2011年9月25日日曜日

大山津見神 その2

「出雲形銅剣」とも言われている山陰の中細形銅剣C類の祭祀は弥生時代後期後半(3世紀)にも続き、瀬戸内の平形銅剣の祭祀も続いていたと考えていますが「出雲形銅剣」の分布圏を神話の「出雲」とし、平形銅剣の分布圏を神話の「吉備」とするのがよさそうです。

図はこのことを表していますが、赤線で示した四国の太平洋側には西から広形銅矛が流入し、東からはⅣ-1式以後の新しいタイプの近畿式銅鐸が流入してきます。

広形銅矛・Ⅳ-1式以後の近畿式銅鐸が銅剣の分布圏を避けて流入していることは明らかですが、少数ながら中広形銅剣も見られ、四国の太平洋側では出雲・吉備とは異なる銅剣の祭祀も行われたようです。四国の瀬戸内側を神話の「吉備」とするのに対し、太平洋側を「土佐」と仮称してみました。

神話のイザナミについては銅剣を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、銅剣を配布した部族によって擁立された奴国王でもあると述べてきましたが、イザナミは火の神・カグツチを生んだことにより「神避り」して「根之堅洲国、或いは「黄泉の国」に居ることになっています。

「根之堅洲国」は倭人伝の奴国であり、それは筑前の遠賀川中・上流域だと考えていますが、それに対し「黄泉の国」は出雲とされています。2世紀初頭に奴国王家が滅ぶと、銅剣の分布の中心は中国・四国地方に移り、山陰では中細形銅剣C類(出雲形銅剣)が、また瀬戸内では平形銅剣が鋳造されます。

出雲が「黄泉の国」とされるのは、出雲が銅剣祭祀の中心になるということでしょう。前々回の投稿では2世紀末の倭国大乱以後、それに出雲市西谷墳墓群3号墓の被葬者が結び付けられて、出雲神話のスサノオになるのではないかという仮定を述べました。

弥生時代後半の部族は、男系(父系)血縁集団である宗族の族長階層が通婚することによって形成されていました。従って宗族の系譜は男系(父系)で辿ることになり、部族の系譜は女系(母系)で辿ることになります。

弥生時代は男系社会でしたから部族の始祖も男性でなければならず、神話・伝説上の男性始祖が創作されました。イザナギは銅矛を配布した部族の、また大国主は銅鐸を配布した部族の、スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の男性始祖です。しかしイザナミは女性とされています。

そのスサノオの出雲神話での女系の神統を辿ってみると、クシナタヒメ(櫛名田比売・奇稲田姫)、アシナツチ・テナツチ(足名槌・手名槌、脚摩乳・手摩乳)、及びオオヤマツミ(大山津見・大山積・大山祇)を介してイザナミに結びついてきます。

部族は女系(母系)血縁集団ですが、イザナギの生んだ児とされているスサノオが、出雲神話ではオオヤマツミの神統に「入り婿」の形で加わっています。

スサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖ですが、そのスサノオがオオヤマツミからクシナタヒメに至る女系(母系)の神統に加わることにより、同時に銅剣を配布した部族の男性始祖でもある、ということになっているようです。

このことが高天が原を追放されたスサノオがクシナタヒメを妻とし、オロチを退治して草薙剣を入手するというオロチ退治の神話になっているようです。草薙剣は銅剣を配布した部族を象徴しており、アシナツチ・テナツチやクシナタヒメは、出雲形銅剣(中細形銅剣C類)を祀っていた宗族なのでしょう。

イザナミは「黄泉の国」の出雲に居ることになっていて、死後のイザナミには子孫がありません。そこで銅剣を配布した部族の始祖はイザナミからオオヤマツミに代わり、その神統にスサノオが「入り婿」の形で加わり、さらにはその神統から銅鐸を配布した部族の始祖の大国主が出てくることになっているのでしょう。

