍事権を付与して親呉勢力の可能性のある狗奴国を討伐させたということでしょう。
前回には推察ですが狗奴国が呉の冊封を受けていたのではないかと述べました。魏の側からすれば親魏倭王は、呉と連携しようとする国が出現するのを阻止するための王のように思われます。
後漢が滅ぶと魏の東部は公孫氏の支配するところとなり、公孫淵は233年に呉から燕王に冊封されます。公孫氏を滅ぼした魏は卑弥呼を親魏倭王に冊封して呉を牽制し、蜀を牽制するについてはクシャーン王国のヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封しています。
当時、魏西部の涼州の諸王も公孫氏と同様の立場にあり、周辺には月氏・康居などの西戎(中国の西に住む異民族)が居住していました。西嶋氏によると、227年に涼州の諸王が西戎の首長20余人を蜀に遣わし、蜀が魏と戦うなら蜀に加担すると申し出させたということです。
西嶋氏によるとこれに対抗して魏は229年にヴァースデーヴァ王を「親魏大月氏王」に冊封して、西戎の親蜀勢力を牽制しようとしたようです。西嶋氏は当時ヴァースデーヴァ王の権威が失墜していた時期なので、その復興を魏との冊封関係に求めたのかも知れないとされています。
ヴァースデーヴァ王は「親魏大月氏王」に冊封されることによって、西戎諸国をクシャーン王国の支配下に置こうとしたのでしょう。卑弥呼は親魏倭王に冊封されたことで、倭人社会の盟主であることが認められていたと考えられます。
卑弥呼の遣使は、景初3年の公孫氏滅亡直後の初回以後、①景初3年6月②正始元年、または2年③正始4年④正始6年⑤正始8年、または9年と、卑弥呼の死までほぼ隔年に行われています。
冊封体制には「九服の制」と呼ばれている考え方があり、『魏志』東夷伝の評語にもそのことが見えます。王(皇帝・天子)の住む城を中心にして五百里まで(千里四方)が王の支配する王畿(国畿)で、その外周は五百里ごとに九畿に区分されます。
九畿には諸侯が冊封されますが、王城から五百~千里を候畿といい、候畿に冊封された候服は一年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。千里~千五百里を旬畿といい、旬畿に冊封された旬服は二年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。
千五百~二千里を男畿といい、男畿に冊封された男服は三年に一度、定められた品物を入貢する義務があるとされていました。57年に遣使した奴国王、及び107年に遣使した面土国王は一世に一度遣使すればよい蕃服だったようです。
卑弥呼は隔年に遣使しており、二年に一度入貢する義務のある旬服に相当する高位だったと思われます。秩禄二千石の郡太守は王、候、大夫、士の内の大夫に相当しますが、卑弥呼の元に使者を送ることは、洛陽の皇帝に使者を送るのには及ばないにしても、帯方郡に使者を送る以上の遣使をしたことになると思われます。
秦以後には王は皇帝・天子と呼ばれるようになり、諸侯が王と呼ばれるようになりますが、諸王が権力を持つと皇帝の座を狙うようになることから、政治の実権を持たされず俸禄を受け取るだけの存在になると言われています。
そのような意味では面土国王帥升の倭国王は名目だけで実権の伴わない王だと言えるようです。それに対し三国が鼎立する時代の魏は、卑弥呼・ヴァースデーヴァ王に対しては東夷の親呉勢力、西戎の親蜀勢力を牽制するための手段として、特別に隣国の有力者に魏の官職を与える特権を持たせたと思われます。
魏の官職を与えて懐柔しようというのですが、これを拒絶する者については武力によって討伐することになります。魏は難升米に黄幢・詔書を授与しますが、これは魏が難升米に軍事権を付与して親呉勢力の可能性のある狗奴国を討伐させたということでしょう。
2010年5月18日火曜日
倭人伝と稍 その3
卑弥呼は魏から四千里四方を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めず、その実質的な支配地は二千里四方(130キロ四方)でした。このように述べると邪馬台国は「水行十日陸行一月」とあり、投馬国は「水行二十日」とあるではないかという反論が出てくるでしょう。
『大唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。唐代の一里は約560メートルですから「歩及驢五十里」は日に28キロになり、これが30日だと840キロになります。
