『日本書記』神功皇后紀三十九年条は、魏の景初3年(239)に卑弥呼が大夫の難斗(升)米を帯方郡に遣わした『魏志』倭人伝の記事を引用して、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせようとしていますが、神功皇后三十九年は大歳干支の己末とされ、その実年代は2運(120年)新しい360年ころであり、神功皇后が死んだとされる六十九年は390年ころだと考えられています。
広開土王碑文には391年に倭人が百済・新羅を臣民にしたとありますから、360~390年ころに朝鮮との関係が問題になっていたことは考えられてもよいことです。九州には朝廷が朝鮮半島に関与するのを批判する人々がいたと思われますが、その中には朝鮮半島からの渡来民と、その子孫がいたことが考えられます。
景行~仁徳の5朝に活動するのは紀・蘇我・巨勢・平郡・葛城など大和とその周辺を出自とする豪族が共通の祖としている武内宿禰(たけしうちのすくね)で、九州を出自の地とする伝承を持ち「天神」に類別される物部・中臣氏などは活動していません。
後の欽明・敏達・用明朝に蘇我氏と物部・中臣氏は仏教の受容を巡って対立しますが、武内宿禰が活動する裏では武内宿禰系氏族と、天神系氏族の間の対立がすでに始まっていたと考えるのがよさそうです。
『古事記』「日本書記」では朝廷の朝鮮半島政策を批判する人々がいたこと、及び武内宿禰系氏族と天神系氏族の間の対立があったために仲衷天皇は殺され、これとは無関係で継体天皇と関係のある神功皇后を仲介にして、やはり関係のない応神天皇が即位したことになっているようです。
『神功皇后摂政前紀』仲哀天皇9年条は応神天皇の誕生の地を宇美(糟屋郡宇美町)としていますが、応神天皇紀には「筑紫の蚊田に生れませり」とあります。蚊田については谷川士清の「日本書記通証」などは筑後国御井郡賀駄郷(小郡市平方)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(糸島市長野)としています。
粥田の庄について正応三年(1290)の高野山金剛三昧院文書に次のようにあります。遠賀川の下流は現在の直方付近まで大型船が遡上できたのでしょう。
下 西海道関渡沙汰人
早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人並びに運送船を勘過せしむべき事。右、関々津々、更にその煩いを致すべからず。勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って下知件 の 如 し
鎌倉幕府は粥田の庄を通過する人や船が停滞しないよう配慮せよと命じたようです。当時、元(蒙古)の再度の来襲が噂され、鎌倉幕府はその対応に追われていたようです。「粥田庄上下諸人並びに運送船」とあることから見て、遠賀川を上り下りする水運が停滞すると対応が遅れることが考えられたのでしょう。
粥田の庄はそれだけの価値を持つ地だったようですが、私は伊都国の「陸行五百里」は宗像郡の東郷・土穴から嘉麻・田河郡境の烏尾峠までの距離だと考えています。烏尾峠は頴田と田河郡糸田の境になりますが、大宰府と草野津(行橋市草野)を結ぶ律令制官道の田河道も烏尾峠を越えています。
頴田には鹿毛馬神護石も築かれています。私も当初、鹿毛馬神護石の存在理由が分りませんでしたが、地理的に見て響灘と周防灘を結ぶ要所で、九州東北部の中心といえる場所であることを考えるとその理由が分ってきます。
奴国は福岡平野ではなく鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えますが、頴田・香井田は嘉麻郡・鞍手郡に属します。「筑紫の蚊田」が頴田・香井田であれば、応神天皇は57年に遣使した奴国王の末裔であることが考えられるようになってきます。
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