2011年9月18日日曜日

大山津見神 その1

「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」は出雲だけでなく北部九州(女王国)・大和・北陸(越)など各地で行われていたと思われますが、旧暦10月になると神々が会議に参加するために居なくなるという伝承が日本全国にあったようです。

それが何時しか神々は出雲にということになり、現在では出雲大社や佐田神社など、出雲の特定の神社に行くと考えられるようになっています。それでは「出雲神在祭」の祖形である「寄り合い評定」に参加した有力者たちは何処から集まってきたのでしょうか。

それは「出雲神在祭」で言われているように日本全国の各地から集まるというのではなさそうで、上図はそれを推察してみようというものです。

上図の赤点は青銅祭器の出土地で、それを青線結んでいますが、緑色に塗り潰した斐伊川流域・宍道湖周辺に青銅祭器の大部分が集まっていて、それを象徴しているのが荒神谷遺跡であり賀茂岩倉遺跡だと言えそうです。
下図は四隅突出型墳丘墓の分布で、この墳墓は広島県の江の川流域で築造されるようになり、山陰に広まったと考えられていますが、中国山地の四隅突出型墳丘墓の分布圏には青銅祭器が見られません。

出雲の斐伊川流域や宍道湖の周辺では荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡を始めとする諸遺跡で大量の青銅祭器が出土していますが、その周辺の70~80キロ以内には全く見られなくなります。

備前の旭川、備中の高梁川、備後の沼田川、安芸の太田川の下流域には多数の平形銅剣や銅鐸が見られるのに、上流部には全く見られません。出雲東部の飯梨川・伯太川流域の安来平野は四隅突出型墳丘墓が見られながら、なぜか青銅祭器がまったく見られません。

伯耆の日野川流域では銅鐸が出土したと言われていますが、現存しているものはありません。黄色で塗り潰した地域では他にも出土している可能性がありますが、上図では出土したことの明らかなもののみ示しています。

江の川は広島・島根県を流域とする中国地方第一の大河で、広島県の古墳の3分の1が見られ、四隅突出型墳丘墓もこの地域で造られるようになったと言われていますが、流域の青銅祭器はわずか3個だけで、それも支流の最上流部での出土で中心部には全く見られません

島根県石見町の銅鐸2個は江の川流域の文化圏というよりも、日本海沿岸の出雲の文化圏に属するものと見るのがよく、広島県西世羅町の銅鐸1個の場合も瀬戸内海に流入する芦田川・沼田川流域の文化圏に属すと見るのがよさそうです。

荒神谷遺跡の銅剣358本、賀茂岩倉遺跡の銅鐸39個を始めとし、現在の出雲国の青銅祭器は合計434口以上になりますが、この数は異常といえます。ところが斐伊川流域の周辺70~80キロ圏内に青銅祭器が全く見られません。

これらのことを考え合わせると、銅剣358本は斐伊川流域周辺の70~80キロ圏内から回収されたことが考えられます。上図の黄色に塗りつぶした地域に青銅祭器が見られないのは、回収が極めて整然と行われたということのようです。

前々回には荒神谷・賀茂岩倉遺跡に多数の青銅祭器が集まったのは「出雲神在祭」の原形の「寄り合い評定」の合意によるものであり、それには強制力があったと述べましたが、斐伊川流域を中心とする70~80キロ圏内の神(有力者)が出雲神在祭に参集した考えることができそうです。

吉備(備前・備中・備後・美作)の中国山地部分を「神話の出雲」とする認識はないようですが、神話で出雲という場合、単に律令制の出雲国だけを言うのではなく、その周辺が含まれていると考えるのがよさそうです。

2011年9月11日日曜日

西谷墳墓群 その6

弥生時代には出雲だけでなく全国各地で「寄り合い評定」が行われていたようです。大和の纒向遺跡は卑弥呼の都であったと喧伝されていますが、初期の纒向遺跡もやはりそうした「寄り合い評定」の場だったと考えています。