残念ながら『大唐六典』には海路の記載がありませんが、海路は気象条件に左右されるからでしょう。私は海路を馬・歩・驢の2倍の150~100里程度と見ています。「水行十日」は840~560キロになり、「水行二十日」だとその倍になりますが、女王国の南4千里に侏儒国があるというのですから、これが倭国内を移動する距離であるはずはありません。
日数は信用できないというのなら別ですが、事実だとすればなぜそのように書かれているかを考えてみる必要があります。倭人伝の地理記事は正始8年の張政の見聞ですが、邪馬台国・投馬国の水行・陸行についても張政の言動を推察してみるのがよいようです。
「水行十日陸行一月」の終点は内陸部であり、「水行二十日」の終点は海岸部であることが考えられます。魏都の洛陽は内陸にあり陸行が必要ですが、呉都の建業は揚子江の河口部にあり陸行の必要がありません。
邪馬台国の水行十日は840~560キロになりそうですが、これは邪馬台国から山東半島の登州までの所要日数に当り、また陸行一月は登州から洛陽までの所要日数に当るようです。「水行二十日」は投馬国から建業までの所要日数であることが考えられます。
正始6年に魏は倭の大夫、難升米に黄幢・詔書を授与していますが、難升米は239年に率善中朗将に任ぜられ銀印青綬を授けられています。中朗将は中央政府の官職ですが、黄幢・詔書は難升米に軍事権が追加付与されたことを表すものでしょう。
倭は載斯烏越らを帯方郡に遣わして、女王国と南の狗奴国とが不和の関係にあることを訴え、それに対し魏は難升米に黄幢・詔書を授与します。黄幢・詔書は正始8年(247)に張政が難升米の元に届けており、 張政は難升米に対し「檄を為して之を告喩」したと述べられています。
難升米はこれを大儀名文にして狗奴国の官の狗古智卑狗を殺すようです。それにしても魏皇帝の詔書が必要なほど深刻な不和の関係だったのでしょうか。私は背後に呉が絡んでいるように思っています。 卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封され、四千里四方(260キロ四方)を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めていませんでした。
狗奴国の男王の卑弥弓呼は、卑弥呼に対抗して呉から冊封を受けていたのではないでしょうか。そうだとすると女王国と狗奴国の関係は、魏と呉の関係でもあるということになり、そのために魏皇帝の黄幢・詔書が必要だったと考えることができます。文献に見えないので推察ですが、公孫氏の例もあり可能性があります。
もしもそうであれば何等かの兆候があるはずであり、北に隣接する投馬国(筑後)がそれを察知するはずです。張政は狗奴国と呉の関係を疑っており、難升米との問答の中でこのことが話題になったのでしょう。建業までの所要日数が伊都国から投馬国までの所要日数のように書かれているようです。
コースは二十日という日数から見て南西諸島沿いに南下し、沖縄あたりから東シナ海を渡る、遣唐使船の南島路であろうと考えます。朝鮮半島西南部・山東半島沿岸を経由して南下し、建業に至るコースも考えられます。
倭人伝の記事は正始8年(247)で終わり、その正始8年の記事には台与が掖邪狗ら20人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。張政の送還を兼ねての遣使でしたが、帰国する張政には掖邪狗らを洛陽に送るという新任務ができました。
掖邪狗らが洛陽に行くについては、邪馬台国から洛陽までの所要日数が話題になったのでしょう。それが投馬国から邪馬台国までの所要日数のように書かれているようです。そのコースは帯方郡・山東半島を経由する遣唐使船が通った北路だと思われます。
『大唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。唐代の一里は約560メートルですから「歩及驢五十里」は日に28キロになり、これが30日だと840キロになります。
残念ながら『大唐六典』には海路の記載がありませんが、海路は気象条件に左右されるからでしょう。私は海路を馬・歩・驢の2倍の150~100里程度と見ています。「水行十日」は840~560キロになり、「水行二十日」だとその倍になりますが、女王国の南4千里に侏儒国があるというのですから、これが倭国内を移動する距離であるはずはありません。
