「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」は出雲だけでなく北部九州(女王国)・大和・北陸(越)など各地で行われていたと思われますが、旧暦10月になると神々が会議に参加するために居なくなるという伝承が日本全国にあったようです。
それが何時しか神々は出雲に行くということになり、現在では出雲大社や佐田神社など、出雲の特定の神社に行くと考えられるようになっています。それでは「出雲神在祭」の祖形である「寄り合い評定」に参加した有力者たちは何処から集まってきたのでしょうか。
上図の赤点は青銅祭器の出土地で、それを青線で結んでいますが、緑色に塗り潰した斐伊川流域・宍道湖周辺に青銅祭器の大部分が集まっていて、それを象徴しているのが荒神谷遺跡であり賀茂岩倉遺跡だと言えそうです。
下図は四隅突出型墳丘墓の分布で、この墳墓は広島県の江の川流域で築造されるようになり、山陰に広まったと考えられていますが、中国山地の四隅突出型墳丘墓の分布圏には青銅祭器が見られません。
出雲の斐伊川流域や宍道湖の周辺では荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡を始めとする諸遺跡で大量の青銅祭器が出土していますが、その周辺の70~80キロ以内には全く見られなくなります。
備前の旭川、備中の高梁川、備後の沼田川、安芸の太田川の下流域には多数の平形銅剣や銅鐸が見られるのに、上流部には全く見られません。出雲東部の飯梨川・伯太川流域の安来平野は四隅突出型墳丘墓が見られながら、なぜか青銅祭器がまったく見られません。
伯耆の日野川流域では銅鐸が出土したと言われていますが、現存しているものはありません。黄色で塗り潰した地域では他にも出土している可能性がありますが、上図では出土したことの明らかなもののみを示しています。
江の川は広島・島根県を流域とする中国地方第一の大河で、広島県の古墳の3分の1が見られ、四隅突出型墳丘墓もこの地域で造られるようになったと言われていますが、流域の青銅祭器はわずか3個だけで、それも支流の最上流部での出土で中心部には全く見られません。
島根県石見町の銅鐸2個は江の川流域の文化圏というよりも、日本海沿岸の出雲の文化圏に属するものと見るのがよく、広島県西世羅町の銅鐸1個の場合も瀬戸内海に流入する芦田川・沼田川流域の文化圏に属すと見るのがよさそうです。
荒神谷遺跡の銅剣358本、賀茂岩倉遺跡の銅鐸39個を始めとし、現在の出雲国の青銅祭器は合計434口以上になりますが、この数は異常といえます。ところが斐伊川流域の周辺70~80キロ圏内に青銅祭器が全く見られません。
これらのことを考え合わせると、銅剣358本は斐伊川流域周辺の70~80キロ圏内から回収されたことが考えられます。上図の黄色に塗りつぶした地域に青銅祭器が見られないのは、回収が極めて整然と行われたということのようです。
前々回には荒神谷・賀茂岩倉遺跡に多数の青銅祭器が集まったのは「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」の合意によるものであり、それには強制力があったと述べましたが、斐伊川流域を中心とする70~80キロ圏内の神(有力者)が出雲神在祭に参集したと考えることができそうです。
吉備(備前・備中・備後・美作)の中国山地部分を「神話の出雲」とする認識はないようですが、神話で出雲という場合、単に律令制の出雲国だけを言うのではなく、その周辺が含まれていると考えるのがよさそうです。
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