そして出雲では西谷墳墓群の北2キロにある万九千神社付近が「寄り合い評定」の場になったと考えます。西谷墳墓群の2号墓・3号墓は復元されていて墳丘上に登ることができ、墳丘上からは斐伊川下流域を見渡すことができます。

その視界の中央に、万九千神社と立虫神社の2社が同じ境内で祭られています。万九千神社から斐伊川を渡った対岸の出雲市大津は、中世に陸路の山陰道と斐伊川による河川交通交差する港町として栄えた所です。

立虫神社は元は大津に近い所にあったが斐伊川の洪水で川筋が変わり現在地に移ったと言われています。大津の地名が示しているように万九千神社・立虫神社の付近は、弥生時代にあっても斐伊川流域の交通の要所になっていたようです。

そこが「寄り合い評定」の場になっていたようで、付近の地名を「神立」と言っています。「出雲神在祭」の最終日の晩に神々が万九千神社に集まって饗宴を催し、その後に各地に帰って行くのでこのように呼ぶと言われています。

仮に「寄り合い評定」に集まってきた人々が「寄り合い評定」の経てきた歴史を語り伝えたとしたら、その舞台は万九千神社周辺や、その南2キロにある西谷墳墓群が中心になるはずですが、事実、出雲平野や斐伊川流域・神戸川流域が神話の中心になっていると言えるようです。

西谷墳墓群の6基の四隅突出型墳丘墓の年代は1号墓・3号墓→2号墓→4号墓→6号墓・9号墓の順になりますが、1号墓・3号墓は後期後半の初頭倭国大乱のころになるそうです。私は倭国大乱が中国地方に波及してきたことが、スサノオのオロチ退治として語られていると考えています。

2号墓・4号墓は後期後半の中葉で、布波能母遅久奴須奴神、深淵之水夜礼花神・淤美豆奴神の活動する時期になりそうですが、八島士奴美・布波能母遅久奴須奴については具体的な活動が見られません。深淵之水夜礼花も水の神格であり斐伊川との関係を感じさせますが、この地との直接の関係を示すものがありません。

淤美豆奴については『出雲国風土記』の八束水臣津野と同神とする説があり、国引きについては意宇郡に伝承がありますが、万九千神社に近い斐川町富村の富神社には、国引きを終えた八束水臣津野がこの地に住んだという伝承があります。

『出雲国風土記』杵築郷の条、伊努郷の条にも八束水臣津野に関する記述が見え、少なくとも八束水臣津野については斐伊川の下流部や出雲大社の周辺が活動の場になっています。

6号墓・9号墓は後期後半末期~古墳時代初頭で、出雲神話では天之冬衣・大国主の活動する時期になりそうです。天之冬衣には日御碕神社の宮司家の祖という伝承があり、大国主は出雲大社の祭神になっています。

4号墓と6号墓の間に位置している5号墓は、四隅突出型墳丘墓ではなく詳細が不明ですが、4号墓・6号墓との位置関係から弥生終末期のものと考えられています。このように考えると3号墓の被葬者はスサノオであり、最大の9号墓の被葬者は大国主だということになってきそうです。

しかしスサノオは銅戈を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、一面では銅戈を配布した部族に擁立されて倭国王になった面土国王でもあります。また大国主は銅鐸を配布した部族の神話・伝説上の始祖であり、大和盆地の支配者という一面を持っています。

『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治が見られませんが、7代に亘る西谷墳墓群の被葬者の王統に、筑紫のスサノオや大和の大国主の事跡、或いは青銅祭器を配布した部族が結び付けられ、『古事記』『日本書記』の出雲神話が形成されたと見るのがよさそうです。

2011年9月4日日曜日

西谷墳墓群 その5

出雲市青木遺跡で銅鐸片が副葬品として出土したことは、青銅祭器の祭祀は後期後半も続いていたということでしょう。祭祀が終わるのは他の地域と同様に弥生時代の終わりになるようですが、四国の太平洋側では大型化した銅矛や銅鐸を受け入れているのに、瀬戸内や山陰はなぜ受け入れなかったのでしょうか。