日数は信用できないというのなら別ですが、事実だとすればなぜそのように書かれているかを考えてみる必要があります。倭人伝の地理記事は正始8年の張政の見聞ですが、邪馬台国・投馬国の水行・陸行についても張政の言動を推察してみるのがよいようです。
「水行十日陸行一月」の終点は内陸部であり、「水行二十日」の終点は海岸部であることが考えられます。魏都の洛陽は内陸にあり陸行が必要ですが、呉都の建業は揚子江の河口部にあり陸行の必要がありません。
邪馬台国の水行十日は840~560キロになりそうですが、これは邪馬台国から山東半島の登州までの所要日数に当り、また陸行一月は登州から洛陽までの所要日数に当るようです。「水行二十日」は投馬国から建業までの所要日数であることが考えられます。
正始6年に魏は倭の大夫、難升米に黄幢・詔書を授与していますが、難升米は239年に率善中朗将に任ぜられ銀印青綬を授けられています。中朗将は中央政府の官職ですが、黄幢・詔書は難升米に軍事権が追加付与されたことを表すものでしょう。
倭は載斯烏越らを帯方郡に遣わして、女王国と南の狗奴国とが不和の関係にあることを訴え、それに対し魏は難升米に黄幢・詔書を授与します。黄幢・詔書は正始8年(247)に張政が難升米の元に届けており、 張政は難升米に対し「檄を為して之を告喩」したと述べられています。
難升米はこれを大儀名文にして狗奴国の官の狗古智卑狗を殺すようです。それにしても魏皇帝の詔書が必要なほど深刻な不和の関係だったのでしょうか。私は背後に呉が絡んでいるように思っています。 卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封され、四千里四方(260キロ四方)を支配する権限を与えられていましたが、南の狗奴国はこれを認めていませんでした。
狗奴国の男王の卑弥弓呼は、卑弥呼に対抗して呉から冊封を受けていたのではないでしょうか。そうだとすると女王国と狗奴国の関係は、魏と呉の関係でもあるということになり、そのために魏皇帝の黄幢・詔書が必要だったと考えることができます。文献に見えないので推察ですが、公孫氏の例もあり可能性があります。
もしもそうであれば何等かの兆候があるはずであり、北に隣接する投馬国(筑後)がそれを察知するはずです。張政は狗奴国と呉の関係を疑っており、難升米との問答の中でこのことが話題になったのでしょう。建業までの所要日数が伊都国から投馬国までの所要日数のように書かれているようです。
コースは二十日という日数から見て南西諸島沿いに南下し、沖縄あたりから東シナ海を渡る、遣唐使船の南島路であろうと考えます。朝鮮半島西南部・山東半島沿岸を経由して南下し、建業に至るコースも考えられます。
倭人伝の記事は正始8年(247)で終わり、その正始8年の記事には台与が掖邪狗ら20人を魏の都、洛陽に遣わしたことが記されています。張政の送還を兼ねての遣使でしたが、帰国する張政には掖邪狗らを洛陽に送るという新任務ができました。
掖邪狗らが洛陽に行くについては、邪馬台国から洛陽までの所要日数が話題になったのでしょう。それが投馬国から邪馬台国までの所要日数のように書かれているようです。そのコースは帯方郡・山東半島を経由する遣唐使船が通った北路だと思われます。
2010年5月12日水曜日
倭人伝と稍 その2
倭人の王も支配領域を六百里(260キロ)四方に制限されていたようですが、それを証明しているのが青銅祭器の分布だと考えています。青銅祭器の性格については様々な説がありますが、私は部族が同族関係の生じた宗族に配布したと考えています。
部族についてもこれまた確かな説がありませんが、高句麗伝・夫余伝には存在していることが述べられていますから、倭人社会にも存在したと考えてよさそうです。
大和朝廷が成立すると部族は消滅し、氏姓制社会に変わっていくようです。同時に部族の配布した青銅祭器は存在理由を失い、回収され埋納されると思われます。
図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものですが、上の図には中細形の分布が示されており、中の図には中細形C類~中広形の分布が示され、下の図には広形の分布が示されています。
上の図で銅利器と銅鐸の分布が交わる地域とされている中国・四国地方に、中の図では銅剣が分布していることが示され、下の図では青銅祭器が姿を消しています。
中細形・中広形の段階で中国・四国地方にこれだけ多数の青銅祭器が配布されながら、それが広形になると全く見られなくなるのは、銅剣分布圏に、共通する意思を持って行動する集団が存在しているということでしょう。
