狗邪韓国が金海・釜山でないことを述べてきましたが、これも『日本書記』神功皇后紀の編纂者が創作したもののようです。このように九州の古代史を探求していると必ず神功皇后に出くわし、そこで思考が止まってしまいます。
『日本書記』神功皇后紀の編纂者たちは天照大神が卑弥呼・台与であり、高天が原が邪馬台国であることを知っており、神功皇后を卑弥呼・台与とすることで高天が原は天空の彼方に存在するとし、九州から天照大神の痕跡を消したいようです。
斉明天皇は661年に朝鮮半島に出兵しますが、この出兵は白村江の戦いで大敗し、唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は、玄界灘沿岸や瀬戸内海沿岸に水城・山城などの防衛施設を設けています。動員された九州や西国の地方豪族の間に、一連の施策を批判する声があったことが考えられています。
天智天皇死後の672年に大海人皇子(天武天皇)と大友皇子の皇位継承に起因する壬申の乱が起きていますが、筑紫師(筑紫太宰)の栗隈王や吉備が、大友皇子を推す近江朝廷軍の参戦要請に応じなかったのはそのためだとも言われています。
天照大神が卑弥呼・台与であることを知っている神功皇后紀の編纂者は、神功皇后を卑弥呼・台与と思わせることによって、壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は天照大神の意志でもあり正当なものであるとしたいようです。
『魏志』倭人伝に「其北岸狗邪韓国」とあり、『後漢書』倭伝に「其西北界狗邪韓国」とあって、卑弥呼の時代にすでに倭国は狗邪韓国を支配していたと考えることができますが、これが朝鮮半島出兵の根拠だというのでしょう。
神功皇后の三韓征伐は斉明天皇の朝鮮半島出兵の反映でしょう。神功皇后は実在した人物でしょうが、朝鮮半島に渡ったというのは狗邪韓国を金海・釜山と思わせるために神功皇后紀の編纂者が創作したもので事実ではないと思います。
こうしたことから私は 斉明天皇+天照大神÷2=神功皇后 と思えばよいと考えますが、斉明天皇・天照大神・神功皇后には次のような共通点があります。
① いずれも九州に関係がある
② いずれも朝鮮半島に関係がある(あるとされている)
③ 即位の前後に王位(皇位)の継承を巡る争乱(混乱)があった
④ 異系の人物が後継の王(天皇)になっている
斉明天皇は出兵を指揮するために筑紫の朝倉橘広庭宮に皇宮を移し、ここで崩御しています。中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇の実子であって異系の人物というわけではありませんが、皇位継承までの経過を見ると何等かの問題があったようです。
645年には中大兄皇子・中臣鎌足らによって蘇我入鹿・蝦夷父子が粛清される「乙巳の変」が起き、皇極天皇は翌年に中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄皇子と中臣鎌足は相談して皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)を即位させます。
白雉4年(653)に中大兄皇子は皇族や臣下を引き連れて孝徳天皇が都としていた難波宮を引き払い飛鳥に帰ってしまいますが、孝徳天皇は憤死したとも言われます。その後も中大兄皇子は即位せず皇極天皇が重祚して斉明天皇になります。
天智天皇(中大兄皇子)の死後には壬申の乱が起きます。これは皇族間に皇位継承を巡る対立があったということでしょう。それは中央豪族間の対立でもあり、中央豪族と地方豪族の立場の差も一因になっているように思います。
神功皇后紀は斉明天皇の朝鮮半島出兵、及び壬申の乱の正当性と共に、応神天皇の誕生・即位の正当性も主張しているようです。応神天皇の誕生、即位について『古事記』神功皇后摂政前記には次のように記されています。
是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。〔此の時に其の三柱の大神の御名は顕れ給えるなり〕
底筒男・中筒男・上筒男の三神は住吉神社の祭神ですが、朝鮮半島との接点になりその影響が大きかった安曇・住吉など玄界灘沿岸の海人族を表しているのでしょう。『日本書記』は応神天皇の即位や壬申の乱、あるいは斉明天皇の朝鮮出兵は、天照大神や玄界灘沿岸の海人族の意思に適っていると言いたいようです。
bbbanzaiさま
返信削除読者登録していただいて有難うございます。最近マンネリになってきましたが新しいネタを探そうと思っていますので今後とも宜しく