この謎を解く鍵は出雲の特殊神事「出雲神在祭」にありそうです。旧暦の10月を「神無月」と言いますが、全国の神々が出雲に参集するために神々が居なくなるのでこのように呼ばれるとされ、出雲では逆に神在月になります。

宇佐神宮の放生会神事も規模の大きいことや、全国の八幡宮で行われることなど似ている点がありますが、「出雲神在祭」のように祭神の異なる神社が同じ神事を行うのではなく、全国から神々が集まるということも言われていません。

私は「出雲神在祭」の始原は部族の統治形態が「合議制統治」であったことによると考えています。小説家・思想家の白柳秀湖(1884~1950)は『民族歴史建国編』(昭和17年、千倉書房)で、出雲神有在祭がツングース族の「ムニャック」という「寄り合い評定」に似ていると述べています。

鮮卑は春に一族の代表がシラムレン河の河畔に集まり、国政の得失を論じ、それは巨帥(統領)の任免にまで及んだということです。「出雲神在祭」で神々が出雲に参集するのは宗族の族長など有力者が召集され、いわば今日の「通常国会」に相当するものが開かれたということで、異常時には「臨時国会」に相当するものも召集されたようです。

江上波夫氏は『騎馬民族』(中公新書)で、匈奴の国家運営形態を蒙古族のクリュリタイに似たものであったとしています。匈奴は遊牧生活の変わり目に国家的な祭典を行い、国事を議定し人民・家畜数を調査し、租税の徴収を計画したと述べられています。

それには匈奴国家を形成する全部族(宗族)が集合する義務があり、故意に出席しないのは国に対する重大な敵意・謀反と受止められて抹殺された言います。匈奴も鮮卑と同様に部族連合国家で巨帥(統領)が統治しており、一般の族長は大会に参加する義務があったようです。

鮮卑・匈奴の例などから見て、部族に擁立された倭人の王の支配権は極めて弱く、鮮卑の巨帥(統領)のようなものだったでしょう。出雲神有在祭の原形は有力者を招集して行われる、白柳秀湖のいう「寄り合い評定」だと思われます。

出雲の場合にも匈奴の例のように「寄り合い評定」に強制力があり、故意に出席しないと国に対する敵意・謀反と受止められて抹殺されることもあったでしょう。荒神谷遺跡・賀茂岩倉遺跡にこれだけ多数の青銅祭器が集まったのは「寄り合い評定」の合意によるものであり、それに強制力があったからでしょう。

出雲神在祭で神々が参集する目的には縁結びや会議の他に 、酒作りや料理のためとするものもありますが、第一の目的は「縁結び」だったと思います。出雲大社が「縁結びの神」とされるのは祭神の大国主に多数の妻が居ることから艶福の神とされ、良縁に恵まれるからだと言われています。

これは俗説であって、「縁結び」とは部族が勢力を拡大しようとして通婚を強要し、それが争乱に発展したことから、強引な通婚と青銅祭器の配布を規制するものであったと考えます。余談ですが出雲の神は縁を結ぶ神であると同時に、道ならぬ縁を戒める神でもあるということになりそうです。

通婚を国家権力で規制すれば、部族は勢力を拡大することができず争乱も起きなくなります。これは部族の構成が固定されるということであり、青銅祭器を配布する必要がなくなるということです。

それに伴って「寄り合い評定」を召集する王(巨帥・統領)や、それに参加する宗族長など有力者個人の権威が高まり、四隅突出型墳丘墓が急に大型化する考えられます。青銅祭器を製作・配布するエネルギーが、墳墓を巨大化させる方向に向かったとも言えるでしょう。

それが青銅祭器の祭祀が行われなくなったと考えられているのですが、「寄り合い評定」は合意があって初めて機能します。女王国では部族間の対立があり卑弥呼の下した神意が合意と見なされたようですが、出雲の場合には通婚を規制して部族の対立を防止する「根回し」が行われていたようです。