このことは北部九州の銅矛・銅戈や近畿の銅鐸についても同じだと考えてよいようで、私はそれを倭人社会にも稍が存在し、部族が稍を支配する王を擁立したのだと考えています。
下図は青銅祭器の分布から想定した稍ですが、青銅祭器の分布図と比較してみてください。図の円の直径は280キロほどになりますが、六百里(260キロ)と言ってよい大きさになっています。
北部九州の稍は銅矛・銅戈の分布圏であり、これを広い意味で「筑紫」と言うようです。中国・四国の稍は銅剣の分布圏であり、これが広い意味での「出雲」のようです。近畿を中心にした稍は銅鐸の分布圏ですが、固有の呼び方はありません。
図には示していませんが北陸地方の越や南九州の日向も稍を形成していたことが考えられます。また関東地方では青銅祭器の代りに「有角石斧」を祭器にしていたといわれていますから、関東地方にも稍が存在したことを考えなければならないようです。
北部九州の稍を設定するについては、銅矛の多い対馬と青銅祭器の分布する豊後・肥後北半を南北の限界にしています。中国・四国の稍については土佐の銅剣を南限とし、淡路の銅剣を東限にしています。
近畿を中心にした稍では西半に近畿式、東半に三遠式銅鐸が分布しています。これは偶然の一致ではなく、青銅祭器の配布に部族間の政治的な力が働いており、それが冊封体制に連動しているからでしょう。
冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に使節を送り、貢物を献上するのを妨害してはならないというものがあります。紀元前150年ころ衛氏朝鮮は辰国・真番(黄海道)を支配下に置き、漢に入貢しようとするのを妨害するようになりますが、武帝はこの職約を口実にして、衛氏朝鮮を滅ぼしています。
冊封体制は冊封を受けた国だけでなく、自動的に周辺の国にも及ぶようになっていました。冊封を受けたのは北部九州の銅矛・銅戈の分布圏の国ですが、隣の銅剣・銅鐸の分布圏にも自動的に及ぶようになっていたのです。青銅祭器の分布には冊封体制の変遷が如実に示されています。
1世紀の中細形は奴国王が後漢から「漢委奴国王」に冊封されたころの部族の状態を示しています。2世紀の中広形は面土国王が後漢から「倭国王」に冊封されたころの部族の状態を示しており、3世紀の広形は卑弥呼・台与が魏から「親魏倭王」冊封されたころの状態を示しています。
それが銅鐸の分布圏にも影響していることは明らかです。青銅祭器を配布した部族は稍を支配する王を擁立しましたが、その王は冊封体制によって支配地を六百里四方に制限されました。そのために稍によって分布する青銅祭器が違ってくるようです。
部族についてもこれまた確かな説がありませんが、高句麗伝・夫余伝には存在していることが述べられていますから、倭人社会にも存在したと考えてよさそうです。
大和朝廷が成立すると部族は消滅し、氏姓制社会に変わっていくようです。同時に部族の配布した青銅祭器は存在理由を失い、回収され埋納されると思われます。
図は島根県教育委員会編『古代出雲文化展』から引用させていただいたものですが、上の図には中細形の分布が示されており、中の図には中細形C類~中広形の分布が示され、下の図には広形の分布が示されています。
上の図で銅利器と銅鐸の分布が交わる地域とされている中国・四国地方に、中の図では銅剣が分布していることが示され、下の図では青銅祭器が姿を消しています。
中細形・中広形の段階で中国・四国地方にこれだけ多数の青銅祭器が配布されながら、それが広形になると全く見られなくなるのは、銅剣分布圏に、共通する意思を持って行動する集団が存在しているということでしょう。
このことは北部九州の銅矛・銅戈や近畿の銅鐸についても同じだと考えてよいようで、私はそれを倭人社会にも稍が存在し、部族が稍を支配する王を擁立したのだと考えています。
下図は青銅祭器の分布から想定した稍ですが、青銅祭器の分布図と比較してみてください。図の円の直径は280キロほどになりますが、六百里(260キロ)と言ってよい大きさになっています。
北部九州の稍は銅矛・銅戈の分布圏であり、これを広い意味で「筑紫」と言うようです。中国・四国の稍は銅剣の分布圏であり、これが広い意味での「出雲」のようです。近畿を中心にした稍は銅鐸の分布圏ですが、固有の呼び方はありません。
図には示していませんが北陸地方の越や南九州の日向も稍を形成していたことが考えられます。また関東地方では青銅祭器の代りに「有角石斧」を祭器にしていたといわれていますから、関東地方にも稍が存在したことを考えなければならないようです。
