九州王朝が存在したとする説がありますが、応神天皇や天智天皇の周辺に皇位継承を巡る何らかの問題があり、それを朝鮮半島と大和の朝廷の関係に結び付けると、九州と大和に別個の王朝があったことになるとゆうものだと理解しています。
それには大和朝廷の成立から大化の改新にかけての統治制度が氏姓制だったことが関係していると考えますが、弥生時代は宗族長層が通婚することで、女系(母系)血縁集団である部族を形成する「部族制社会」だったと考えています。
紀元前一世紀には倭人も楽浪郡を介して中国の冊封体制に組み込まれます。冊封体制は有力な氏族長に官位を授け統治を委任するもので、部族連盟国家の首長が中国の王朝から王の官位を与えられると、ここで初めて部族の首長は王になります。
この部族連盟国家が270年ころ統合されて大和朝廷が成立すると考えますが、その統治制度が氏姓制(うじかばねせい)です。氏姓制の大和朝廷は豪族の連合政権で、その統治も氏族の族長の合意によるものだったと考えます。
氏姓制下の天皇は大王・大君と呼ばれていますが、中央集権制の天皇と異なり弥生時代の王や氏姓制の君(きみ)の最高位のものといった位置づけだったのでしょう。
氏姓制では氏族長は土地・人民を私有することが認められ、姓が与えられて朝廷の統治を分担しましたが、律令制になると律令が整備されて姓は廃止され、氏族長の土地・人民の私有は認められなくなり(公地公民)、氏族は貴族や官僚を出すための組織になります。
律令が整備されたことによって天皇の統治権が確立しますが、氏姓制から律令制に変わるきっかけになったのは氏姓制の頂点にいた蘇我蝦夷・入鹿父子が排除された「乙巳の変」です。この事件をきっかけにして翌大化2年(646)に「大化の改新」の詔勅が出され天皇と豪族の支配・被支配の関係が明確になってきます。
しかしに改革が一朝一夕に成るということはなく「大化の改新」の時期を持統天皇の時代までとする考え方もあります。時代が降るに従って天皇の権力が強まってきますが、その初期はどのような状況だったのでしょうか。
図は三世紀に製作された青銅祭器の分布で、九州北部から四国西部にかけて広形の銅矛・銅戈が分布し、近畿・東海・四国西部に銅鐸が分布しています。
中国・四国北部では中広形の段階まで銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸が分布していますが、この時期になると製作されなくなります。そして3世紀の後半にはすべての青銅祭器が埋納され古墳が築造されるようになります。
3世紀後半に大和朝廷が成立して「部族制社会」が終わり「氏姓制社会」に移行すると考えますが、「欠史八代」といわれる時期の朝廷の実質的な支配が及んだのは、銅鐸分布圏の内でも大和とその周辺だけだったでしょう。
祟神天皇紀に北陸・東海・吉備・丹波に「四道将軍」が派遣されたことが記されていますが、祟神天皇のころになると図の銅鐸分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。
次の垂仁天皇紀では物部十千根を出雲に派遣して「出雲の神宝」を検校させたことが見えますが、これは出雲の祭祀権、つまり統治権を得たと言うことで、図の武器形祭器と銅鐸が混在している中国・四国が支配下に入ったと考えるとよいようです。
そして次の景行天皇は日向を拠点として熊襲の討伐を行いますが、これは広形の銅矛・銅戈の分布圏が朝廷の実質的支配下に入ったと考えればよいと思います。この景行天皇の熊襲討伐は豊前・豊後・日向・大隅・肥後・筑後に及んでいますが、それは筑後の浮羽郡で終わっており、筑前に入った形跡がありません。
筑前に入ったのは次の仲衷天皇と神功皇后です。仲衷天皇は神功皇后の降した神示に従わず熊襲討伐を強行したので神罰を受けて死んだとも、熊襲の矢を受けて死んだともされています。この熊襲とは何なのかが問題になりそうです。
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