北部九州の稍を設定するについては、銅矛の多い対馬と青銅祭器の分布する豊後・肥後北半を南北の限界にしています。中国・四国の稍については土佐の銅剣を南限とし、淡路の銅剣を東限にしています。
近畿を中心にした稍では西半に近畿式、東半に三遠式銅鐸が分布しています。これは偶然の一致ではなく、青銅祭器の配布に部族間の政治的な力が働いており、それが冊封体制に連動しているからでしょう。
冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に使節を送り、貢物を献上するのを妨害してはならないというものがあります。紀元前150年ころ衛氏朝鮮は辰国・真番(黄海道)を支配下に置き、漢に入貢しようとするのを妨害するようになりますが、武帝はこの職約を口実にして、衛氏朝鮮を滅ぼしています。
冊封体制は冊封を受けた国だけでなく、自動的に周辺の国にも及ぶようになっていました。冊封を受けたのは北部九州の銅矛・銅戈の分布圏の国ですが、隣の銅剣・銅鐸の分布圏にも自動的に及ぶようになっていたのです。青銅祭器の分布には冊封体制の変遷が如実に示されています。
1世紀の中細形は奴国王が後漢から「漢委奴国王」に冊封されたころの部族の状態を示しています。2世紀の中広形は面土国王が後漢から「倭国王」に冊封されたころの部族の状態を示しており、3世紀の広形は卑弥呼・台与が魏から「親魏倭王」冊封されたころの状態を示しています。
それが銅鐸の分布圏にも影響していることは明らかです。青銅祭器を配布した部族は稍を支配する王を擁立しましたが、その王は冊封体制によって支配地を六百里四方に制限されました。そのために稍によって分布する青銅祭器が違ってくるようです。
2010年5月8日土曜日
倭人伝と稍 その1
韓伝・倭人伝の千里は三百里ではなく半分の百五十里のようです。百五十里は65キロですが、このことはその場所の明確な一支国(壱岐)の広さの「方三百里」、対馬国(対馬上島)の「方四百里」からも推察することができます。
壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は62,5メートルになりますが、この場合の一里は60メートルほどになります。
対馬海峡の巾は55キロほどであり、対馬の厳原と壱岐の勝本間も55キロほどで、これだと一里は55メートルになります。問題は一支国と末盧国の間の千里ですが、方位が示されておらず、呼子付近では近すぎるということで唐津とする説があります。
東夷伝の方位・距離の終点は国境ですから、東夷伝の記述目的からすれば千余里の終点は末盧国の海岸であればどこでもよいのです。倭国のおおよその方向が「帯方の東南の大海の中」と示されていますから、末盧国の距離を示して倭国の国境が分かればよいというのでしょう。
千余里の終点というわけではありませんが、私たちにしてみれば末盧国の記事にある光景はどの地点のことか気になります。私は「山海に浜して居す」などの記述から、唐津平野ではなく、呼子の光景であろうと思っています。
韓伝・倭人伝の千里は百五十里になりますが、東夷伝の千里には「王城を去ること三百里」に国境があるという意味もあります。韓伝・倭人伝の場合には三百里ではなく百五十里に国境があるという意味になることになります。
冊封体制は魏(中国の王朝)の制度であって郡の制度ではありませんが、通常の実務は郡が担当します。魏と関係する時には千里を三百里と思わなければならず、帯方郡と関係する時には百五十里と思わなければならないようです。
前回に韓の「方四千里」が実際には六百里四方であることを述べました。これは他の諸伝の「方二千里」に当りますが、稍の考え方の「方六百里」でもあります。
上の図は以前にも載せていますが、宗像郡土穴・田熊(面土国)を起点とした方位・距離を示しています。赤線の間隔は韓伝・倭人伝の場合の千里になり、他の諸伝の場合の五百里になりますが、いずれも65キロです。
私は女王国をそのまま佐賀・福岡・大分の3県と考え、狗奴国を熊本・長崎の2県と考え、侏儒国を鹿児島・宮崎の2県と考えればよいと思っています。女王国は渡来系弥生人の国で通婚関係にあった宗族に青銅祭器を配布しています。
狗奴国は縄文系弥生人の熊襲の国で、肥後の北半は青銅祭器を受け入れていますが、その他の地域は受け入れていません。侏儒国もやはり縄文系弥生人の隼人の国ですが、熊襲と隼人には形質的、地域・文化的な違いがあるようです。
その国境を二つの図で比較してみると、韓伝・倭人伝のいう二千里までが女王国になり、二千~四千里が狗奴国になり、四千~六千里が侏儒国になります。二千里ごとに国境があると見ることができますが、この二千里は他の諸伝の千里(130キロ)になります。
参考までに。倭の地は「惑は絶え惑は連なり、周旋五千余里ばかり」とありますが、これは長崎から鹿児島にかけての九州西海岸の距離です。
倭人伝は侏儒国について「女王を去ること四千余里」と記しています。これは田熊・土穴(面土国)の南四千里に狗奴国と侏儒国の国境があるという意味ですが、それを図で見ると肥後と薩摩の国境になります。倭人伝にはその距離が記されていませんが、筑後と肥後の国境が女王国と狗奴国の国境のようです。
それとは別に魏との冊封関係から、三百里(260キロ)を千里とする考え方も存在したようです。倭王は韓と同様に、冊封体制によって魏から四千里(韓伝・倭人伝以外の諸伝の二千里)四方を支配することを認められていたようです。
卑弥呼は女王国の王として二千里を実質的に支配していましたが、倭王としては四千里四方を支配する権限を持っていました。四千里には狗奴国も含まれることになりますが、狗奴国はこれを認めず、このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。その結果として卑弥呼の支配領域は実質二千里四方になっているのでしょう。
壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は62,5メートルになりますが、この場合の一里は60メートルほどになります。
対馬海峡の巾は55キロほどであり、対馬の厳原と壱岐の勝本間も55キロほどで、これだと一里は55メートルになります。問題は一支国と末盧国の間の千里ですが、方位が示されておらず、呼子付近では近すぎるということで唐津とする説があります。
東夷伝の方位・距離の終点は国境ですから、東夷伝の記述目的からすれば千余里の終点は末盧国の海岸であればどこでもよいのです。倭国のおおよその方向が「帯方の東南の大海の中」と示されていますから、末盧国の距離を示して倭国の国境が分かればよいというのでしょう。
千余里の終点というわけではありませんが、私たちにしてみれば末盧国の記事にある光景はどの地点のことか気になります。私は「山海に浜して居す」などの記述から、唐津平野ではなく、呼子の光景であろうと思っています。
韓伝・倭人伝の千里は百五十里になりますが、東夷伝の千里には「王城を去ること三百里」に国境があるという意味もあります。韓伝・倭人伝の場合には三百里ではなく百五十里に国境があるという意味になることになります。
冊封体制は魏(中国の王朝)の制度であって郡の制度ではありませんが、通常の実務は郡が担当します。魏と関係する時には千里を三百里と思わなければならず、帯方郡と関係する時には百五十里と思わなければならないようです。
前回に韓の「方四千里」が実際には六百里四方であることを述べました。これは他の諸伝の「方二千里」に当りますが、稍の考え方の「方六百里」でもあります。
上の図は以前にも載せていますが、宗像郡土穴・田熊(面土国)を起点とした方位・距離を示しています。赤線の間隔は韓伝・倭人伝の場合の千里になり、他の諸伝の場合の五百里になりますが、いずれも65キロです。
私は女王国をそのまま佐賀・福岡・大分の3県と考え、狗奴国を熊本・長崎の2県と考え、侏儒国を鹿児島・宮崎の2県と考えればよいと思っています。女王国は渡来系弥生人の国で通婚関係にあった宗族に青銅祭器を配布しています。
狗奴国は縄文系弥生人の熊襲の国で、肥後の北半は青銅祭器を受け入れていますが、その他の地域は受け入れていません。侏儒国もやはり縄文系弥生人の隼人の国ですが、熊襲と隼人には形質的、地域・文化的な違いがあるようです。
その国境を二つの図で比較してみると、韓伝・倭人伝のいう二千里までが女王国になり、二千~四千里が狗奴国になり、四千~六千里が侏儒国になります。二千里ごとに国境があると見ることができますが、この二千里は他の諸伝の千里(130キロ)になります。
参考までに。倭の地は「惑は絶え惑は連なり、周旋五千余里ばかり」とありますが、これは長崎から鹿児島にかけての九州西海岸の距離です。
倭人伝は侏儒国について「女王を去ること四千余里」と記しています。これは田熊・土穴(面土国)の南四千里に狗奴国と侏儒国の国境があるという意味ですが、それを図で見ると肥後と薩摩の国境になります。倭人伝にはその距離が記されていませんが、筑後と肥後の国境が女王国と狗奴国の国境のようです。
それとは別に魏との冊封関係から、三百里(260キロ)を千里とする考え方も存在したようです。倭王は韓と同様に、冊封体制によって魏から四千里(韓伝・倭人伝以外の諸伝の二千里)四方を支配することを認められていたようです。
卑弥呼は女王国の王として二千里を実質的に支配していましたが、倭王としては四千里四方を支配する権限を持っていました。四千里には狗奴国も含まれることになりますが、狗奴国はこれを認めず、このことが女王国と狗奴国の不和の原因になっているようです。その結果として卑弥呼の支配領域は実質二千里四方になっているのでしょう。
2010年5月3日月曜日
韓伝と稍
玄菟郡太守としての王頎の記事は挹婁の南境まで進んだところで終わっており、その後は帯方郡太守としての記事になります。正始7年、帯方郡太守の弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしましたが、韓はこれに応じず帯方郡の崎離営を攻撃して弓遵を戦死させます。
戦死した弓遵に替わって帯方郡太守に着任した王頎は、塞曹掾史の張政を倭国に遣わして、弓遵の戦死で帯方郡に留め置かれたままになっていた黄幢・詔書を届けさせています。韓伝・倭人伝の地理記事はこの時の張政の見聞です。
韓は帯方の南に在り、東と西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。方四千里ばかり。
倭人伝・韓伝以外の諸伝の距離を見ると、北沃沮が八百里とされている以外はすべて千里であり、その広さは例外なく「方二千里」となっています。東夷伝の地理記事は稍の考えに基づいて書かれています。ところが韓は2倍の「方四千里」になっています。
「方四千里」は520キロ四方ということになりますが、どのように見ても韓は520キロ四方もありません。図の韓と高句麗の円を比較すれば分かりますが、倭人伝・韓伝の千里は半分の百五十里(65キロ)です。
山尾幸久氏は東夷伝の里数値には「韓・倭人伝誇大値」と「他の実定値」があるとされています。(『魏志倭人伝の資料批判』立命館大学、1967年)山尾氏の言われる「他の実定値」とは、「王城を去ること三百里」を千里と称し、六百里四方を「方二千里」と称しているということでしょう。
それに対し、「韓・倭人伝誇大値」は百五十里を千里と称しているということのようです。山尾氏は方位・距離の基点・終点を国都などの「中心地」としていますが、「他の実定値」も「韓・倭人伝誇大値」も国境までであって中心地までではありません。
204年ころ公孫氏は楽浪郡屯有県以南の荒地を分割して帯方郡を設置します。帯方郡冶はソウル付近だと考えられていますが、嶺東(日本海沿いの地域)は濊貊が支配していますから、後に帯方郡がそのまま京畿道になると思えばよいようです。それは規定の郡の四分の一程度の面積しかないことになります。
上図はこのことを表していますが、帯方郡の位置を示す円が楽浪郡と重なり合う形になっています。これは帯方郡が楽浪郡を補助する郡であることを表していますが、同時に「稍をもって郡とする」という郡の規定を満たしていないことも表しています。
山尾氏の言われる「韓・倭人伝誇大値」は、帯方郡は郡が小さいのでそれに比例して千里も短いということでしょう。王城から三百里までを稍、二百里までを遂、百里までを郷といいますが、帯方郡は遂と郷の中間の大きさのようです。そこで帯方郡では百五十里を千里としているのでしょう。その実際の広さは「方三百里」になります。
「方四千里」は他の諸伝に見える「方二千里」と同じで六百里(260キロ)四方です。7年に弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしたのは、韓も冊封体制によって支配領域を制限されていたということでしょう。韓については倭人伝に次のように述べられています。
郡より倭に至るには海岸に沿って韓国を経る。乍(たちま)ち南し、乍ち東して狗邪韓国に至る。七千余里
七千余里は1050里(456キロ)になります。前回の投稿では現在の全羅南道と慶尚南道の境が南海島なので、狗邪韓国の西境を南海島付近としましたが、もっと西の全羅南道康津郡のあたりでなければ距離が合いません。訂正します。康津郡付近が七千余里の終点のようです。
万二千里については通説では帯方郡から邪馬台国までの距離とされています。帯方郡~末盧国間を一万里とし、これに伊都国までの500里を加え、残りの1500里が伊都国~邪馬台国間の距離だとされていますがこれは誤りです。
稍の考え方では方位・距離の終点は国境・海岸など境界ですから、万二千里の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。そうすると通説で末盧国~邪馬台国間の距離とされている二千里はどのような距離かということが問題になります。
この二千里(130キロ)は狗邪韓国の西境(全羅南道康津郡付近)から対馬国(対馬)への渡海地点までの距離であり、渡海地点は巨済島の西海岸になりそうです。つまり帯方郡から対馬国(対馬)への渡海地点までは七千里ではなく九千里なのです。
戦死した弓遵に替わって帯方郡太守に着任した王頎は、塞曹掾史の張政を倭国に遣わして、弓遵の戦死で帯方郡に留め置かれたままになっていた黄幢・詔書を届けさせています。韓伝・倭人伝の地理記事はこの時の張政の見聞です。
韓は帯方の南に在り、東と西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。方四千里ばかり。
倭人伝・韓伝以外の諸伝の距離を見ると、北沃沮が八百里とされている以外はすべて千里であり、その広さは例外なく「方二千里」となっています。東夷伝の地理記事は稍の考えに基づいて書かれています。ところが韓は2倍の「方四千里」になっています。
「方四千里」は520キロ四方ということになりますが、どのように見ても韓は520キロ四方もありません。図の韓と高句麗の円を比較すれば分かりますが、倭人伝・韓伝の千里は半分の百五十里(65キロ)です。
山尾幸久氏は東夷伝の里数値には「韓・倭人伝誇大値」と「他の実定値」があるとされています。(『魏志倭人伝の資料批判』立命館大学、1967年)山尾氏の言われる「他の実定値」とは、「王城を去ること三百里」を千里と称し、六百里四方を「方二千里」と称しているということでしょう。
それに対し、「韓・倭人伝誇大値」は百五十里を千里と称しているということのようです。山尾氏は方位・距離の基点・終点を国都などの「中心地」としていますが、「他の実定値」も「韓・倭人伝誇大値」も国境までであって中心地までではありません。
204年ころ公孫氏は楽浪郡屯有県以南の荒地を分割して帯方郡を設置します。帯方郡冶はソウル付近だと考えられていますが、嶺東(日本海沿いの地域)は濊貊が支配していますから、後に帯方郡がそのまま京畿道になると思えばよいようです。それは規定の郡の四分の一程度の面積しかないことになります。
上図はこのことを表していますが、帯方郡の位置を示す円が楽浪郡と重なり合う形になっています。これは帯方郡が楽浪郡を補助する郡であることを表していますが、同時に「稍をもって郡とする」という郡の規定を満たしていないことも表しています。
山尾氏の言われる「韓・倭人伝誇大値」は、帯方郡は郡が小さいのでそれに比例して千里も短いということでしょう。王城から三百里までを稍、二百里までを遂、百里までを郷といいますが、帯方郡は遂と郷の中間の大きさのようです。そこで帯方郡では百五十里を千里としているのでしょう。その実際の広さは「方三百里」になります。
「方四千里」は他の諸伝に見える「方二千里」と同じで六百里(260キロ)四方です。7年に弓遵が辰韓の8ヶ国を割譲させようとしたのは、韓も冊封体制によって支配領域を制限されていたということでしょう。韓については倭人伝に次のように述べられています。
郡より倭に至るには海岸に沿って韓国を経る。乍(たちま)ち南し、乍ち東して狗邪韓国に至る。七千余里
七千余里は1050里(456キロ)になります。前回の投稿では現在の全羅南道と慶尚南道の境が南海島なので、狗邪韓国の西境を南海島付近としましたが、もっと西の全羅南道康津郡のあたりでなければ距離が合いません。訂正します。康津郡付近が七千余里の終点のようです。
万二千里については通説では帯方郡から邪馬台国までの距離とされています。帯方郡~末盧国間を一万里とし、これに伊都国までの500里を加え、残りの1500里が伊都国~邪馬台国間の距離だとされていますがこれは誤りです。
稍の考え方では方位・距離の終点は国境・海岸など境界ですから、万二千里の終点は邪馬台国ではなく倭国の海岸でなければいけません。そうすると通説で末盧国~邪馬台国間の距離とされている二千里はどのような距離かということが問題になります。
この二千里(130キロ)は狗邪韓国の西境(全羅南道康津郡付近)から対馬国(対馬)への渡海地点までの距離であり、渡海地点は巨済島の西海岸になりそうです。つまり帯方郡から対馬国(対馬)への渡海地点までは七千里ではなく九千里なのです。
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